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プロローグ



モニターの音が、一定のリズムを刻む。目の前にいる人間の、命の鼓動だ。
最後の糸を結び終わり、鋏の音が響いた瞬間、凍っていた部屋全体の緊張感が一気に解れる。天井近くで時間を刻んでいた赤いデジタル時計が、彼の宣言と共に動きを止めた。
「お疲れさまでした」
白い手袋を嵌めた手を降ろし、その場には感嘆混じりの溜め息が溢れ返る。優美な手さばき、冷静な判断力に、先の先まで見通す眼力。彼の手術は、いつでも人体の創成を見ているかのごとく華麗で美しかった。
ナースの手により着々と進んでいく後始末。部屋にいる誰もが、今しがた終了した手術の完成度、美しさに盛り上がっている中、彼――ミクリだけが一人浮かない顔をしていた。血のついた手を握り締め、震える拳を見つめる。

まだだ、まだ足りない――。

稀代の天才だと持ち上げられ、こなしたオペは完璧だと称賛される。だがミクリ自身は、一度も自分の手術に満足したことなどなかった。
早さも、美しさも申し分ない。技術が世界でもトップクラスであることは分かっている。
だが、彼本人の求める「完璧」は、この程度のものではないのだ。

以前、患者の身体を覆う蒼い布越しに見た光景。迷いなく体内の構造を開いていく銀色の器具。さほど大きくもない手は、まるで撫でるような繊細さで血管、神経を掻き分け人体の深みへ進んでいく。
人の身体はこんなにも美しく簡単な構造をしていただろうかと、目を疑った。ほとんど血の赤を滲ませることもなく、視界を覆うのは絵に書いたような「解剖図」。
「ケリーちょうだい」
少し幼い口調で手を差し出したのは、まだほんの若い男で。ミクリは、幕の向こうで繰り広げられる光景を、半分夢見心地で見つめていた。手術というのは芸術なのだと知ったのも、その時が初めてだ。
あの日、仕事で彼の手術を目にすることがなければ。気紛れに術野を覗き込んだりしなければ。きっとミクリは今でも自身でメスを手に取ることはなく、違う道を歩んでいたのだろう。

一度見ただけの光景が忘れられず、自分も彼のような手術がしたいと外科の道を志した。普通は一人前になるまで十年はかかると言われるこの世界。ミクリは若年にして驚くほどの早さであらゆる技術を習得していった。
しかし、まだ自分は彼の領域に届いていない。どんなに天才と呼ばれても、どんなに患者に感謝されても、満たされない心。
自分の目指した世界は、見上げても届かぬずっと遠い高みにある。

誰もが「神の手」と認めた天才外科医、ツワブキダイゴ。

ミクリが外科医へと転向して間もなく、理由を告げることもなく医学界から姿を消した男は、今でも偶像として彼の胸に強く刻み込まれている。
覚えているのは、殆んどが目を見張るような執刀技術とその手捌き。術衣の下では顔の判別などつくはずもなく。
唯一印象に残っているのは、術野を見据えるひどく冷悧な蒼い眼差しだけだった。


【プログノーゼ・デアリーベ】


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