思えば、ポリュデウケスがその赤と正面から向き合ったのはそれが初めての事だった。
明るい色をしたその目は焔に似た動きで瞬き、冷酷な赤の奥にひっそりと控える静かな瞳は、焔に寄り添う陰のように暗い。
視覚から伝わる、眩暈がする程の闇の匂いに堪えるように、ポリュデウケスは目を眇めた。
(これが五歳児の目か…)
目眩い王の懐に抱かれているだけに、幼子を囲む闇の深さがより一層増す。
今までの候補者達の切実な訴えが絵空事めいていく程に、スコルピオスの目には甘えを許さぬ強さがあった。
じっと見つめてくるポリュデウケスを不審に思ったのか、切れ長の目がすっと細くなる。
途端に鋭さを増す気配に野生動物を思い浮かべたポリュデウケスは、思わず苦笑を浮かべた。
その笑みに不審感を募らせたらしい幼子は、父の膝の上で苛立たしげに身を揺する。
ポリュデウケスを威嚇するように瞬きの回数が増えて、落ち着かなげに白い手で自らの懐を探った。
衣の上から何かの感触を確かめた王子は、ふっと視線を自分の腹部に落とす。
不意に落ち着きを取り戻した幼子の様子に、ポリュデウケスは眉を顰めていたが、
「ポリュデウケス」
威厳に満ちた王の声に呼ばれ、夢から覚めたように顔を上げる。
珍しくぼうっとしていた自分を面白そうに眺めているデミトリウスと視線が合った。
「貴様の番だ」
「はっ」
慌てて立ち上がる。
大広間の意識が糸を引くように自分に集まるのを感じながら、ポリュデウケスはぼうっと王子を見ていた自分を悔いた。
(何も浮かばない)
元から口が上手い方ではない。
王の手足となり、僅かな言葉でより多くを知り、余計な事は語らず実直に遂行する。
そうやって生きてきたからこそ信任されるようになったのだが、こういう時ばかりは己の口下手が疎ましい。
(カストルだったらなぁ…)
熱にうなされているであろう双子の弟は、自分の倍は口が回る。
それが良い事かどうかは別としても、こういう場に向いているのがどちらかは比べるまでもない。
にやにやと人の悪い笑みを浮かべていた王が、ふっと形の良い唇を解いた。
「お前は我が子スコルピオスに何を教える?」
「お前の横に居る者達は、帝王学、歴史、戦術に戦略、神学なんてものも教えるつもりらしいが、お前はこれに何を与える」
こつ、と赤い頭に顎を乗せて尋ねる王に、弱り果てて視線を下ろす。
父王のスキンシップに白い顔を強張らせた王子は、ぎゅうっと衣を握り締め、床を睨みつけていた。
(……あ)
先程からずっと王子が押さえていた腹部。
握られる事によって衣の上から見ても明確に角ばった、幼子の手には大き過ぎる『それ』の形が浮かび上がる。
急速に心がしんとしていくのを感じて、ポリュデウケスは我知らず口を開いた。
「それでは私は、自らを守る正しい術をお教えしましょう」
ぴくりと幼子の手が揺れる。
「アルカディアの双璧との呼び声も名高いお前に教授されたら、これもさぞかし強くなるだろうな」
満足げな王の言葉に恐縮しながらも、ポリュデウケスは言葉を続ける。
「剣でも槍でも王子のお好きな物をお教えしましょう。
けれどそれは先の話。先ずは短刀についてお教えします」
目に見えて王子の手に力が篭る。
それまで頑なに床を見つめていた緋色の瞳がポリュデウケスを捉えた。
警戒、不審、その奥に潜む、僅かな好奇心。
ほう、と呟いた王には目もくれず、ポリュデウケスは静かで冷たい赤に向かってのみ話す。
何故かそうしなくてはいけない気がした。
「短刀は確かに剣に比べて殺傷能力が低い。
しかし使い方も知らずに持ち歩くのは危険です。
どれ位の人を切ると刃こぼれしてしまうのか、致死傷を与えるにはどれ位の力が必要で、何処を切るのが効率的か…幼い貴方は恐らくお分かりでないでしょう?」
ポリュデウケスの静かな問いに、ぐっと幼子は唇を噛み締める。
まだ五歳の子供、そんな事は知らなくて当然だが、彼の立場上そうも言っていられない。
母親という後ろ盾を亡くした彼は、彼自身を守る為に、生き残る為に一刻も早くその術を身につけなくてはならない。
(痛ましい事だがそれもまた運命…)
死すべき人間の身ではどうしようも出来ない。
だからこそ彼は、自分を選ぶべきなのだ。
「また、短刀は人を殺すばかりではありません。
獣を裂いて調理する時にも使えますし、夜営の際に使う薪を作る時にも重宝します。
その武器では何が出来、何が出来ないのか、日常生活や戦場ではどういった能力が必要なのか。
その知識こそが身を守る正しい術。
私ならそれを殿下にお教えする事が出来ます」
力強く言い切りながら、自分が珍しく感情的になっている事を自覚したポリュデウケスは僅かに困惑していた。
元々は弟の代役でやってきた、乗り気ではない選考。
万が一選ばれたとしても弟に任せてしまおうとすら思っていた筈なのに。
(何故、この子供に選ばれたいだなんて…)
確かに王子ではあるが世継ぎではない。
王になるべき子供はこれから生まれてくるのだろう。
その証拠に、アルカディア王家に代々伝わってきた雷神の力を彼は全く受け継いでいない。
王兄として王を輔ける道を生まれた時から敷かれていた子供。
恐らく、父王以外の誰からも愛されていない子供。
下手をすると、遠からず火種に成りかねない危険な存在。
(それなのに、何故なのだろう)
彼に選ばれたい。
彼に望まれたい。
その身を助ける知識を与え、少しでも幸せに近い生を送らせてやりたい。
それは王子に対して抱くには不遜な思いではあったが、常に冷静で先を読む力に長けたポリュデウケスには珍しい、抗いようのない強い衝動だった。
スコルピオスは僅かに目を見張ったまま動きを止めていたが、ポリュデウケスの強い視線に耐え兼ねたようにふいっと視線を逸らした。
様々な感情を掻き立てる緋色が逸れて、内心安堵する。
闇を孕みながらも何処か無垢で純粋な緋色の目は、ある意味毒にも等しい。
(だが少し…)
淋しい、と続けそうになった自分の心に気づいたポリュデウケスは、静かに狼狽した。
「良かろう」
広間に響き渡る声にはっと顔を上げたポリュデウケスは、慌てて他の者と同じように跪ずいた。
王がいよいよ楽しげに候補者達を見渡して言う。
「これで全員の意見が出揃った。
後はお前の意思次第だ、スコルピオス」
王が膝に乗せた我が子の耳に唇を寄せて囁くと、小さな体が小さく揺れる。
上目遣いでちらりと父を見上げた後、幼い王子は端から順番に候補者達を見つめた。
その強い目が自分と合った瞬間、僅かに戸惑いに揺れるのを感じながら、ポリュデウケスは体の中から沸き上がってくる焦りのような何かを抑えつけていた。
(私をお選びなさい)
これ程までに強く何かを願ったのはどれ位ぶりだろう。
我ながららしくない強い希求に戸惑いながらも、知らず眼差しに力が篭る。
(貴方に生きる術を与えられのは、貴方を守る事が出来るのは、私をおいて他にいない)
それは自信でも予感でもない。
自分の気が狂ったのではと恐ろくなる程にはっきりとした確信。
緋色の目がぱちりと震える。
無言の内に何かを問うてくる幼子に、ポリュデウケスは小さく頷いた。
(お選びなさい。
私はきっと、貴方を独りきりにしない)
小さな手が躊躇いがちに懐の『それ』から離れ、ゆっくりとだが確かに自分を指差すのに、ポリュデウケスは自然と微笑んだ。
「決まりだな。
ポリュデウケス、お前を我が子スコルピオスの養育係に命じる」
王の華やかな声。
わっと起こる歓声と拍手。
しかし当の本人達に、その音は全く届いていなかった。
「これからどうぞ宜しくお願い致します、スコルピオス殿下」
言葉と共に向けられた微笑に困惑したのか、幼子は無理矢理顰っ面を浮かべる。
「ん…精一杯励むがよい」
ぼそりと呟かれた、小さな澄んだ声。
その不自然な不機嫌顔に笑みを深めながら、ポリュデウケスは一人心に誓った。
(嗚呼、私はこの方に生涯仕えよう)
(この命が終わるまで、ただこの方の為に…)
続