先が見えない それでもー1ー

※ヒノ弁が他人。
※弁慶が双子だったら…?
※弁慶の設定が『鬼とのハーフ』で、原型なし。



瞳に映した瞬間に、酷く惹かれた。

彼に出会ったのは、ほんの気まぐれで、市から随分離れた界隈まで足を伸ばした時だった。
今気に入っている姫君たちの元へは一通り逢瀬に行ったものの、夜まで居ようという気にはなれずに…。
退屈凌ぎに見て回った市の品も、質の良い物は少ないようである。
風の向くまま気の向くままとは、よく言ったもので…。
ヒノエは特に目的もなく、散策を始めたのだった。
道なりに進んで行けば、人気のない荒んだ界隈に辿り着いた。
静か…と言えば聞こえは良いのだが、かなり寂れているようだ。
ふいに目線をやった先、そこにひっそりと建っていたのは納屋…とまではいわないが、本当に小さな庵。
庵は遠目に見ただけで分かる程に、随分と古びており、人が住んでいるとは思えない。
しかし、生活独特の匂いや雰囲気は感じ取れたから、誰かが住んでいるのは間違いないようだ。
そこへ見計らったかのように、庵から出てきた人物にヒノエは目を奪われた。
蜂蜜色の緩やかな髪に澄んだ琥珀色の瞳…、本当に綺麗な姿をしている。
無意識の内に緋色の瞳は見開いて、彼を見ているだけで頬が朱に染まっていく。
自分と同じ歳頃のようだが、少しばかり大人びているように思えた。
彼を瞳に映した瞬間に、今までにない程に…そう、誰よりも強く心惹かれた。
見目麗しい面立ちは勿論の事、まだ成長しきっていない未熟な身体も一見女人のようにも見える。
だが、身に付けている物は男の着物だった為に、それを間違える事はなかった。
何やら庵の中へと声を掛けたその儚気な微笑みに…指先一つまで軽やかな仕草に、鼓動が高鳴っていく。
…どうやら自分は、この少年に俗に云う“一目惚れ”というやつをしたらしい。
思わず声を掛けようとした矢先に、少年の琥珀の瞳と自分の緋色の瞳が交わった。
「っ、!?」
しかし、少年は琥珀色の瞳にヒノエの姿を映したその途端に、怯えた表情を見せた。
そして止める間もなく、身を翻し庵の中へ身を潜めてしまった。
「……あ」
どうやら、見計らったかのようなそれは本当に偶然だったようだ。
…人見知りをする質なのだろうか?
ヒノエは一寸残念そうに、少々癖のある緋色の髪を巻き込んで頭を掻いた。
何もいきなりに取って喰おうとしたわけでない、…ただ、話をしたい、声を聞きたい。
…名だけでも、知りたかっただけなのだ。
それに一度くらい避けられたからと言って簡単には諦めきれない。
自分は本気で彼に惹かれたのだから…。
先程、彼は桶を持っていたから水を汲みに行くのだろうが、この辺りに井戸はない。
恐らく、近くの川まで出向くのだろう。
…その時に声を掛けてもいいだろうか?
ヒノエがそんな事を思案していた時、庵に逃げ込んだ少年は恐怖に身体を震わせていた。
「……っ、何で…?」
出掛ける間際に母に声を掛け、いつものように用を済まそうとしただけだったのに…。
庵から少し離れた位置に見慣れぬ少年がいた。
その緋色の少年は、確実にこちら…自分を見ていた。でなければ、目線が合うはずがない。
その理由は憶測する必要もない。
理由は、この髪と目の色が珍しい?…この“鬼”の色を畏れる?この色が、気に入らない…?
それしかない。
無意識に両手で緩やかな蜂蜜色に触れていた。
「ゃ……っ」
その拍子に支える手を無くした桶は地に落とされた。
桶の音が庵に響く…。
「どうしたの、弁慶?出掛けたのではなかったの?」
小さな悲鳴と物音に、床に伏せっていた母親が少年…弁慶へと心配気に顔を向けた。
母の表情に驚きと僅かに怯えがあるのを見て、震える指先で慌てて桶を拾い上げる。
「な、何でもないんです…母上…っ」
弁慶は取り繕ろうに弱く笑った。
「手を滑らせてしまっただけです。すみません、僕の不注意で驚かせてしまって …」
母の瞳は生まれ付きに光を失っている。それを補うかのように、音に敏感なのだ。
常であるならば、そんな母を気遣い騒々しい物音を立てないようにしているのだが…。
今はそんな余裕はなく、つい配慮を怠ってしまった。
「いいのよ、弁慶。…でも、気を付けて出掛けなさいね」
「はい……行ってきます」
弁慶は自分を奮い立たせると、これ以上の心配を母に掛けたくない一心で、恐怖の対象でしかない庵に外に出た。
まだ昼間だと云うのに空には太陽の加護はなく、生憎と曇空…。
日など差していないのに太陽のように眩い緋色の髪と瞳を持った、身なりの良い綺麗な少年は、まだそこにいた。
弁慶は出来る限り目立ぬようにと、身を縮ませて歩いていく。
どうか…僕には構わないで…。
心の中で幾度も祈ったが、通り過ぎようというその時に、無情にも声は掛けられてしまった。
「ねぇ、あんた」
「…っ!」
身体が恐怖に大きく跳ねる。
もし、この声を聞き流すなどしたら、何をされるか分からない。
…ただでさえ、先程は逃げてしまったのだ。
実際に幾度も、言い掛かりのような理由で乱暴されてきたのだから。
「…な、何用で御座いま、しょうか?」
機嫌を損ねないようにと、懸命に心を砕きながら言葉を紡ぐ。
「オレはヒノエっていうんだけどさ…あんたの名前は?」
「……ヒノ…エ…」
聞き覚えのある“ヒノエ”という名は、現在の熊野別当である藤原湛増の通り名だ。
この庵の周辺で閉鎖的な暮らしているが、その程度の事ならば常識として知っている。
それに、この少年の容姿…緋色の髪に緋色の瞳、…聞き及んでいた別当の特徴に間違いない。
「熊野の頭領様……」
「ふふっ、よく知ってるね。…嬉しいよ」
好いている者が自分を知っていてくれた事が素直に嬉しくて、ヒノエは口の端に笑みを浮かべた。
ヒノエは純粋に嬉々として笑んだだけでも、弁慶にはそれさえも恐怖の対象にしか映らない。
「それでさ、あんたに用があるんだ」
「……え、?」
間の抜けた声が出た。
熊野別当が自分などに私事の用があるはずもない。
ならば、“鬼”の子を処罰する為に来たとしか考えられなかった。
田畑を荒らした、川に毒を流した、疫病を蔓延させた、穢れを撒いた。
今日はどんな言い掛かりの元、罰せられるのだろう?
殴られる?嬲られる?
否、熊野の別当が直々に来たのだ。…いつかされた時のように乱暴されるだけでは済むまい。
罪に手を染めた事など一度もないのに、“鬼”の子という理由だけで…殺されてしまう?
……恐い、恐い恐い。
「ぁ………っ、!」
恐怖に身体の震え足がすくむ。
顔から血の気が引き、嫌な冷や汗が伝わった。
「あんた……大丈夫か?」
元より白い肌を人形のように蒼白くして小刻みに震える様に、ヒノエは僅かに眉を寄せた。
おかしい…、人見知りをする質にしては、流石に怯え過ぎている。
「具合が悪いなら…」
「…っお、お許し下さい…!」
心配になり手を伸ばし掛けた途端に、彼は弾かれたように身体を跳ねさせると地へ平伏した。
「母も弟も…私も何も罪を犯してなどおりません…っ!」
「ぇ、っ?」
ヒノエが突然の行動を理解する前に、許しを乞う言葉が震える唇から次々と紡がれていく。
「…もし、産まれながらに穢れたこの身体が罪だと云うのならば、私だけを罰して下さい…!」
咎を避けられないのなら、せめて母と弟だけは助けたい。
その為ならば、何でもする。
元より自尊心など、あってないようなものだ。
自分の懇願で二人の命が助かるのならば、土下座など易い。
「母の瞳には一筋の光も射しません…相手を鬼と知らなかっただけで!…っ弟も …たまたま、顔を知らぬ父に似てしまっただけで…!」
今の熊野別当は慈悲深いとの噂も聞いた事があった。
ならば、ほんの僅かでも同情をもらえれば、助けてくれるかもしれない。
だが、同情をもらう為の嘘かと言われると、そうではない。
偽りなど述べても仕方がない、これは真実だ。
母は相手を鬼と知らずに交わった。
自分の色も随分と淡くはあるが、弟は“鬼”の色をそのまま受け継いでいる。
…ただ、それだけだ。
それさえも罪だと云うのならば、見せしめになるのは自分だけで十分ではないか。
「ですから…罰するのでしたら、私だけを……!」
強く瞳を閉じると堪える事ができない涙が溢れ、目尻を濡らした。
「…大丈夫だよ、オレは誰も処罰しないから」
ヒノエはようやく理解した。
彼は自分が別当として、彼や親類を咎めにきたと思ってのだ…と。
「怯えないで?…オレはそんなつもりで来たんじゃないんだ」
今すぐにでも身体を掴み顔を上げさせたかったが、怯えきっている彼に、それは逆効果だ。
少しでも警戒を解いて貰らえるように、出来うる限りに優しい言葉を選ぶ。
「だいたい、オレがあんたを罰する必要も、咎める必要もないからね」
自分が彼に惹かれているという欲目を差し引いても、この儚気な少年が何か罪を犯しているとは思えない。
「お願いだから、顔を上げてもらえるかい?」
「…です、が…私は…っ」
「いいから、顔を上げて?」
弁慶が促されるままに恐る恐る顔を上げると、相手の手が自分に向かってくる。
反射的に、殴られる…と身を縮ませた。
「額を地に付ける潔さ、か…ますます気に入ったよ…」
「っ、?」
だが、顔に触れたのは思っていたような痛みでも衝撃でもなかった。
そっと瞳を開けば、相手が身に付けていた上衣の袖で、額の土埃を拭われていて …。
「…綺麗な顔が汚れたままじゃ、勿体ないからさ」
「っそのような…御着物が汚れてしまいますっ…私は平気ですから…」
見上げて、瞳に映ったのは優し気に微笑んだ緋色の少年。
眼前にその整った顔が在った事にも、その優し気な行動にも狼狽してしまう。
こんな風に扱ってもらった事は過去に一度しかなかった。…もっとも、それは偽りでしかなかったのだが…。
弁慶は慌てて立ち上がり数歩、身を引く。
「あんた、名は?」
「……私は…弁慶と申します」
着物に付いた土埃を払っていた手を止めると、恐る恐ると俯いたまま名を告げた。
次いで、ヒノエに土埃が飛ばないように気を付けながら、それを払う動作を繰り返す。
「弁慶、か…良い名だね、あんたに合ってるよ」
消え入りそうな小さな声で紡がれた彼の名を口にすると、柔らかな暖かいもの胸に広がった。
「あ、りがとうございます…」
「…ねぇ、弁慶。川へ行くんだろ?」
先程、弁慶が頭を下げた際に放り出す形になった桶を拾い上げると、ヒノエは持ち主に差し出す。
「ど、どうして、藤原様がご存知な……あっ」
何故知っているのかと一瞬驚いたが、桶を受け取って納得した。
井戸がないここでは、水を汲むには川に行くしかない事は安易に憶測できる事だ。
「ふふ、ヒノエでいいんだよ?」
「いいえ…私のような卑しき者にはその名を御呼びするなど恐れ多き事に御座います…」
ヒノエと告げられたその名を呼ぶのは恐れ多くて、“藤原”の名を口にする。
「よかったら、一緒に行こうよ。…川に付いたらちゃんと土、水で洗わないとね」
「ふ、藤原様のお好きなようにして頂いて結構です…」
共に行きたい…予想もしていなかったヒノエの申し出。
当然、驚きは隠せないが、そもそも、自分にはそれを拒否する権利などない。
弁慶は狼狽したままで頷いた。
「ですが…その…川へ行くのは帰りになります…。まずは、薬草を摘みに行きたいと……」
「薬草?…その腕の傷にかい?」
ヒノエの目線が袖の隙間から覗いた腕に刻まれた傷に注がれた。
少し前に乱暴された時の傷…錆びかけた鎌で斬られたそこは、傷の深さを物語るように生々しく痕を残していた。
傷は治癒したようだが、痕や痣は簡単には消えてくれない。
「い、いえ…私ではなく。…その私の母は病を患っているんです…」
ヒノエの目線に気付いた弁慶は、慌てて簡素な着物の袖、その下に痛々しい傷痕を隠す。
「以前は薬師様に診て頂いておりましたが…とても、持続できるような銭は…」
本当は薬師に頼らなくなったのは銭の所為ではなかったが、あえて話す事でもない。
真実を隠して嘘を吐かない…それが一番だと知っている。
「ですから、真似事になりますが、私が薬を煎じております」
薬草の煎じ方は薬師のそれを見て覚えた。
そう毎夜の如く、すぐ傍で作業を見ていたから、真似事をするのは簡単だった。
「母君の看病も大変だろうに…」
隠しているつもりだろうが、彼の身体に不自然な傷や痣があるのは見逃していない。
痛々しく傷付いた身体、人に対する異常な怯え方、それに淡い色合いの髪と瞳。
何より先程の彼の言葉。
これから導き出せる答えは一つしかない。
「ねぇ、弁慶……何でこんな所にいるんだい?」
ここは土も痩けていて作物もろくに育たない上に、井戸もない。
ただでさえ暮らすのが難儀な場所なのだ。
病を患った者がいるならば尚更、集落で暮らすのが良いに決まっている。
だが、そこにはいられない。
「幼子の頃はそれでも居れたのですが…。私たちは…皆様とは共に暮らせないのです」
「……“鬼”だから、かい?」
きっと、それがこんな外れにまで追い遣られた…迫害された原因なのだろう。
「はい…」
弁慶は苦く笑うしかできなかった。
「……母は鬼と交わった気の触れた女、私と弟は鬼の子ですから…」
まだ集落にいた幼い頃、投げられた石の痛みと共に、言葉の痛みも染み付いて… 。
言われ続けた嘲りの言葉をそのままヒノエに伝えた。
「あんたが……本当に鬼の子かなんて、分からないだろう?」
「いいえ…私たちは確かに鬼の子なのです」
確かに自分の毛色は、伝承に伝わる“鬼”ではないが、刻を同じくして産まれた弟は“鬼”のそれだ。
過去にヒノエのように自分を鬼ではないと言った者も、いなかったわけではない。
しかし、大抵の者は後に、手の平を返したように、鬼だ穢れだと騒ぎ立てる。
「…皆、畏怖し嫌悪する。…それが当たり前なんです」
「でもさ、鬼ってのは金の髪に青の瞳なんだろ?…あんたの蜂蜜色の髪に、琥珀の瞳は違うじゃないか」
緩く左右に首を振りヒノエが言えば、弁慶は悲しそうに微笑む。
「……あり、がとうございます…私には…勿体ない御言葉、です…」
…そう、この言葉が痛いのだ。
自分は色が金の髪でも碧い眼でもないから“鬼”とは違う。
…ならば、姿を同じに産まれた弟は“鬼”と言われたも同然で…。
あの子は、ただ“鬼”の毛色をしているだけなのに、自分より余程、辛い思いをしているだろう…。
そんな弟を思えば、ヒノエからの言葉は喜べなくて…。
「おや、弁慶。どうしたんですか、騒がしいようですが…」
ふいに聞こえた声に、二人はそちらを見る。
話すのに夢中で庵の前から移動はしていなかった。
いつの間にか庵の傍まで来ていた被衣を身に付けた人物は、声や背丈から察するに、…弁慶と同じ程の少年だ。
「…あ、おかえりなさい、鬼若」
噂をすれば影、弁慶は聞こえた自分と酷似した声色に一瞬だけ反応が遅れた。
「ただいま、弁慶」
弁慶がそちらを見れば、二人は互いに心底安堵した表情を浮かべる。
ヒノエは、会話から二人が親類だとすぐに分かった。
ならば、先程の懇願の言葉に出てきた“弟”とは、この少年だろう。
「弁慶…着物が汚れていますよ、大丈夫ですか?」
「嗚呼、これですか。僕は平気ですよ…鬼若」
少年…弁慶に名を呼ばれていたので鬼若は、足早に弁慶へと歩み寄った。
弁慶と鬼若は、掛け値なしに似ていた。
被衣の下から僅かに見えた鬼若の面立ちは、本当に鏡に映したかのように同じである。
違うのは、浮かべている表情と、身に纏っている着物くらいなものだった。
「彼が弁慶の弟殿かい?…鬼若だったかな?」
「あ…はい。藤原様、この子が…僕の弟に御座います」
ヒノエの言葉に弁慶は傍らに立つ自分の片割れを示した。
「…初めまして、鬼若と申します」
臆する事なく被衣を外してみせた鬼若は、軽く頭を垂れた。
宙に広がるのは蜂蜜色より薄い淡い金の髪…、鬼若が顔を上げると海を思わせる青い瞳と目があった。
ヒノエは途端に息を一つ飲んだ。
嗚呼、…だから弁慶は悲しそうに笑ったのか。
「ごめん…弁慶。さっきの言葉、取り消させてもらうよ」
「……ぁ」
先程の言葉と言えば、自分を鬼ではないと言ってくれたものだろう。
弁慶は小さく胸の奥が痛んだ。
伝え聞く“鬼”の容姿をした鬼若を見れば、そう思うのが当然なのだろう…。
今までもそうだった。
自分と同じ容姿で色だけが違う鬼若を見た途端に、“鬼”と罵るのだ。
「さっきの言葉なら、鬼若は鬼になってしまうからさ。…弁慶も鬼若も鬼じゃないんだ…取り消させてくれるね?」
「………藤原様…」
耳に落ちた言葉が信じられなかった。
きっと、ヒノエも同じだろうと、思っていたのに…。
ヒノエは鬼若を見た上で、自分も鬼若も“鬼”ではないと言ってくれたのだ。
「…も、勿論です…!」
弁慶は喜びを隠せずに、嬉しそう小さく笑んだ。
「……ようやく、オレに笑顔を向けてくれたね」
その笑顔は想像していたよりも、ずっと綺麗で…鼓動が大きく鳴った。
ヒノエは弁慶に笑みを返してから、改めて…と鬼若へ向き直り、その顔をまじまじと眺める。
「それにしても……へぇ、本当によく似てるね」
確かに、鬼若も綺麗だと思う。
身に纏う着物は弁慶とは違い女人の物、更に被衣のそれも相まって…。
知らずに眺めただけならば、女人と勘違いしただろう。
弁慶よりも素直に感情を露にさせる表情や瞳も、実に可愛いらしい。
だが、弁慶を初めて見た時のように、頬が朱に染まる事も鼓動が高鳴る事もなく …強く惹かれる事はなかった。
「オレはヒノエだよ、鬼若」
「……ヒノエ、…熊野の別当殿ですか」
鬼若は相手の名と態度に思わず驚いて、青の瞳を僅かに見開く。
そのように初対面の者に対し、わざと被衣を外してみせるのは鬼若なりの“秤” だった。
大抵の嫌悪感を露にする者は鼻に掛ける価値もない、そうでない者は目に掛けるようにする。
それと、顔を隠す為の被衣と油断させる為に女人の着物を纏う事、この二つが鬼若なりの処世術だ。
しかし、今回は勝手が違った。
幾ら自分を“鬼”としない者でも、弁慶が少しでも信頼を見せている者には、牽制が必要だ。
…大切な兄が傷付く姿は、もう見たくないのだから…。
「…ヒノエ殿、貴方のお気に召すような物はここには何もありません。…お引き取り願えますか?」
「鬼若っ、藤原様に失礼ですよ、この方は…」
鬼若が敵意も露に青の瞳でヒノエを挑戦的に見遣ると、狼狽した弁慶が彼の着物の袖を引く。
そのヒノエを気に掛ける弁慶の言葉も、鬼若は気に入らなかった。
「いいから、弁慶は庵に戻って下さい。薬草と水なら僕がしましょう」
常よりも口調を荒げて弁慶の手にした桶を横から奪い取ると、その腕を掴んだ。
「弁慶、ほら…!」
「ちょ、っ…鬼若?」
訳も分からないままに、言葉を詰まらせた弁慶は鬼若に手を引かれていく。
「弁慶っ!…また、あんたに会いに来てもいいかい?」
「…っは、…はい」
弁慶の姿が庵へ消える寸前に声を掛ければ、その表情に嬉しそうな色が浮かんだ。
「ふ…藤原様さえ、よろしければ構いませ…」
「それでは失礼します、ヒノエ殿」
弁慶からの答えを全て聞く前に、鬼若によって庵の戸が閉られた。
「……鬼若には、嫌われた…かな?」
ヒノエは困惑した表情で呟く。
弁慶が対人恐怖症ならば、鬼若は人間不信と云ったところか…。
だが、怯えた顔しか見せてくれなかった弁慶が、自分に笑んでくれた。
…それだけで十分だ。
「それにしても。鬼……か」
伝承でしか聞いた事のないそれは確かに存在するらしい。
ついでに…この界隈は何か嫌なしがらみがありそうだ。
しがらみが存在すればそれと同じに、裏が在るものである。
調べてみるか…ヒノエは別当の顔でそう呟く。くすり、と微笑を浮かべるとヒノエは自身の邸へと踵を返した。




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