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:†病床怠惰的創作文的作詩†:




*ハロウィン企画の七作目になります。
*今回は怠惰風味の逃避と放棄サラダ。
*余命幾ばくかのある少年の現実逃避。
*『死』が嫌で『生』を放棄する無謀。
*人間が宿す大罪の一つ『怠惰』の譚。



【:†延命治療からの現実逃避†:】



『続きましては怠惰と放棄の譚です』
『食べるのが少々億劫なサラダです』

『自我を持つ生物の生命活動の中で』
『生涯は四苦八苦を体現した偶像劇』

『その中には当然生の苦しみも伴い』
『苛まれる老若男女すら日常茶飯事』

『余命幾ばくかと宣告された少年は』
『ある一つの解に辿り着いたのです』





(目を閉じて耳を塞いで息を止めて)
(死ぬことも生きることも放棄する)


瞼を閉じて世界を閉ざす
聞こえる心音を子守唄に

生きていることを放棄する
退屈な日常を淘汰しながら

煩わしい残り少ない命を
点滴片手に引き摺ってさ

気休め紛いの励ましの言葉
もう聞き飽きたと耳を塞ぐ

蓋をした掌から伝わって来る
無様に滑稽に縋り付く脈拍数

『もう止めてしまおうか?』
『もう諦めてしまおうか?』

夜になる度に思うんだ
未来と言う朝の到来が

辛いだなんて知らなかったよ
怖いだなんて知りたくないよ

『でも、死にたくないよ』
『僕は、生きていたいよ』

漠然とした虚ろな時間の箱庭で
一秒ごとに命が削られて苛まれ

何もかもが手付かずで終わって
希望も救いもない世界ならばと

前へ進む歯車に逆らいながら
瞼を閉じて自己を閉じ込めて

『嗚呼、そうか。そうだったんだ』
『ねぇ、良いことを思い付いたよ』

辿り着いた一つの『解決策』に
滑稽に身を投じることにしよう

『痛む悲鳴』から耳を塞ごう
『生きること』を放棄しよう

瀕死にも至らぬ不仮死の底で
白い空間に花束を敷き詰めて

死ぬことも生きることも一緒で
結局は一方通行でしかないなら

この場所に留まって仕舞えば良い
眠る様に生きて起きながら死んで

もう何処にも行けなくなったけど
こんな僕にとっては最上の幸いだ


(過去も現在も未来も全部無視して)
(生きることも死ぬことも逃避する)





『砂の味の林檎の様な日常の渦中で』
『人間はどれだけの希望を抱けるか』

『無味乾燥に程近い白い箱の底から』
『少年は何を見出だしたのでしょう』

『生きることも死ぬことも放棄して』
『少年は留まることを選択しました』

『命は半死半生から不完全な魂へと』
『その姿を変え存在を固定しました』





話題:☆ハロウィーン★2013☆


はい。皆様こんにちは♪
早起きして『インフェルノ』を観て来ました燈乃さんですっ!!もう一度観たいっ!!

人間の罪も死後の世界の情景も、変わらない概念としてこの現代に存在していると言うのは、過去を省みなければ解らない事柄なのですが(←まぁ、当たり前ですけど)

壮大に尽きますね。過去の偉人と呼ばれる方々は、現代よりも遥かに鮮明な先見の明を持っていたのでは無いでしょうか。或いは、とても感受性が強かったり。現代の医学的な方面で『サヴァン』と呼ばれる方々も、偉人の方々の中にいたのかも知れません。現に国内外問わず『この人未来人だったんじゃないか』と言う人もいますし。

天才は孤高であると同時に孤独。
故に他への理解を求め止まない。

さて。前置きが長くなりましたが、今回はハロウィン企画の七幕目(或いはサラダ)です。コースに沿うならばレギュームですね。味付けはお好みで。味も素気も無い事とシンプルは似て非なるモノですが、詰まる処は同じです。お腹に入れば皆同じとか言い始めると実も蓋も無いのですが、野菜に塩を振って食べたのが原型と言う一説も御座いますので。ひっそりとアンニュイで仄暗いな雰囲気でお楽しみ下さい。

そんな訳で。今回の題材は『怠惰』です。個人的に怠惰には二種類有ると思う処で、一つは『諦念』。もう一つは『逃避』だと考えてます。どちらにしろ、この作詩の中に出て来る少年は、結果的に人間では無いナニかに為って仕舞しまいました。

死ぬことが生きることの延長線上の事象ならば、生きることを放棄すれば死は訪れないのでは無いかと言う逆説の結論ですね。荒唐無稽な極論でしょうが、奇とは常の世の影から唐突に顔を出すものですので。



ではでは、今回はこの辺で☆



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