鳥インフルエンザで大量殺処分された鳥のことを一生懸命考える。
いのちってなんだろうなぁ。
パック詰めにされる鳥には、いのちはないんだろうか。

口蹄疫でたくさんの家畜を殺処分にして、酪農家さんたちはみんな悔しそうに顔を歪めていたけれど、工場製品がダメになっちゃったときだってヒトは同じ顔をするだろうね、と思った。
仕事として、誇りを持ってるのは本当だろうけれど、命を愛でてるのが本当かと言ったらそれは違うだろうし。

食べるってなんだろう、本当にいのちをいただくということとイコールなんだろうか?
生きるってなんだろう、なにかのいのちを毟り取ってまで、ヒトに生きる価値なんてあるのかな?

牧場経営をしている人が書いた本によると、心をこめて名前を付けるかどうかが違うって言ってた。
犬は死を見取ってお墓を作るし喪にも服すけれど、足を痛めた牛は生きてる内にドッグフード工場行き。
気持ちが沈まないわけではないようだけれど、午後には普通になるんだ。
それはお仕事だから?

名前、を、付けないから?だろうか?

クラスで飼った豚(鳥だったかな)を食べる授業をする学校があるらしいですね。
(新聞で読んだ話なので超あいまいだけど)
私も小さな頃にそういう経験をしたかったな。
私が接してきた命は全て愛の対象だったんだもん。
さーらちゃん、てんちゃとしそのみ、マダム・キャサリン、小梅さん。
数だって多くないしさ。

でもそれとは違うんだろうなぁ。
いのちいのちいのち。
エサ用に売ってる金魚やザリガニやうさぎと、高級出目金とマロンとミニロップイヤーとどう違うの?

いのちある工場製品ということなのか。
じゃあいただきますってなんで言うんだろう。

世の中ってさ、ちょっと改めて考えて見るとワケワカンナイことだらけだよね。
エルシー