スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

【日本シリーズ】関ヶ原の戦い


「ややこしい戦いランキング」があったら個人的トップ3に入るのが関ヶ原の戦いです。
人間関係の構図もさることながら本戦に行くまでが特にややこしい。
そこで、自分で分かりやすいようにプロ野球に譬えてざっくりまとめてみました。

タイトルからも察せられる通り、とっても役に立ちませんし半分くらいは冗談です。
(余計ややこしくした気がしなくもない)




【関ヶ原の戦い】@1600

西軍vs東軍
日の本の頂点に立つのはどっちだ対決


●大雑把な流れ

※自分でこんがらがるので、かなりの部分をはしょってます。
ところどころ私見も入っております。悪しからず。



〜チーム豊臣の内紛〜

(1)待った甲斐があったベテラン
太閤・豊臣秀吉(1598没)、五大老の一人・前田利家(1599没)が死亡したことで筆頭家老・徳川家康が遂に台頭。
利家という歯止め役がいなくなったことで太閤法度(ルール)違反を繰り返す。

●memo
禁止されていた政略結婚を繰り返すなど、豊臣側からすると目に余る行為が多かったようです。
とは言え、後述の通り豊臣内部も上手に機能していなかったようですし、早い段階から手を打った家康は世がまた戦乱に逆戻りすることを危惧したのかもしれません。


(2)ID野球(文吏)vsオレ流(武断)
文吏派代表・石田三成が家康に反発し対抗。しかし福島正則や加藤清正ら武断派の反感を買う。
秀吉存命時の朝鮮出兵でモメて以降、なにかと武断派の反感を買っていた三成。
武断派が三成の邸宅を襲撃する事件も発生する等、文吏派と武断派の対立がここで遂に表面化する。
(ちなみに襲撃事件の際は家康に助けられましたが、これがきっかけで三成は隠居する羽目になります)
文吏派vs武断派の対立の隙に家康は武断派に接近、取り込むことに成功。

●memo
朝鮮出兵では三成は戦場に出ず各々の将の活躍を報告する役目についていたそうです。事務職みたいな感じですかね。
戦で上手く動けなかった将もいるわけですが、彼らの弁明などは一切聞かずありのままを報告したため実際に死地に立つ現場の将たちの恨みを買ったとか。「戦には出てないくせに偉い立場でモノ言いやがって」という事でしょうか。その現場の気持ちも分かる気はしますが、三成にも彼の信念があったのだと思います。
ちなみにあの小早川秀秋も三成の「ありのまま報告」で罰を受けたうちの1人。



(3)機動
会津の上杉景勝に謀反の嫌疑がかけられ(これも家康の策略だった説有り。つまり濡れ衣)、家康は会津征伐に動く。
これを契機に三成が毛利の外交官・安国寺恵瓊や旧友の大谷吉継らと共に打倒・家康を図り挙兵。

●memo
大谷吉継は家康とも懇意にしていた言わば家康派の将で、彼も会津征伐に赴く予定でした。
しかしその途上、旧友の石田三成に打倒家康の案を打ち明けられ「無謀だからやめろ」と止めても聞かない三成に折れる形で西軍につきます。友を見捨てられなかったのでしょうか。
ちなみに彼にはシャーマンの噂があります。




〜ストーブリーグ〜

★side:チーム西軍(旧チーム豊臣)

毛利輝元を監督に据えて挙兵した西軍。
(前述のアレで敵も多い三成が総大将になるより、輝元の方が受けが良いとかそんな感じの理由※諸説あるようです)

毛利監督は大坂城へ入場。
会津征伐に赴いた諸将の妻子を人質にとり大坂城へ収容する。
(細川忠興の妻・ガラシャ夫人はそうなる前に自刃)

斯くして大坂周辺、中四国、九州といった西日本の大名を中心に約九万の兵を集める。


★side:チーム東軍(家康派)

家康監督、江戸にて三成挙兵を知る。
(西軍の増田長益が密告報告する)

チーム豊臣時代に築いた人脈を駆使。福島正則など、豊臣恩顧の将を味方につける。
諸将を集め作戦会議を開いた結果、予定通り会津に向かう振りして西軍の状況を伺う事に。
(陽動作戦)

更に諸大名に「恩賞弾むから東軍に味方してね」みたいな書状を送りまくる。
(裏工作)



〜プレーオフ〜

(1)西軍の厳しい内情
宇喜多隊は伏見(鳥居元忠のあれ)落城に約半月を費やす。
毛利輝元監督は大坂城から動かず。
島津に至っては伏見(鳥居元忠のあれ)で入城を拒否されたため(真偽不明)行くところがなくなったから西軍についただけという先行き不安な状態…。


(2)その頃、東軍は…
徳川秀忠、西方の真田昌幸が籠る上田城攻略へ向け出発。
先鋒隊は岐阜城を攻略。
それを聞いた家康監督は江戸を出発。三成の居城・佐和山城をちゃっちゃと攻めて関ヶ原へ。


(3)焦る西軍
佐和山城を攻撃され、このままでは秀頼の籠る大坂城も危ういと焦った石田三成代行監督は大垣城を出て関ヶ原へ。
(家康監督の誘き寄せ作戦成功)

かくして三成ら西軍と家康ら東軍は関ヶ原の地で対決することに。



〜いよいよ本戦〜
日本シリーズ・関ヶ原

9月15日、早朝スタート

・メンバー交換
※最初の方に動いた方達を中心にしただけで、打順に特に意味はありません。悪しからず。

チーム東軍
監督:徳川家康

1.井伊直政(期せずして?抜け駆け)
2.藤堂高虎
3.福島正則(先陣の予定だった人)
4.松平忠吉(家康四男)
5.細川忠興
6.加藤嘉明
7.京極高知
8.田中吉政
9.黒田長政(内応取次役)

控えに本多忠勝、筒井定次、寺沢広高、生駒一正など
※四番は秀忠の予定でしたが、彼は試合に遅刻したため除外。
(ちなみに上田城で真田に足止め食らってました)


チーム西軍
監督:石田三成 (代行)
※毛利輝元監督が大坂城から動かなかったため

1.宇喜多秀家
2.島左近 ←わりと早くに代打オレ
3.大谷吉継
4.小早川秀秋 ←後に寝返り
5.吉川広家 ←弁当
6.島津義弘 ←傍観
7.小西行長
8.脇坂安治 ←後に寝返り
9.小川裕忠 ←後に寝返り

控えに毛利秀元(弁当)、安国寺恵瓊(弁当終了待ち)、長束正家(弁当終了待ち)、長宗我部盛親(弁当終了待ち)、赤座直保(後に寝返り)、朽木元綱(後に寝返り)など


・試合序盤
井伊、福島ら東軍が攻めるも宇喜多ら西軍主力メンバーが奮戦。チーム西軍の優勢で進む。
しかし島左近が黒田隊のデッドボール(狙撃)で負傷退場するアクシデントが発生。
石田代行監督、やむを得ず代打オレ。
スタメン吉川広家に至っては試合中に弁当を食べ出す始末。そのため後方の長束らが動けず代打に出せなかった。
(ちなみに吉川は事前に東軍の黒田長政を通じて家康に内応していました)

・試合中盤
東軍の家康監督、大胆にも西軍ネクストバッターズサークルの小早川に大砲を放つ。これぞ運命の砲撃。
ビビった小早川は東軍に寝返り、打席に立つ大谷を攻撃し出すとんでもない展開に。
しかしこれを予期していた大谷はすかさず反撃。
が、下位打線の脇坂や小川、更に西軍ベンチの赤座や朽木まで寝返り遂には壊滅。吉継、陣中で自刃。

・試合終盤
寝返りに次ぐ寝返りで宇喜多、小西、代行監督の石田まで壊滅。一気に東軍が優勢
しかしラストイニング9回、島津義弘の代打・豊久がホームランを放ち一矢報いる。義弘はそのまま球場を後にした(敵中突破)
ちなみに、この頃吉川がようやく弁当を食べ終わる。


・日本シリーズMVP
小早川秀秋(チーム西軍→東軍)
賞金:5万1500石


ちなみに…
・試合終了後
三成、小西、安国寺らは六条河原で処刑
(この時代、辱しめを受けるくらいなら潔く腹を切るというのが武士の姿なのでしょうが、小西行長はキリシタンで宗教上の理由から自刃は出来ませんでした。切腹しなくても、彼の死に様は武士の潔い姿だと思います)

宇喜多は逃亡の末、島流し。



〜オフシーズン〜

・契約更改
※前述の選手のみ、ざっとざっくりまとめ。

加増度
★〜★★
井伊、加藤、京極、藤堂、細川

★★★〜★★★★
福島、田中、黒田

★★★★★
松平

徳川幕府の地盤堅めといった意味合いの強い更改となりました。


西軍から寝返った人達
所領安堵→脇坂(事前に内応済だったため)
減封・改易など→朽木、小川、赤座、毛利一族(色々あってこのような結果になりました)

加増→小早川秀秋
しかし彼は2年後若くして病死します
一説には…
吉継の遺言「あいつだけは絶対に許さない。三年の内に祟ってやる」が効いたとされています。




●まとめ
東軍の徳川家康と西軍の石田三成。
関ヶ原で相対した二人には、どちらにもきっと野望などといった言葉では片付けられない自らの信念や正義があったのでしょう。
結果的に勝利したのは東軍の家康でしたが、日の本を再び戦乱の世に導かないようにと思う気持ちは同じだったのではないかと思います。



下は後記と私の感想。

continue...

(京都事件ファイル)本能寺の変 まとめ




タイトルから察せられる通り、とっても役に立ちません。
今日は本能寺の変が起こった日だから勉強メモをまとめたかっただけなんだ…



※自分で分かりやすいようにざっくりまとめた自分のためのメモ




♪ジャンジャンジャーン→
♪ジャンジャンジャーン↑
デッデッデッデデデン…


京都事件ファイル
本能寺の変〜炎にひそむ叛意〜
明智光秀ミステリーシリーズ
※冗談です。




【本能寺の変】@1582


●事件のあらまし

天正10年(1582)6月2日未明。
京の本能寺に宿泊中の織田信長が寝込みを襲われる事件が発生。

・情勢
3月に武田を滅亡させた織田軍は、中国方面の毛利征伐に本腰を入れていた。
その最前線・高松城を攻略中の羽柴秀吉から援軍要請が届く。
織田と同盟関係にあった徳川家康の接待をしていた明智光秀が、接待役を解任され秀吉救援の先鋒に命ぜられる。
また、信長自身も救援に向かう準備をしていた折の出来事だった。



●主な被害者

織田信長(49)
殿。中国の毛利と交戦中の羽柴秀吉の救援のため、わずかな供回りと共に入京。
事件発生を知ると「是非に及ばず(是非もなし)」と言い、弓や槍で立ち向かったが終には奥に籠り自害した。
ちなみに、援軍なのにわずかな供回りだけだったのは、先に天皇より賜る官職についてのお返事をするためと京の公達と茶会を開くためだったから(安土城から数々の名器を運ばせている)だとか。

森蘭丸(18)
恐らく日本一有名な小姓。
信長に誠心誠意仕え、今度の事件でも奮戦。
殿が潔く自刃する時を稼いだ。最期は討死。

織田信忠(26)
殿の嫡男。同じく毛利征伐の救援のため入京。
本能寺から少し離れた所にある妙覚寺に宿泊していた。
事件発生を知り、逃げる時間もあったが父の助けに向かう。名の通り忠信。
しかし包囲された本能寺に入れなかったため二条御所に立て籠り、やがて敵勢が押し寄せて来ると自害した。
ちなみに肖像画はパパ似のイケメン。
(信長から眉間のシワを取って雰囲気を優しくした感じ。とってもイケメン)


(ちょこっとメモ)
信長の遺体は結局見つかっていない。
本能寺には火が放たれているので、焼けた後の骸骨だけ見てそれが信長なのか他の家臣なのかを判断するのはほぼ不可能な事を思うと遺体が見つからないのも普通に考えたら当然なのですが…“見つかっていない”と言われるとちょっと夢見てしまいますね。





※この先、壮大なネタバレ注意※冗談でs


犯人:明智光秀
「敵は本能寺にあり」と言ったとか言ってないとか…

経歴に不明な点が多いながらも、中途採用からのし上がった実力派知将。
丹波亀山・近江坂本城主で、方面軍では近畿司令官を担当していた。重臣に斎藤利三など。
事件直前まで叛意は隠しており、目的地とは逆の京に向かう事に関しても「殿に軍装を見てもらうため」だとか「殿に家康討っとけと言われた」だとか、そのような感じで説明していたらしい。


(ちょこっとメモ)
事件直前、連歌の会で光秀が読んだ句
「時は今 あめが下しる 五月かな」
これが謀反の決意表明だったと言われていますが、クーデターとは関係なく単純に五月雨の情景を歌った句だったら綺麗だと思います(笑)





●犯行の動機
様々な説がありますが、どれもフィクション性が高いようです。


(1)光秀プッツン説
・国替えの不安
・母を見殺しにされた恨み
・外交を担当していた四国の長宗我部と上手くいきそうな時に四国征伐が下り、メンツを潰された
・皆の前で折檻された(頭を叩かれた)際に、カツラが落ちて恥をかかされた。そりゃ恥ずかしいでしょうね…
などなど「カッとなってやった。今は以下略」説。


(2)光秀の野望説
・自分が天下を取りたくなった
単純明快。

派生系に「あ、なんか今なら信長討てそう」という魔が差した説も。


(3)黒幕おるがや説
容疑者としてよくお名前が挙がる方々

朝廷さん
譲位を迫られたり改暦を強要されたり、お馬揃えのパレードだったり様々な危機感から仕向けたとする説。
…その天皇も危うく事件の巻き添えになるところだったのですが(下手すれば落命)

足利義昭さん
光秀が元々支えていたお方で、幕府再建を狙って共謀したとする説。
光秀も選ぶ相手間違えている気がしますが…

羽柴秀吉さん
戻るのが早かったから仕方ない(中国大返し)
事件によって一番得したこともあり、実はサルが黒幕だった説は人気。

徳川家康さん
本当は家康を討つ予定だったが…という説。
事件発生時は堺を見物中。
たまたま近くにいたからでしょうか?
…事件のあと三河に帰るのも相当大変だったのですが(下手すれば落命)

長宗我部元親さん(&斎藤利三)
元親と仲が良かった事、重臣・利三の妹が元親の正室である事などから、四国征伐を命じた信長に反発して彼(あるいは彼ら)が光秀を煽った説。

イエズス会のみなさん
「わし、マジ神」的な事を言った信長を恐れた説。
なお光秀との関係は不明。

本願寺や会合衆などその他の勢力のみなさん
続・反信長連合説。



Q.結局、謀反の真相は?
光秀「秘密」




※この先、壮大なネタバレ注意※冗談ry


●その後

・羽柴秀吉さん
毛利と即行和睦し、わずか7日で引き返して(中国大返し)、山崎で逆賊明智を撃破する。
その後の展開は言わずもがな。

・徳川家康さん
素晴らしい家臣に恵まれたおかげもあって命からがら三河に帰る(神君伊賀越え)。

明智光秀 被告
思った以上に味方が集まらず、想像以上に早く戻った秀吉と山崎で対決する羽目になる(山崎の戦い・天王山)。
そこで敗れ、最期は落ち武者狩りにあって死亡。

一説には、逃げ延びて天台宗の僧・天海になったという噂もある。
※天海は後、徳川家康の側近となる。



●まとめ
天正10年(1582)京都の本能寺で、織田信長が家臣の明智光秀に突如襲われて自害した謎多き大事件。




浅●光彦と明智光秀の語呂ってなんとなく似てるというしょうもない発想からこんなことになりました。

応仁の乱をまとめたい



※自分で分かりやすいようにまとめた自分のためのメモ
……のはずが、自分でも何が何だか分からなくなってきたので、どなたか添削して頂けませんでしょうかorz

※ところどころ個人的な見解が入ってます。




●応仁の乱@1467

【登場人物】
足利義政 … 室町幕府8代将軍。文化人。ちなみに父はあの義教。
日野富子 … 義政の妻。
義視 … 義政の弟。仏門に入っていたが、義政に言われて仕方なく還俗した。
義尚 … 義政と富子の息子。
細川勝元 … 義視の後見人で守護大名。幕府の中枢にいる人。
山名宗全 … 義尚の後見人で守護大名。幕府の中枢にいる人。

畠山政長・義就 … 従兄弟同士。共に幕府管領を務めるお家柄の人。
斯波義敏・義廉 …  共に幕府管領を務めるお家柄の人。



・そもそもの始まり

室町幕府8代将軍の義政は早く隠居したかった。しかし跡継ぎがいないので難しい。
そこで弟に将軍職を押し付ける事を思いつき、さっそく仏門に入っていた義尋(義視)を呼び戻す。
これで、後継者も決まって心置きなく隠居……とは行かなかった。
妻の富子が元気な男子(義尚)を産んでしまったからである。

義政「あのさ…弟の義視が次期将軍ってことでいいんだよね?」
富子「は?義尚は?」
義政「いや…でも例え男が産まれても譲るって約束で戻ってきてもらったしさ…」
富子「あんた何言ってんの?将軍の子が次の将軍になるのが当然でしょ?」
義政「いや、でもあの……はい、そうですよね……」
というやり取りがあったかもしれない。

一方。
義視「なんか兄者、いつまで経っても将軍職譲ってくれないんだけど」
勝元「どうやら男子が産まれたそうで」
義視「えっ、待ってよ。じゃあ自分はどうなるわけ?」
勝元「(波乱の予感)」


男子が産まれたからには話は別

跡目争い勃発!



将軍家の後継者争いを、幕府権力の掌握に利用しようとしたのが守護大名の細川勝元山名宗全の両名。

勝元「(義視様が将軍の座に着けば権力は後見である私に…)」
宗全「(義尚様が将軍の座に着けば権力は後見であるワシに…)」
勝元・宗全『これはもう争って決めるしかありませんね』

ここで管領・畠山家で予てより家督を争っていた政長と義就を巻き込み、更に斯波家の義敏と義廉まで入ってくる。

義政「(面倒なことになった…)」
と思っていたかもしれない。




・開戦
宗全&義就、管領の畠山政長を追い出し、斯波義廉を新管領に就ける。
これに当然キレた政長は勝元と組んで宗全&義就に戦を仕掛ける。

宗全「政長と勝元が京の町を焼いとるぞ、オイどうするんや将軍」(圧力)
義政「えぇ…」

義政「(大事になったらヤダな。みんなに政長と義就の争いに関わらないように言っておこう)」

義政「あのさ、やめなって…」
義就「(聞こえなかったことにして)攻めろ!」
宗全「攻めろ!」
政長「なんか来たで!勝元はよ!」
勝元「(聞こえてしまったので)動けんわ」
政長「え…!?」→敗走

一応、義就側が勝利で終わる。




・本戦
先の畠山両名の私闘の決着がどうあれ、どっちにしろ勝元と宗全は戦う事に。
勝元派(東軍)宗全派(西軍)に分かれて近隣各地に飛び火。
図にするとこんな感じ?

この辺から私もう何が何だかorz


妻・富子が義尚の後見を頼んだ宗全が西軍なので、義政も気持ち西軍寄りのはずが…

義政「(なんか大事になってるし俺将軍なのに誰も言うこときかないし、いつまでも隠居できないし、いーよじゃあもう!!)」
とキレてしまったのか定かではないが、何故か東軍の勝元に将軍旗を預ける

勝元「いいんですか?将軍旗もらっても」
義政「いーよ、あげる」
勝元「本当にいいんですか?これでこの戦、将軍家お墨付きって事になりますけど」
義政「いーよもう何でも。宗全倒して早く終わらせて」
勝元「御意」
というやり取りがあったかもしれない。

とにもかくにも、元は管領家のお家騒動だったはずが将軍公認・東軍vs反乱・西軍という形になってしまった。
その後も一進一退の攻防が続き、じわじわと京都の町を焼き尽くしていくことに。

その間―
義視「(みんな敵に見える怖いもうやだ…逃げよう)」 → 伊勢に逃亡

義政「あの…義視がさ、逃げちゃって…」
勝元「困ります。至急お戻り頂くよう言って下さい」

義政「絶対大丈夫だから!怖くないから!」
義視「本当に?」
義政「敵いないから!大丈夫だから!帰ってきて!」
義視「……わかった」


一方で…
我が子の後見人・宗全の西軍が、夫によって反乱軍とされてしまった事で困ったのが富子。
このままでは義尚が次期将軍の座につけるか危うい。
だったら東軍の勝元のところ(というか将軍公認)につけばいいんじゃん。
恐らくそういう流れで、富子が宗全から勝元に鞍替え
そうなると、今度は勝元が後見を務める義視が邪魔になるので追い出しにかかる。
(後継者を争ってる者同士が同じ軍にいたら何のための戦か分からないですよね…そういう認識であってますでしょうか)


義視、逃亡先の伊勢から入京するが(なんだかんだあって)…

義視「嘘つき!敵だらけじゃーん!!」
宗全「お困りのようだね義視さん。ワシが助けてあげるよ」
義視「本当?」
宗全「西軍にきてくれるかな?」
義視「い、いいともー」
というやり取りはさすがにないが、京に居場所のなくなった義視が反乱軍とされた西軍につくことになる。これで一応、体制は整った。
正直なところ、勝元も宗全も権力争いに勝てさえすれば大将は義視だろうが義尚だろうがどっちでもいいわけで。

かくして二転三転、右往左往、紆余曲折ありながら、約10年もの間この戦いはグダグダと続く。




・決着
まず西軍の山名宗全が病気により死亡
後を追うように東軍の細川勝元も病気で死亡。 (暗殺説あり)

両軍、和睦。


これにより…
義政「義尚に後継がせるわ(やっと隠居できる)
義視「」


Q.結局みなさんは何がしたかったのですか?
A.
義政「早く隠居したかった」
富子「息子を将軍にしたかった」
勝元・宗全「ただ権力が欲しかった」
義視「くれるって言ったじゃん…」(将軍職)





・結果発表


勝者:日野富子(義尚)


しかし、あれだけの戦の末に9代将軍となった義尚も若くして病死してしまう(20代前半)。
義尚に嫡男がいなかったため、次期(10代)将軍には従兄弟の義材がつく。
この義材は、義尚が将軍の座を争った義視の息子である。
個人的には、自身が将軍の座に着くことは出来なかったにせよ代わりに息子がそれを成し遂げたことを考えると、最終的な勝者は義視のような気もする。



忘れてはならないのが…
一番の被害者:京都府京都市




・まとめ
応仁の乱とは…
将軍家の後継者争い・幕内の権力争い・管領家の家督争いを約10年間グダグダと続けた結果どうにもならず、ただ京都市内を無残に焼き尽くした戦である。
こんな感じでしょうか…?

戦国期・九州の超大雑把な流れ


※自分で分かりやすいようにまとめた自分のためのメモ。



●戦国期の九州の超大雑把な流れ

・永禄年間
元年頃から中国の毛利元就と国を接した豊後の大友宗麟が対立。
毛利が尼子と戦っている隙に大友が門司城(国境いでしょうか?)を攻めるも敗退。
中頃からも度々争うが、毛利が九州から撤退すると大友が台頭する。
その一方で薩摩の島津と肥前の龍造寺が勢力拡大。
(中央:桶狭間の戦い〜信長上洛辺り)


・天正年間
中頃に入ると、大友が南下し出し島津と対立。ここで島津に敗れた事から大友は徐々に衰えて行く。(耳川の戦い)
代わって台頭し出した龍造寺が島津と対立するが敗れて従属。
(中央:織田が上杉と対立〜本能寺の変前後)

南九州を制した島津は北九州へ侵攻、豊後・大友を攻める。
大友は中央の豊臣秀吉に援助を要請。秀吉が島津義久に対し大友との和平を説くが島津は従わず。
仙石や長宗我部の四国勢が豊臣の先陣として出陣し戸次川にて対戦するが島津に敗北。
これにより島津は九州全域をほぼ治めるが、豊臣秀吉が大軍を率いて九州へ乗り込んできたことで敗戦が続き、遂に島津義久が降伏。
(中央:秀吉関白〜小田原征伐前)


要約……北九州の大部分を占めていた大友が島津に破れて衰退し代わって龍造寺が躍進。その龍造寺をも破った島津が九州全土を治める程に勢力を拡大したが、豊臣(中央)の介入によって九州の争乱終結。




地方(というか織田軍と直接対決していないところ)の歴史はさっぱり分からなかったので、大雑把にまとめました。間違ってるところがあったらごめんなさい。
理解が追いつかないorz



※参考書
・日本文芸社の戦国史
・歴史人/一個人シリーズ

室町幕府・将軍一覧


自分用。
忘れた時の為のメモ。



●室町幕府 将軍一覧

初代 足利尊氏 @1338
 征夷大将軍となり室町幕府を開く

2代 義詮(よしあきら)
 尊氏の子供。

3代 義満
 金閣の人。南北朝を合体。室町殿“花の御所”を建設(故に室町幕府)

4代 義持
 父義満と仲が悪かった。(関連・上杉禅秀の乱)

5代 義量(よしかず)
 義持の子供。将軍となった二年後に病死。享年19。

6代 義教 @1429
 くじ引きの人。勘合貿易を再開。鎌倉公方足利持氏をとことん追い詰め滅ぼす。比叡山を焼き討ち。怖い。
嘉吉の変にて守護大名赤松満祐に暗殺される。

7代 義勝
 義教の子供。10才で病死。

8代 義政
 義教の子供。東山文化の人。応仁の乱の原因の一人。

9代 義尚
 あれやこれやで義政の弟義視との後継者争いに勝った形となった人。

10代 義材(よしたね)-義尹
 義視の子供。

11代 義澄
 堀越公方足利政知の子供。が、色々とあって後に義尹が将軍復帰。

12代 義晴
 義澄の子供。

13代 義輝
 義晴の子供。三好&松永久秀に殺害(自害)される。

14代 義栄(よしひで)
 義維(義澄の子供)の子供。織田信長の上洛が絡んで、そうこうして病死。

15代 義昭 @1568
 義晴の子供。信長のおかげで将軍となり、信長のせいで滅んだ人。※あくまでイメージです。
あれやこれやで京都から追放され、室町幕府は滅亡@1573
ということで、最後の将軍。


情報整理の参考書
・高校時代の教科書&ノート
・日本文芸社の戦国史

<<prev next>>