逃げていた。

 息を切らし、髪を振り乱し、服を汗で張り付かせ、布にくるんだ荷物を抱え、バクバクバクバク心臓が早鐘を打ち、ガクガクガクガク足が休憩を求めても、止まるわけにはいかなかった。捕まるわけにはいかなかった。
 止まるということは死も同然だった。
 女は走るーー走り続ける。薄く雪の積もった地面を蹴り上げて。身を斬る北風の冷たさに耐えて。鬱蒼とした森の中をひたすらに、ひたすらに。
 それは風変わりな光景と言えた。それは滑稽ですらあった。屋敷の女中が人気の無い森の中を駆け抜けているのだから。女の身に纏うエプロンドレスの裾は枝に引っ掛けたのか大きく破け、恐怖に駆られた形相は生来の愛らしさを無残なものにしていた。
 女は気づいていた。自分が追い込まれていることに。真冬の薄い太陽などとても届かぬ暗がりの中へと、針葉樹の生い茂るさらに奥奥奥へと。
 とにかく町へ逃げよう、人がいる場所までは追って来れないだろう、
「ーーーララ、ラララ」
 そう思案していた女の鼓膜を奇妙な旋律が揺さぶった。

「ーー冬の鳥
 木々の狭間でひとやすみーー 」

 それは歌だった。 木々の間に高らかに響く歌声は優しく強く美しいーー反吐が出るほどに。

 女は知っていた。
 この歌を追手が歌っていることを。
 歌い手はまだ年端もいかぬ子供であることを。
 これは自分のために歌われている歌であることを。
 これは、自分に死をもたらす歌声であることを。

 歌を聞いて人間たちがそうするように、木々もまた踊り始めた。
 それはまるで意志を持つ生き物であるがごとく、揺らめき、しなりーー風を斬り裂きながら女に襲いかかった。
 女は荷物を堅く抱きしめたまま、鞭のような攻撃をかわそうと後ずさる。
 ーー刹那。
 その足を何かが掴む。
 予想外のことに思わずバランスを崩しーー仰向けに転倒した。倒れたまま足元を見れば、大地から突き出た根が絡みついている。
「…くっ」
 がっしりと食い込むそれはびくともしない。
 幸いにして転倒の衝撃は柔らかな土が緩和してくれたのでダメージは少ない。だが、起き上がれるだけの体力はもう無いようだった。


 「あらあら〜。やっとおいつきましたわ〜」
 場違いな声と、小さな足音が辺りに響いた。
 それは、あまりにも状況にそぐわないおっとりした声。
 視界の端に小さな靴が映る。コートを着込んだ幼い体、二つに結んだ金髪。垂れ目がちの瞳、やや太めの眉、額に赤い宝石のような何か。
「うふふ、みーつけたぁ。
 …あら?これじゃかくれんぼですわねぇ」
 歌い手にして追跡者にしてエクセドラ男爵の孫娘ーーエオス・エクセドラはそう言ってにっこりと笑った。


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