遠雷が聞こえたと思ったら、いつの間にか雨が降り出していた。
雨戸を上げた突出し窓の向こうで、小雨が音を立てている。大した雨ではないが視界が煙って、薄い霧がかかっているかのようだ。
──麓で降り出したってことは、山の上はもっと降ってるんじゃないか?
そうだとすれば、川の水嵩が増すことになるが……と思いながら、イークは砥粉を打つ手を止めて、窓の外を覗き込んだ。
遠くで空がチカッと光り、少し遅れて天が唸る。さっきより雷鳴が近づいているように思えるのは、きっと気のせいではないだろう。
かと言って夏の盛りに、窓を閉め切ったのでは部屋が蒸して敵わない。どうせ雨には慣れているし、と思いながら、イークは窓を開けたままにして、再び剣の手入れに戻った。
年老いた夫婦が営む、ルシェッロ村唯一の小さな宿屋。イークは現在、その二階の一室にいる。初めて村を訪れた日、食事に薬を盛られたあの宿だ。
まさかまたここに泊まる羽目になるとは思わなかったが、経営者夫妻には先日の件を陳謝され、宿代はタダでいいと言われた。金欠が死活問題となりつつあるイークに、彼らの好意を拒む理由はない。というわけで現在この宿には、イークの他にもゲヴァルト族一行、そしてフィロメーナが宿泊している。
(作戦は川の水が引くまで延期かもな)
なんてことを考えながら、愛剣に黙々と砥粉を打った。戦士ならば戦いに向けて体を休めることも大事だが、さらに大事なのが武器の手入れだ。
いくら体調を万全に整えたところで、武器がなまくらでは戦えない。逆にきちんと手入れさえしておけば、どんなときも剣は使い手を裏切らない。
それもまた尊敬する師の教えだった。だからイークは得物の手入れを欠かさない。ところが今日は少々問題があった。頭を使わない単純作業を続けていると、退屈を持て余した脳が余計なことばかり考えるのだ。
たとえば酒場で男に絡まれたときの、フィロメーナの反応とか。魔物との戦闘でイークを庇い、震える手で剣を握っていたフィロメーナの様子とか。自分が気を失っている間、頭の後ろに添えられていたフィロメーナの太腿の感触とか──
「──だーっ、くそっ!!」
そんな雑念に嫌気がさして、イークは手にしていた打ち粉を思いきり床へ叩きつけた。完全なる八つ当たりだが、こうでもしないと腹が立って仕方がない。
何に腹を立てているのかって? もちろん己の煩悩にだ。
まったく困ったことに、このところふと気がつくと、いつもフィロメーナのことばかり考えている自分がいた。彼女と出会ってからというもの、どうもおかしい。余計な考えばかりが脳裏を巡って、目の前のことに集中できないのだ。
現に今も剣の手入れを放り出し、こうして頭を抱えているわけで。
(そもそもあいつが無防備すぎるのが悪いんだ。世間知らずのくせにいちいち面倒事に首を突っ込むし、無茶ばかりしやがるし……あんなんでよくここまで旅してこられたな。今度の山賊討伐も、自分が囮になるとか言い出しやがって……あれだけ震えてたってことは、本当は戦いが怖いんだろ? なのにあいつは、なんで──)
「──あの、イーク?」
と、刹那、いきなり至近距離から名前を呼ばれて、イークは心臓が口から出るかと思った。辛うじて息を詰め、悲鳴を上げることは免れたものの、おかげで声も出ないままギギギギと隣を振り返る。
そこには何故だか心配そうにこちらを覗き込む、フィロメーナがいた。
ああ。あと少しで唇が触れる、という距離から見ても、本当に出来すぎた顔立ちをしている。日に焼けることを知らない白い頬は奇跡みたいにきめ細やかで、見ていると触れたくなるほどだ。
その美しさはきっと鳥籠の中で大切に育てられ、良いものを食い、穢れを知らずに生きてきたがゆえに磨かれたものなのだろう──なんて悠長に考えている場合ではなかった。次の瞬間、イークは渾身の力で床を蹴り、座っていた椅子ごとフィロメーナから距離を取る。ガリガリガリ、と椅子の脚が手酷く床を傷つける音がしたが気にしていられなかった。近い。近すぎる。というか、
「な……なんで俺の部屋にいるんだよ、あんた……!」
裏返りそうになる声をどうにかこうにか平静に保ち、イークは喉の奥から最大の疑問を絞り出した。するとフィロメーナは中腰のまま小首を傾げ、絹みたいな手触りの長い髪が、さらりと彼女の肩を滑っていく。
「ごめんなさい。呼んでも返事がなかったものだから、具合が悪いのかと……やっぱりあんな怪我を負ったあとじゃ、体がつらいでしょう? どこか痛むのなら、ジルヴィアさんを呼んで──」
「いい! 何ともない! 今朝の怪我ならもう完全に治ってるから気にするな!」
イークは全力でフィロメーナの誤解を否定した。血を流しすぎて体がだるいのは事実とは言え、それについては安静にしているしかない。ジルヴィアが操る
蒼?刻に治せるのは外傷だけだ。そもそもこんな現場にあの女を呼ばれたら、今度はどんな目で見られるか分かったものじゃないし。
「そう? あなたが大丈夫と言うのなら、私も無理にとは言わないけれど……」
「あ、ああ……本当に何ともないから安心しろ。そんなことより、俺に何か用か」
「ええ、ちょっと……──座っても?」
と、フィロメーナは何の作意も感じさせない仕草で、イークの向かいにある椅子を指さした。この宿は質素だが必要最低限のしつらえはあって、各部屋に小さな円卓と二脚の椅子が用意されている。──とは言え。
寝台が鎮座する密室で、男女二人きりというのはまずいんじゃないか。別に彼女をどうこうする気がないとしても、つまり、ほら、世間的に?
いや、でも時刻はまだ夕刻になったばかりだし、時間的にはまだぎりぎりセーフか……なんて自問自答の果てに、イークはどうにかこうにか頷きを返した。大層ぎこちない頷きだったが、了承をもらえてほっとしたのか、彼女は表情を綻ばせている。
「ありがとう」
短く礼を言いながら、フィロメーナは宣言どおりイークの向かいに腰を下ろした。ほんの微かな椅子の軋みが、彼女の体の軽さを物語っている。
俺が座るときはもっと盛大に軋むのにな……などととりとめもないことを考えつつ、イークは手入れの途中だった愛剣を軽く拭って鞘へ収めた。
かと言っていきなりフィロメーナと見つめ合うのはばつが悪く、先程自らぶん投げた打ち粉を拾いに腰を上げる。
「で? 用件は?」
「……」
尋ねながら打ち粉を拾い上げると、案の定床が砥粉で白くなっていた。それをせっせと靴の裏で散らしつつ、フィロメーナの返答を待つ。
ところがいつまで経っても彼女は口を開かなかった。想定より長い沈黙にどうしたのかと振り向けば、フィロメーナは椅子の上でうつむいたまま、きゅっと唇を結んでいる。
「……? おい……どうかしたのか?」
「……」
「作戦の件で、何か問題が?」
「……いえ、そうじゃないの。そうじゃなくて……」
フィロメーナは膝の上で重ねた繊手を見つめて、何かひどく思い悩んでいる様子だった。酒場の酔っ払いや、ゴツい眼帯男の前でもまるで物怖じしなかった彼女が今、イークに見据えられて悚然と肩を竦めている。
これはさすがに妙だと感じて、イークも自分の席へ戻った。座ろうとして椅子を引けば、ギィ、と床が擦れる音に、彼女の肩がびくりと跳ねる。
「……おい、フィロメーナ?」
「──ごめんなさい」
「は?」
「私……あなたに、謝らなくちゃいけないと思って。怒らせるつもりはなかったの。でも、結果として私はあなたに、迷惑ばかりかけてしまって……」
「お……おい、待て、いきなり何の話だ?」
「自分でも分かっているわ。怒られても仕方ないって。だって私、リーノからここまで、あなたの足を引っ張ってばかりで……きっとお荷物だって思われているわよね。私もそう思うもの。さっきはカワードさんたちを安心させるために偉そうなことを言ったけれど、半分は口からでまかせ。作戦が上手くいく保証なんてどこにもない。だけど……いいえ、だからこそ、あなたには今のうちに謝っておきたいと思ったの。一度山へ入ったら、そこから先は何が起きるか分からない。だったらせめて、あなたにまた迷惑をかける前に──」
「おい、待てって言ってるだろ! 勝手に話を進めるな!」
あまりにも一方的に捲し立てられるので、イークはつい声を荒らげた。すると再びフィロメーナの肩が跳ねて、流水のように溢れていた彼女の言葉がぴたりと止まる。対面に座ってから、ずっと伏し目がちだった彼女がようやく視線を上げた。そうしてやや遠慮がちに注がれる眼差しに、イークは思わずため息をつく。
「あのな……あんたが何を言いに来たのかはおおよそ分かった。だが、先に一つ言っとく。俺は別に怒ってないし、あんたがそんな風に頭を下げる必要はない」
「え……?」
「たぶん、俺の言い方が悪かったり……態度がキツかったりしたんだろう。気に病ませたなら、謝る。けどそれは悪意があってしたわけじゃない」
「そ、そうなの……?」
「ああ……まあ、なんというか、な。俺、ガキの頃からこうなんだよ。短気で喧嘩っ早くて、いつも周りに敵ばかり作ってた。おかげで他人に気を許すのが苦手でな。とは言え、あんたまで脅かすつもりはなかったんだが……」
悪かった、と重ねて謝れば、途端にフィロメーナの肩から力が抜けた。彼女は心底ほっとした様子で愁眉を開き、文字どおり胸を撫で下ろしている。
「良かった──」
次いでフィロメーナの唇から零れた安堵の吐息に、イークはばつの悪さを感じて顔を背けた。己の煩悩に振り回されるあまり、彼女をそこまで追い詰めていたのかと思うと、苦い笑いがこみ上げてくる。
──ほんと何やってんだ、俺は。
男は女を守るもの、などと口では偉そうに言いながら、女の方に気を揉ませて謝罪までさせるとは。まったく情けないにも程がある。
郷を出るまで、まともに女と接してこなかったことが裏目に出た。故郷で唯一身近にいた女と言えば、妹分のカミラだけ。
おかげでカミラに対する態度がそのまま、女という生き物に対する態度になってしまっていたのかもしれない……なんて反省に明け暮れていると、不意に「ごめんなさい」と、何故かフィロメーナの方が謝った。
「私の方こそ、早とちりしてしまって。朝の一件以来、あなたとゆっくり話す機会がなかったから……だから勝手に、嫌われてしまったかもしれないって不安になったの。私を庇って、ひどい怪我をさせてしまったし……」
「あ……あれは別にあんたのせいじゃないって言ったろ。俺があんたを助け損ねて、勝手にヘマしただけだ。だいたい怪我って言ったらあんただって、魔物の槍を抜くために手、火傷してただろ」
「あのときは無我夢中だったから。後先考えていられなかったのよ。私のせいであなたが死んでしまうかもしれないと思ったら、頭が真っ白になって……」
「だとしても、あんな無茶をするのはこれっきりにしてくれ。戦場で血を流すのは俺たち戦士の仕事だ。あんたみたいな女が、わざわざ危険に身を晒す必要はない」
──というより、彼女に傷ついてほしくない。
穢れを知らない白い手を血で汚してほしくはないし、澄んだ瞳を濁らせてほしくもない。
そういう自分の本音にいよいよ嘘がつけなくなって、イークはため息と共に額を押さえた。……やっぱりどうかしてるよな、俺。
けれどそんな自己嫌悪をものともしないほど、フィロメーナに惹かれている自分がいる。これが世に言う恋愛感情というやつなのかどうかは、出会って数日の自分にはまだ分からない。
ただ、彼女になら跪いて剣を捧げてもいい、と。
フィロメーナはただそこに存在しているだけで、他人にそう思わせる何かがあった。天然すぎて放っておけないとか、危なっかしくて目を離せないとか、そういう感情もないわけではないがそれ以上に。
彼女はたぶん、自分の人生を変える人だ。
そういう予感が胸に芽生えて、蕾をつけるほどに育っている。彼女についてゆけば、いつかその蕾も花開くだろうか。花開くのなら、見てみたい。
故郷で燻っていた頃には想像もつかなかった未来を。世界を。
『なあ、イーク。いつかお前もクィンヌムの儀に出て、自分の剣を捧げたいと願えるほどの相手に出会えたなら』
刹那、脳裏に師の言葉が甦って顔を上げた。
『そのときは、絶対に手放すな。──お前は俺みたいになるんじゃないぞ』
それが今だと、彼に背中を押されたような気がして。
イークは唇を開きかけた。
が、想いを言葉に置き換えようとしたところで、はたと口を噤む。
何故なら向かいに座るフィロメーナが、むくれていたから。
……いや、あれはどう見てもむくれている。だって栗色の細い眉を寄せ、半眼になり、心なしか頬まで膨れているではないか。
しかしそうしてぶうたれると、大人びた顔立ちがにわかに少女っ気を帯びて……かわいい。明らかに不機嫌なのに。なんでだ。反則だろ。
「おい……何を怒ってるんだよ、あんた」
「だって……それってやっぱり、私が足手まといってことじゃない?」
「誰もそうは言ってないだろ。そもそもあんたは戦う術を持ってない。だったら無理に戦おうとするなと言ってるだけで」
「だけど私、戦いたいの。戦って戦って、もっと経験を積みたい。もっともっと賢く、強くなりたい」
「はあ?」
「足手まといは嫌なのよ。無知で愚かで、浅はかだった自分と訣別したい。でないと、ジャンに会わせる顔がないもの……」
……ジャン=H
急に知らない人物の名前が出てきて、イークはすぐに言葉を返せなかった。一方、フィロメーナはふてくされた表情をすっと収めて、気づいたときには何やらひどく思い詰めた顔をしている。
卓の上に落とされた視線は翳りを帯び、眉間は悲愴に彩られていた。彼女のこんな表情を、イークは前にも見たことがある。あれは、そう──リーノの酒場でベルントたちに、片耳だけの耳飾りを対価として手渡したときの。
「……誰だ、そのジャン≠チて?」
「ジャンカルロ・ヴィルト。今は亡き黄妃陛下の甥で──私の婚約者だった人よ」
コンヤクシャ。
うつむいたままのフィロメーナの口から零れた言葉が、脳内で正しく訳されるまでずいぶん長い時間がかかった。コンヤクシャ。こんやくしゃ。婚約者。
……つまりアレか。
イークの故郷の言葉でいうところの──
許嫁≠ニいうやつ。
「……ええと……あんた、コンヤクシャがいたのか……?」
「ええ。子供の頃、親に決められた相手だけれど。だけど私、彼とならきっといい夫婦になれると思っていたのよ。ジャンは優しくて、聡明で……自分の地位なんて鼻にもかけず、誰にでも分け隔てなく接する人だった。喜びも悲しみも、誰かと分かち合おうとする人で……」
「……」
「けれど、彼は……去年の今頃、突然失踪してしまって……私に残されたのは、彼のことは忘れて幸せに生きてほしいと書かれた置き手紙だけだった。だから、私は……」
そこから先の言葉は滲んで掠れ、イークの耳には届かなかった。
されど聞かずとも分かる。
──そうか。だから彼女はたった一人、都を飛び出して旅しているのか。
フィロメーナは恐らく、行方をくらませた婚約者を探しているのだろう。卓の向こうで懸命に涙をこらえている様子を見る限り、二人はたぶん、深く愛し合っていたのだ。幸せに生きてほしい≠ネんて手紙を残していったことを考えても、それがフィロメーナの一方的な感情だったとは思えない。
子供の頃からの婚約者ということはきっと、二人は長い時間をかけて、将来夫婦となるための愛を育んだに違いないのだから。だのにジャンカルロは、フィロメーナを置いて忽然といなくなった。そうしてたったひとり、わけも分からず取り残されたフィロメーナの心中は、推し量って余りある。
「ジャンが黄都を出ていった理由は分かってる。彼は、黄皇国の腐敗を憂えて……カワードさんたちのように、国の怠慢と横暴に虐げられる人々を救おうとしているの。けれど民を守るということは、今の政治を……祖国を否定するということ。だからジャンは一人で出ていったのよ。この反乱に私を巻き込まないために」
「……なのにあんたは、そのジャンカルロって男を探してるのか。ジャンカルロの願いを知っていて、それでも?」
「ええ。だって私は知ってしまったの。黄皇国の真の姿。暴政に苦しむ人々。そして、何も知らずにのうのうと贅を貪っていた自分の愚かさを……」
──もう、あの街へは戻りたくない。
白い頬を一筋の涙で濡らしながら、フィロメーナは言った。
──無知で残酷だった自分の過ちを、償いたいの。
と、心の底から絞り出すように。
話を聞いて、イークはようやく合点がいった。
フィロメーナが己の身を擲ってでも、ルシェッロ村を救おうとする理由。
彼女にとってこれは償いなのだ。そして同時に、
婚約者へ向かう愛の証明でもある。フィロメーナは恐らく、自らもジャンカルロの思想の体現者となることで、彼への愛を叫ぼうとしているのだろう。
どんな苦しみも悲しみも、逃げることなく共に背負う、と。
「……なら、何が何でもこの村の連中を救わないとな」
とイークが言えば、涙に濡れたフィロメーナの瞳が、はっとしたようにこちらを向いた。
「あんたにそういう覚悟があるのなら、俺も止めない。必ず守ってやる。村の連中も、あんたのこともな」
まるで雲間から光が射すように、フィロメーナの表情がみるみる色彩を取り戻した。最後に一つ、彼女の頬を伝った雫の正体は悲しみか喜びか。けれど彼女は一生懸命、下手くそな泣き笑いの顔を作って、イークへと微笑みかける。
「ありがとう……」
それから少しだけ明日のことを話し合うと、ほどなくフィロメーナは自室へ戻っていった。「おやすみなさい」と笑いかけてきた彼女になんと答えたのかは、自分でもよく覚えていない。
気づけば窓の外ではすっかり夜の帳が下り、雨音も強さを増していた。
質素すぎるほど質素だったはずの夕食が胃にもたれている。
この世のすべてが、浮かれていた自分を戒めているみたいだった。
知らずため息をついたイークの頭上で、天が、低く吼えている。