―― まさか自分がこんなことをしようとは。
そう思いながらふぅと息を吐き出す。
柔らかな髪が背にあたる感覚は随分と久しぶりだな、などと全く無関係なことを考えながら一歩、足を踏み出した。
カツン。
ヒールが床を叩く音。
それを耳にしながら、ゆっくりと歩みを進めていくと眩しいスポットライトに照らされた。
眼前に広がる、人、人、人……――
緊張で喉が渇くのを感じる。
しかし真っ直ぐに前を見据えると、"少女"はゆっくりと、口を開いた。
***
その日、いつも通りに任務に赴いていた男装騎士……フィアは街中の劇場の前で、足を止めた。
そこには一枚のポスターが貼られている。
どうやら、とある歌手の公演があるようだった。
最近有名になり始めた、まだ若手の歌手の公演。
フィアは名前を聞いたことがある程度だったのだけれど、その演目が彼の目を惹いたのである。
それは、フィアもよく知った古い歌だった。
幼い頃……まだフィアが"女の子"だった頃に、よく母と一緒に歌った歌。
未だによく歌うものだ。
しかしそれは決して、有名な歌ではない。
それを演目にしているというのは変わっているな。
そう思いながらフィアはふっと、目を細めた。
折角だから聞いてみたいが……
まだ仕事中だし、夜の公演を聞いて城に戻ったら深夜になってしまう。
そうしたらきっと、心配性な従兄に、相棒に、親友が煩いだろう。
フィアが顔を顰めている彼らの様子を思い浮かべてふっと笑った時、不意に"あっ!"と大きな声がすぐ近くで聞こえた。
「びっくりしたじゃないか!勝手に出かけられちゃ困るよ!それに何だいその格好は?!」
いきなりそう怒鳴りつけられ、腕を掴まれた。
え、とフィアが驚いて相手を見つめると、何やら酷く困った様子の男性が一人。
「あ、あの……」
「え、あ……す、すみません!騎士様でしたか」
……どうやら、人違いだったらしい。
その男性は慌ててフィアの手を離し、平謝りした。
フィアはサファイアの瞳を瞬かせて、"構いませんが……"と声を漏らして、言った。
「どうかなさいましたか、随分とお困りのようですが」
フィアがそういうと、男性は少し迷うような表情を浮かべた後、"少し困ったことがありまして"という。
それから、小さく咳払いをして、言った。
「……少々お時間よろしいですか」
相談させていただきたいことがあるのです。
そう言われて、フィアはゆっくりと瞬きをしたのだった。
***
フィアに声をかけてきたのは、今日その劇場で公演をする歌手のマネージャーだった。
そして彼の言う"困ったこと"というのは……
「なるほど、脅迫が……」
話を聞くに、どうやら脅迫状が届いたのだという。
最近有名になった彼女をやっかんでか、或いは彼女への思慕故か……
ステージに立ったら殺す、といったようなことが書かれた手紙が届いたのだという。
歌手本人……ティフェという名の少女(まだ少女といって違いない、フィアと同い年の女の子だった)はすっかり怯えてしまい、逃げ出したのだという。
そしてその容姿が若干、フィアに似ていたのだ。
長い茶色の髪に、色白な肌。
ただ、フィアの髪色よりは若干色が濃く、瞳の色は蒼ではなく緑色、なのだけれど。
慌てたマネージャーがフィアを彼女と間違えて、捕まえてしまったらしい。
結局ティフェ本人は会場の控室のクローゼットに隠れていたという。
……まぁ、命を狙われているのにわざわざ一人で出かけることはないだろうな、とフィアは思った。
「ええ。しかし、折角の公演で、彼女の名も売れて来たところですし、これだけ広い会場で彼女の命を狙うことなど簡単ではありませんし、ただの脅しかと……」
今までもこういうことはありましたし。
マネージャーはそういって溜息を吐き出した。
……なるほど、言わんとすることはわかる。
騎士として、市民の命を守る者としては"公演を取りやめた方が良い"といいたいところだが、そんなに簡単な話でないこともわかる。
彼女の歌を楽しみにしている人間も多く居るはずなのだ。
しかし少女の恐怖心もわかる。
だから、フィアは言った。
「……わかりました、俺が何とかしましょう。
少し、協力していただきたいことがあるのですが……」
よろしいですか?
フィアは彼にそう問いかける。
それを聞いてマネージャーの男性は驚いたように瞬きをする。
「え?」
「二時間早く公演を開始すると宣伝をするのです、脅迫が本当ならば、恐らく犯人はもう大分近くに居るでしょうから、きっと来るはずです。
後は……俺が、どうにかしましょう」
フィアはそういって、おだやかに微笑んだのだった。
***
「凄い……私に、そっくり」
歌手のティフェは眼前に立った少年……フィアを見て、そう呟く。
色の濃いウィッグをつけ、緑色のカラーコンタクトで瞳の色を変えたフィアは、ティフェにそっくりだった。
柔らかなパールブルーのドレス。
流石に自分が女性であることを晒すのはまずいからと体は見えないようにしたのだけれど。
フィアは微笑んで、言う。
「歌はきっと、貴女ほど上手に歌うことは出来ませんが……
貴女が"本番"で安心して歌えるようにしてみせますよ」
……そう。
ざっくり言えば、囮作戦である。
時間変更で早くからの公演
そうなれば必然人は減る。
その方がきっと"相手"はティフェを狙いやすくなるのだから、来るに決まっている。
どんな風に命を狙うつもりなのかはわからないけれど……
「きっと大丈夫ですよ」
フィアはそういうと微笑んで、ステージに立ったのだった。
やはり人は少ない。
けれども突然の時間変更にも関わらず入っている人たちがいる辺りを見るに、彼女は随分と人気なのだろう。
フィアはそう思いながらぐるりと周囲を見渡し、お辞儀をした。
……気配を感じる。
良からぬ気配を。
―― あぁ、これは居るな。
そう思いながらフィアはすぅと息を吸い込む。
そして一曲目を歌い始めた。
よく知った歌。
古い歌。
それを彼女なりに一生懸命に歌う。
……幼い頃の夢を思い出す。
父に、母に、従兄に語った夢。
歌手になりたいという夢を。
少し形は違うけれど、今その夢は叶っている。
そう思うと、状況が状況だから素直に喜べないとはいえ少し嬉しかった。
どうせならばこの歌を聞いてほしかった。
母に、父に。
……それは叶わずとも従兄に。
そう思ったその刹那、ひゅっと風を切る音が聞こえた。
それを聞くと同時にフィアは歌を切り、身を躱した。
こうした状況は経験している。
恐らく弓矢か。
毒矢か何かで身動きを封じた上でとどめを刺すつもりだったのだろう。
そう思うと同時、フィアはその矢が飛んできた方へ素早く視線を向け、短い呪文を呟いた。
それは天使としての魔術。
邪悪な思いを持って攻撃を仕掛けたものにしか効かない魔術だった。
「うごくな!……とはいえ、動けないとは思うがな」
フィアはそういいながら笑みを浮かべる。
ざわつく会場に向かって、優雅に一礼する。
「申し訳ございません、ティフェ嬢の憂いを払うため、私が替え玉として歌っておりました。
この後本物の彼女が歌いますので、お楽しみください」
フィアはそういって微笑みながら、彼女を狙っていた犯人の元へ向かう。
ヒールが床を踏む音を追うように、歓声と拍手の音が巻き起こったのだった。
***
その後、フィアは会場の隅でティフェの公演を聞いていた。
念のため、まだ彼女を狙う人間が居たら困るとのことでの配慮……という名目での、きっとティフェからのお礼なのだと思われた。
美しい歌声に目を細める。
先刻は自分が立っていたステージ。
そこに立ってのびのびと歌を歌う彼女の様子を見て、フィアは穏やかな表情を浮かべる。
―― 歌手にも、なりたかったと思うけれど……
こうした笑顔を守ることが出来る、騎士という仕事にはやはり、誇りを持てる。
そう思いながらフィアは彼女の歌を聞いていた。
のびのびとした彼女の歌。
安心しきったその様子からも、彼女は本当に歌が好きなのだということが伝わってくる。
良かった。
彼女がこうして安心して歌うことが出来て。
そっと目を閉じて、フィアはそう思っていたのだった。
―― 歌姫とその守護者 ――
(美しい歌を紡ぐ仕事。
それに憧れたりはしたけれども…)
(その柔らかな歌を紡ぐ人を守るこの仕事も悪くはない。
改めてそう思いながらそっと、自分の剣に触れる)