「ややこしい戦いランキング」があったら個人的トップ3に入るのが関ヶ原の戦いです。
人間関係の構図もさることながら本戦に行くまでが特にややこしい。
そこで、自分で分かりやすいようにプロ野球に譬えてざっくりまとめてみました。

タイトルからも察せられる通り、とっても役に立ちませんし半分くらいは冗談です。
(余計ややこしくした気がしなくもない)




【関ヶ原の戦い】@1600

西軍vs東軍
日の本の頂点に立つのはどっちだ対決


●大雑把な流れ

※自分でこんがらがるので、かなりの部分をはしょってます。
ところどころ私見も入っております。悪しからず。



〜チーム豊臣の内紛〜

(1)待った甲斐があったベテラン
太閤・豊臣秀吉(1598没)、五大老の一人・前田利家(1599没)が死亡したことで筆頭家老・徳川家康が遂に台頭。
利家という歯止め役がいなくなったことで太閤法度(ルール)違反を繰り返す。

●memo
禁止されていた政略結婚を繰り返すなど、豊臣側からすると目に余る行為が多かったようです。
とは言え、後述の通り豊臣内部も上手に機能していなかったようですし、早い段階から手を打った家康は世がまた戦乱に逆戻りすることを危惧したのかもしれません。


(2)ID野球(文吏)vsオレ流(武断)
文吏派代表・石田三成が家康に反発し対抗。しかし福島正則や加藤清正ら武断派の反感を買う。
秀吉存命時の朝鮮出兵でモメて以降、なにかと武断派の反感を買っていた三成。
武断派が三成の邸宅を襲撃する事件も発生する等、文吏派と武断派の対立がここで遂に表面化する。
(ちなみに襲撃事件の際は家康に助けられましたが、これがきっかけで三成は隠居する羽目になります)
文吏派vs武断派の対立の隙に家康は武断派に接近、取り込むことに成功。

●memo
朝鮮出兵では三成は戦場に出ず各々の将の活躍を報告する役目についていたそうです。事務職みたいな感じですかね。
戦で上手く動けなかった将もいるわけですが、彼らの弁明などは一切聞かずありのままを報告したため実際に死地に立つ現場の将たちの恨みを買ったとか。「戦には出てないくせに偉い立場でモノ言いやがって」という事でしょうか。その現場の気持ちも分かる気はしますが、三成にも彼の信念があったのだと思います。
ちなみにあの小早川秀秋も三成の「ありのまま報告」で罰を受けたうちの1人。



(3)機動
会津の上杉景勝に謀反の嫌疑がかけられ(これも家康の策略だった説有り。つまり濡れ衣)、家康は会津征伐に動く。
これを契機に三成が毛利の外交官・安国寺恵瓊や旧友の大谷吉継らと共に打倒・家康を図り挙兵。

●memo
大谷吉継は家康とも懇意にしていた言わば家康派の将で、彼も会津征伐に赴く予定でした。
しかしその途上、旧友の石田三成に打倒家康の案を打ち明けられ「無謀だからやめろ」と止めても聞かない三成に折れる形で西軍につきます。友を見捨てられなかったのでしょうか。
ちなみに彼にはシャーマンの噂があります。




〜ストーブリーグ〜

★side:チーム西軍(旧チーム豊臣)

毛利輝元を監督に据えて挙兵した西軍。
(前述のアレで敵も多い三成が総大将になるより、輝元の方が受けが良いとかそんな感じの理由※諸説あるようです)

毛利監督は大坂城へ入場。
会津征伐に赴いた諸将の妻子を人質にとり大坂城へ収容する。
(細川忠興の妻・ガラシャ夫人はそうなる前に自刃)

斯くして大坂周辺、中四国、九州といった西日本の大名を中心に約九万の兵を集める。


★side:チーム東軍(家康派)

家康監督、江戸にて三成挙兵を知る。
(西軍の増田長益が密告報告する)

チーム豊臣時代に築いた人脈を駆使。福島正則など、豊臣恩顧の将を味方につける。
諸将を集め作戦会議を開いた結果、予定通り会津に向かう振りして西軍の状況を伺う事に。
(陽動作戦)

更に諸大名に「恩賞弾むから東軍に味方してね」みたいな書状を送りまくる。
(裏工作)



〜プレーオフ〜

(1)西軍の厳しい内情
宇喜多隊は伏見(鳥居元忠のあれ)落城に約半月を費やす。
毛利輝元監督は大坂城から動かず。
島津に至っては伏見(鳥居元忠のあれ)で入城を拒否されたため(真偽不明)行くところがなくなったから西軍についただけという先行き不安な状態…。


(2)その頃、東軍は…
徳川秀忠、西方の真田昌幸が籠る上田城攻略へ向け出発。
先鋒隊は岐阜城を攻略。
それを聞いた家康監督は江戸を出発。三成の居城・佐和山城をちゃっちゃと攻めて関ヶ原へ。


(3)焦る西軍
佐和山城を攻撃され、このままでは秀頼の籠る大坂城も危ういと焦った石田三成代行監督は大垣城を出て関ヶ原へ。
(家康監督の誘き寄せ作戦成功)

かくして三成ら西軍と家康ら東軍は関ヶ原の地で対決することに。



〜いよいよ本戦〜
日本シリーズ・関ヶ原

9月15日、早朝スタート

・メンバー交換
※最初の方に動いた方達を中心にしただけで、打順に特に意味はありません。悪しからず。

チーム東軍
監督:徳川家康

1.井伊直政(期せずして?抜け駆け)
2.藤堂高虎
3.福島正則(先陣の予定だった人)
4.松平忠吉(家康四男)
5.細川忠興
6.加藤嘉明
7.京極高知
8.田中吉政
9.黒田長政(内応取次役)

控えに本多忠勝、筒井定次、寺沢広高、生駒一正など
※四番は秀忠の予定でしたが、彼は試合に遅刻したため除外。
(ちなみに上田城で真田に足止め食らってました)


チーム西軍
監督:石田三成 (代行)
※毛利輝元監督が大坂城から動かなかったため

1.宇喜多秀家
2.島左近 ←わりと早くに代打オレ
3.大谷吉継
4.小早川秀秋 ←後に寝返り
5.吉川広家 ←弁当
6.島津義弘 ←傍観
7.小西行長
8.脇坂安治 ←後に寝返り
9.小川裕忠 ←後に寝返り

控えに毛利秀元(弁当)、安国寺恵瓊(弁当終了待ち)、長束正家(弁当終了待ち)、長宗我部盛親(弁当終了待ち)、赤座直保(後に寝返り)、朽木元綱(後に寝返り)など


・試合序盤
井伊、福島ら東軍が攻めるも宇喜多ら西軍主力メンバーが奮戦。チーム西軍の優勢で進む。
しかし島左近が黒田隊のデッドボール(狙撃)で負傷退場するアクシデントが発生。
石田代行監督、やむを得ず代打オレ。
スタメン吉川広家に至っては試合中に弁当を食べ出す始末。そのため後方の長束らが動けず代打に出せなかった。
(ちなみに吉川は事前に東軍の黒田長政を通じて家康に内応していました)

・試合中盤
東軍の家康監督、大胆にも西軍ネクストバッターズサークルの小早川に大砲を放つ。これぞ運命の砲撃。
ビビった小早川は東軍に寝返り、打席に立つ大谷を攻撃し出すとんでもない展開に。
しかしこれを予期していた大谷はすかさず反撃。
が、下位打線の脇坂や小川、更に西軍ベンチの赤座や朽木まで寝返り遂には壊滅。吉継、陣中で自刃。

・試合終盤
寝返りに次ぐ寝返りで宇喜多、小西、代行監督の石田まで壊滅。一気に東軍が優勢
しかしラストイニング9回、島津義弘の代打・豊久がホームランを放ち一矢報いる。義弘はそのまま球場を後にした(敵中突破)
ちなみに、この頃吉川がようやく弁当を食べ終わる。


・日本シリーズMVP
小早川秀秋(チーム西軍→東軍)
賞金:5万1500石


ちなみに…
・試合終了後
三成、小西、安国寺らは六条河原で処刑
(この時代、辱しめを受けるくらいなら潔く腹を切るというのが武士の姿なのでしょうが、小西行長はキリシタンで宗教上の理由から自刃は出来ませんでした。切腹しなくても、彼の死に様は武士の潔い姿だと思います)

宇喜多は逃亡の末、島流し。



〜オフシーズン〜

・契約更改
※前述の選手のみ、ざっとざっくりまとめ。

加増度
★〜★★
井伊、加藤、京極、藤堂、細川

★★★〜★★★★
福島、田中、黒田

★★★★★
松平

徳川幕府の地盤堅めといった意味合いの強い更改となりました。


西軍から寝返った人達
所領安堵→脇坂(事前に内応済だったため)
減封・改易など→朽木、小川、赤座、毛利一族(色々あってこのような結果になりました)

加増→小早川秀秋
しかし彼は2年後若くして病死します
一説には…
吉継の遺言「あいつだけは絶対に許さない。三年の内に祟ってやる」が効いたとされています。




●まとめ
東軍の徳川家康と西軍の石田三成。
関ヶ原で相対した二人には、どちらにもきっと野望などといった言葉では片付けられない自らの信念や正義があったのでしょう。
結果的に勝利したのは東軍の家康でしたが、日の本を再び戦乱の世に導かないようにと思う気持ちは同じだったのではないかと思います。



下は後記と私の感想。