Tagebuch von Blauer Baum


朝倉かすみ『静かにしなさい、でないと』
2014/02/01 20:25

 小説というものを、随分と久しぶりに読んだ。
 ひとから薦められて読んだ。不幸なことに、ひとから薦められて読んだ小説が面白かったことが、ほとんどない。自分の趣味が偏っているのだろうと思う。
 まあ、そんなだから、不安な気持ちで読み始めた。どこかで、自分のアンテナに引っかからなかったものを面白いと思うのが癪なのかもしれない。そう自分で分析する。
 朝倉かすみ『静かにしなさい、でないと』(集英社文庫、2012)、短編集である。
 ひとつめの話を読むのに、大層苦労した。文体は、問題ない。だが、主人公が、気持ち悪かった。

 「内海さんの経験」というタイトルのその話の、主人公はもちろん、内海さんである。自らのことをB(ブス)だと思っている、ワキガの女性である。ワキガという言葉、腋臭という文字面の「臭」が嫌で、それは「W」と呼ぶ。彼女が、同族のBの女たちと、皮肉をやりあったり傷をなめ合ったり、妙な連帯関係を結ぶシーンと、かつての同級生になんとなく言い寄られるシーン(主に回想)で構成された話。これは、なんというか、どちらも気持ち悪くはないか。
 彼女の自意識がうぞうぞと蠢く話なのである。気持ち悪さは織り込み済みだろう。だけど、だけど。
 この話だけ読んで、その日は寝た。
 翌日、残りの話を読んだ。
 好きか嫌いかで言えば、好きではない。だけど、好きではないものを読む体験は、好きなものを読む体験よりも、ずっと考えさせられるということを知った。なぜわたしは、これが嫌なのか。何が嫌なのか。わたしはなんなのか。読書というより、自分を考える行為だった。
 なんとはなし、それが恐ろしかった。それは、この嫌な人物たちへの嫌悪は、同族嫌悪だからなのではないか、と、まあ一番安易な推測をまず、する。
 それを自分ひとりで考えていて、認めるのは至難の業だ。わたしはまだそれを認めていない。認める予定もない。
 そういう部分も、きっとあるだろう。そう推測されるという事実は、認めよう。
 でも、それだけではない、気がしている。言い訳だろうか。
 別にもう論文を書いているわけでもないのだから、言い訳だったとしても、いいか。

 解説も読んだ。アナウンサーの女性が書いたもの。登場人物たちへの共感をまず述べながらも、ある指摘をする。でも、私は美人じゃないか。
 美人と言われてきた人間が、この作品の登場人物たちと、本当に「同じ目線」で共感するのは難しいのではないか、と。
 この単行本に収められた話の、主人公の多くが、ブサイクな女性だ。自分はブサイクである、という自己認識から見る世界と、自分は美人である(あるいは、美人ではないが劣った容姿ではない)という自己認識から見る世界は、どうしても、違うのではないか。
 登場人物たちに、分かる、と(美人の目線から)言うのは、しかし「ねぎらい」が含まれるのではないかと、解説では指摘していた。
 わたしは、彼女たちをねぎらう気にはなれなかった。
 ちなみにわたしは美人と言われてきた側の人間である。(しかし、このこと自体に異論を唱えられたこともある。その程度のものと考えていただければよい)

 つねづね、「自分を心の底からブスだと思っている人間の気持はわからない」と考えている。これは、事実いかんは関係ない。他人から見てものすごい美人でも自分をブスだと思う人はいるだろうし、逆もまた然り。
 ひとりっこで、両親にちやほやされ、成績の良い優等生で、顔は、まあブサイクではなかったわたしは、概ね褒められて生きてきた。良い子の評価には、たまに可愛いや美人という派生的な評価も混ざるものだ。だからどうやっても、自分をブスだと認識できるタイミングは、無かった。優等生は進んでやっていた。というか、わざわざ不良をやるのは面倒だった。褒められるのは、まあ嬉しかったし、負けず嫌いだった。
 ひとの期待には応えたいタイプだ。高い評価を与えられたならば、その評価に見合う人間でありたかった。負けず嫌いだから。それに、わたしが堕落していったら、わたしを評価してくれた人に見る目がない、ということになってしまう。その人の審美眼を本物にする責任が、わたしにはある。評価してくれたんだもん。期待には応えたい。
 というわけで、美人と言われてしまったからには、美人でなければならない。少なくとも、そういう意識でなければならない。
 わたしにとって、自分のことをブスだと言うのは、ただの逃げ、甘えである。

 この作品の登場人物たちは、どうも表層のことだけに意識があるようなきらいがある。そしてその意識の中で彼女たちは「不幸」であり、その責任を何かに、たとえば外見に、なすりつける。
 それが嫌だった。
 表層のことというのは、それこそ外見とか、あとは評価、恋人の有無などである。それを気にすることは致し方ない。わたしだって気にする。わたしは気にしすぎな方だと(それが自分の悪いところだと)、自分では思っている。だけど、彼女たちはそれしか考えていない。
 自分を不幸だと思うことは、わたしにとっては禁じられていることだ。両親の愛情、友達からの愛情、気をかけてくれたすべてのひとを、裏切ることになるからだ。
 この作品に出てくる女たち(人物の性別が分からない作品も一遍あったが、あとは皆女だ)は、その裏切りを平気でする。だから、誰のことも愛していないんだな、と思う。
 読んでいて、怖いよ、と(揶揄も含んでだが)思うことが多かったのは、この所為だろうか。良い子でいたいわたしは、そう思いたい。
 自意識の渦中にいるときに、思考がぐるぐる回る感覚、被害妄想に陥る感覚は、わかる。わかるが、わたしはそれに浸れない。彼女たちは、浸っているように見える。事実、それに気づいていないのだから。そこが、違う。

 言ってしまえば、考えが足りないのだ、彼女たちは。

 だが、彼女たちのうちの何人かは、別な女を「考えが足りない」ことで断罪する。
  たとえば「静かにしなさい」の主人公。美しく、しかし男性関係にだらしがない従妹を、「おつむが弱い」と言って、自分より下位に置く。無論そのうしろには、「女」として、自分が彼女よりも「劣っている」という思いがあるわけだが、しかし、わたしはこの従妹の方には嫌悪感は抱かない。考えることに意味を見いだしていないのなら、それはそれでいいのだ。可愛くて、ビッチ。いいじゃないかわかりやすくて。需要と供給も、そこで一致しているのだし。もうそこまで若くなく、派手でもなく痩せてもいなく、まあ、言ってしまえば、多分美人でもなく(思ってないけど)、ただ、考え、勉強をすることを選んだわたし、とは、まったく無関係な場所で彼女は生きている。だから、全く別種のものとして面白いし、美人なら目の保養になる。だから、従妹には何も思わない。
 だけど、この主人公は、考えているくせに、考えはぐるぐる回って、何も生まない。不満はあるが、改善する気がない。非生産的で非合理的なのである。それでブスなのだ。さらに、この主人公もワキガらしい。お前はなんなんだと問いたい。従妹は美人だから、いるだけで目の保養になるという価値がある。じゃあお前は何なんだ。お前にはどんな価値があるのか。お前は他人にどんな恩恵をもたらすのか。もたらさないならせめて、感謝をしろよ。不満を持つのではなく、いいことのひとつも見つけて喜べよ、と。不満顔のブスなど、誰が見たいものか。


 ここまでのわたしの意見は、一体どのように映るのであろうか。わたしのことを性格ブスと呼ぶ人もいるんだろう、とぼんやり思う。さらには、顔が見えないのだから好き勝手書いているだけで、本当は顔面もブサイクなキモオタ偏屈女が、と思われるのかもしれない。あるいは、そこまで嫌悪感を抱かせるほどの力は、わたしの文章にはないかもしれない。
 だけど、これは、翻ってわたしの覚悟である。これだけ言うのは、自分がそのように意識しているからである。何かを生んで、ひとに恩恵をもたらすことができるなら幸い。もたらせないにしても、せめて期待には応えたい。期待すらされなかったとしても、せめてひとに迷惑はかけないようにしよう。そしてひとから受けた恩恵には感謝をしよう。わたしに関わってくれて、声を掛けてくれて、時間を割いてくれて、話してくれて、話を聞いてくれて、笑ってくれて、ありがとう。書いてみると自己啓発みたいでちょっと気持ち悪いが、これがわたしの本音と、覚悟である。
 彼女たちには、覚悟がない。不幸ぶって、その「不幸な女」に胡坐をかいて図々しく座っているだけだ。


 不思議なのは、なぜ「自分はブスだ」と「自分は女だ」という意識が同じだけ強く、同時に存在しているのか。これは裏を返せば自分への疑問にもなるが。なぜわたしは「自分は美人だ」と「自分は女ではない(女にはなれない)」という思いを、同じ強さで、同時に抱えているのか。
 まあ、自分の問題は根が深いので置いておこう。彼女たちは、「自分は女である」ということに疑いを持たない。これまで一度も男性から性的にまなざされたことがなくても、だ。ここが、本当に理解できない。
 わたしは(敢えて言うが)そこそこ美人だし、男性から告白されたことは、0ではない。だけど彼らが性的接触をしてこなかったという理由から、「わたしは女ではない」と自分を位置づけた。男性一般から生殖可能な(かつ性的興奮をもたらす)女性身体として認定されて初めて「女」である、とわたしは思う。逆に言うと、「女」にはそれしか価値がない。
 だからわたしは「女」ではない。ひとである。性別を持ってはいない。
 わたしが読んだのは文庫版だが、帯にこんな文句がある。「オンナの本音炸裂の短編集」。これが「オンナの本音」だというなら、わたしのミソジニーには加速度的に拍車がかかる。
 だけど、そう、これはわたしのイメージする「女というマイナス像」そのものだ。
 頭が、悪い。結局彼女らの「不幸」の原因はその一点に尽きるのではないか。そしてその頭の悪さ、は「女である」ことに起因しているのではないか。それは身体が、生物学的に、という意味ではない。「女」という社会存在であるために彼女たちはもれなく「頭が悪い」のではないか。
 書きおろしだと言う「やっこさんがいっぱい」は、後付のようなほのぼの話で、もちろん読みやすかったがやはり主題が違うように感じられた。それを除外して、残りの話の中で、唯一「幸せ」だと思ったのは、「素晴らしいわたしたち」である。この「わたしたち」は、勉強こそできないが、他の「女」たちよりは、頭は悪くないだろう。考えることそのものを、選択したり放棄したり、している。つまりは判断できているし、判断のさきには結果がある。生産的だ。不幸ぶらず、ひとの所為にもしていない。だから、きっと結末のあとも、つまり「わたしたち」がAとBとに分離した後も、たぶん、それぞれ、幸せなのだ。面白いことに、この人物だけは、性別が分からないのだ。

 わたしは自意識過剰なのだが、その方向性は、申し訳ない、という向きのベクトルなのである。少しでも自分のなかに他人(あまり親しくないひと)への好意の片鱗を見つけると、いちばん初めに思うのが、「わたしなんかに好意を持たれて、不快ではないだろうか」ということである。そのあとに「いや、わたしのことなんか認識すらしていないだろうし、自分のことを、たとえマイナスにだとしても彼/女の意識に刻みこまれていると思うなんて、わたしはなんて思い上がっているのだろう」と続く。我ながら恐ろしいまでのネガティブさである。自分は美人で性格もよく賢い良い子だと心の底から思っているのにも関わらず、である。わたしはわたしが好きだが、他人がわたしをどう思っているかなんて、一ミリもわからないとも思っている。
 彼女たちの自意識過剰は、自己肯定的だと思う。BでWの内海さんですら、すこし良くしてくれた元同級生が、当時自分に気があったのはないか、と妄想する。わたしだったら、妄想のあと、猛省する。口にはしないから、相手に知れることはないけれど、もし知れたら、相手はどんなおぞましい気持ちになるだろう。わたしなんかの妄想のおかずにされて、と。だが内海さんはそうしない。
 すこしだけ、うらやましいな、と思う。その図々しさは、やはり正真正銘「女」である、と。「女」である限り、彼女たちは「ブスな女」という、既存のカテゴリーのなかに居場所を保証されている。世間には「男」と「女」という大枠と、その中のサブカテゴリしかないな、とよく感じる。「頭が悪いが女である」ことと「頭を使えるが女ではない」ことの、後者を選んだわたしには、居場所は、ない。
 なんて、すこしセンチになったりする。


 やはり、共感はできないようだ。ここまで断絶を感じるならば、同族嫌悪ではないだろう。それとも、自分の思考を捻じ曲げるほどの強烈なミソジニーが働いているのか。だとしたら、それに気づけず思考を曲げられているわたしは頭が悪いから、つねにすでに「女」である、ということになる。それではそもそもの出発点が成り立たない。堂々巡りだ。
 ただ、言えるのは、この5000字越えの感想を書かせるほどに、この作品はインパクトがあった、ということだ。すでに言ったように、わたしの文章では嫌悪感は呼び起こせないだろう。それとも、何かが引っ掛かって吐き気がするほどの嫌悪を感じている人もいるのだろうか。
 どういう狙いなのかは、わからなかった。作家については、全く、何もわからなかった。そういう意味ではうまいのかもしれない。共感狙いなのか、それともわたしのように嫌悪感を募らせていることこそが思う壷なのか。
 この作家は、自分のことをブサイクだと思っているのだろうか。
 思っていないなら、ほんとうに、女って怖いなと思う。

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