「――イーク、起きて!」
耳に刺さる鋭い悲鳴に、イークははっと覚醒した。
戦士の本能で枕元の剣を引っ掴み、飛び起きる。瞬間、今まで経験したこともないほどの頭痛に頭蓋を貫かれた。
痛みに慣れた体でも耐え難いまでの激痛。それは矢が通り抜けるかのような一瞬の出来事だったが、思わず呻いて額を押さえる。
――なんだ、今の痛みは?
健康と剣技と神術だけが取り柄のイークは、これまで病らしい病とは無縁の人生を送ってきた。であるがゆえに、正体不明の痛みに対する疑問と焦燥感は強い。
「イーク、大丈夫……!?」
痛みの残滓が頭の中をゆっくりとたゆたい、息を詰めているとすぐ横から白い手が伸びてきた。
再びはっとしてそちらを顧みる。視線が搗ち合ったのは夏空みたいに澄んだ青灰色の瞳。
フィロメーナだった。
ということは、自分は――戻ってきた?
懐かしき故郷と友の夢から、現実へ。
「どうしたの、頭が痛むの?」
「あ、ああ……いや、もう大丈夫だ。それより――」
「おい、青二才! いつまで寝ぼけてやがる、魔物が来るぞ!」
視界の外から飛び込んでくるがなり声。その声が紡いだ魔物≠ニいう単語に息を詰め、あたりに視線を走らせた。
声の聞こえた方角には、既に臨戦態勢を取っているベルントらの姿がある。まだ夜が明けきっていない、薄暮に似た暗さの中でイークは目を細めた。
――確かに、いる。
武器を手に身構えるベルントらの向こう、青い闇を裂いて迫ってくる影がある。数は五、いや六はいるか。相手もこちらに狙いを定めたらしく、この世のものならざる絶叫を上げている。
「フィロメーナ、あんたはそこに隠れてろ……!」
どんどん近づいてくる足音を聞きながら、イークは寝床を飛び出した。野営地としていた岩陰にフィロメーナを一人残し、駆けながら剣を抜く。
魔物。地上の生物とは一線を画した、地底の住人であり邪神の手先。
彼らは地裂と呼ばれる大地の傷から溢れ、人を喰らう。今から千年以上前、天界の二十二大神に敗れた邪神たちが今なお地上の征服と支配を諦めていないからだ。
他方、地上世界を守る人類は神々のしもべ。
ゆえに魔物と人間は、生き物として絶対に相容れない。
「おはよう、色男さん。目は覚めた?」
「ああ、覚めすぎて二度寝は無理そうだ。あとその呼び方をどうにかしろ」
「あら、どうして? カワイイ顔してるから褒めてあげてるのに」
「ふざけてる場合か、来るぞ!」
短剣を逆手に構えて微笑むジルヴィアの冗談を一蹴し、イークは魔物を睨み据えた。地に這いつくばるようにして突進してくるソレは、譬えるならばサンショウウオに似ている。
体表は真っ黒で、頭らしきものは見えるが目がどこにあるのか――いや、そもそも目があるのかどうかすら定かでない。
本物のサンショウウオとの違いは人など丸呑みにできそうなほどのその大きさと、サソリの毒針のごとく持ち上げられた長い尻尾だ。
とは言え尻尾の先についているのは禍々しい針などではない。得体の知れない液体を撒き散らし、右へ左へ揺れているあれは……口?
あの魔物は尻尾の先端にも口があるのか。薄闇の中目を凝らすと、確かに牙も生えている。あんな魔物を見るのは初めてだ。近頃のトラモント黄皇国には、熟しすぎた王政の腐臭に惹かれて魔物が集まっている、とは聞いていたけれど。
「
凍える牙」
そのときイークの隣から蒼白い光がほとばしった。何だと思って目をやると、短剣を構えたままのジルヴィアを冷たい神気が包んでいる。
彼女の呼び声に応え、光の中から生まれ出たのは宙空に浮かぶ無数の氷柱。そうだ、この女は確か
蒼?刻の使い手だとベルントが言っていた――とイークが思い出したところで、弓弦を離れた矢のように氷柱が走った。
幾本もの氷柱は魔物目がけて一直線に飛んでいく。ところが鋭く尖った先端が黒い皮膚にぶち当たると、儚げな音を立てて砕けてしまった。
魔物の方は痛くも痒くもなさそうだ。その証拠に速度を落とさず突っ込んでくる。これにはさすがの彼女も慌てふためくかと思ったら、ジルヴィアは「あら」と気の抜けた声を上げた。表情は変わらず、やや眠たげな目をゆっくりと瞬かせている。
「嫌ね。あの魔物、硬いわ」
「
黒大蜥蜴だ。アイツは皮膚の硬度を自在に操ることができる。特に神術に対する防衛本能が過剰だ。神気を感知するとすぐに硬化しやがる」
「ベルント、アナタあれと戦ったことがあるの?」
「ああ、いつだったかヴィルヘルムの野郎とどっちが多く魔物を倒せるか競ったことがあってな。結局俺もヴィルヘルムもアレだけは倒せなかった」
「アナタやヴィルが倒せないって相当じゃない?」
「だったらこれはどうだ……!?」
氷がダメなら雷だ。イークは右手に神気を集め、電撃に変えて素早く放った。実体を持たない雷のような攻撃なら、敵の体を貫くことができると踏んだからだ。
ところが予想は大きく裏切られた。
雷刻が生み出した稲妻は黎明を切り裂くと魔物の頭部に当たり、そして弾けた。
激突の衝撃ゆえか、魔物は一瞬足を止めたがそれだけだ。やがてぶるぶるっと頭を振ると、気を取り直して突っ込んでくる。
「なっ……雷撃まで弾くだと……!?」
「期待はしてなかったがやっぱり無理か。よし、しょうがねえ、やるぞ。ジル、おめえは後方から仲間を援護。ジャッポ、てめえはジルの援護を受けながら一匹引きつけて時間を稼げ。グエンとエンリコ、フリードとマグヌスは二人一組で一匹ずつ相手しろ。ヨール、お前にも一匹任せていいか?」
「あいよ、引き受けた」
「青二才、てめえも一匹だ。できねえなんて泣き言は言わねえよな?」
「ああ。だがあんたもその呼び方を何とかしろ」
「この場を凌げたら考えてやる。行くぞ!」
イークの要求はまんまとあしらわれ、ベルントを始めとするゲヴァルト一行が動き出した。彼らは長柄の戦斧を手に突っ込んでいくベルントを、怯みもせずに追いかける。
出遅れたのは彼らの流儀を知らないイークだけだ。隣には依然ジルヴィアがいるが、彼女は後方支援を任されたから動かないのであって出遅れたわけではない。
イークはばつの悪さに舌打ちしつつ、一歩踏み出そうとしてためらった。魔物が恐ろしいからではない。戦うにしても、こちらの攻撃を皮膚の硬化で防いでしまうあの化け物をどう攻略すべきか分からなかったからだ。
「おいジルヴィア、あんたらの大将は一体どうやってあの魔物を仕留めるつもりなんだ……!?」
「さあ。気合いじゃない?」
「気合いで何とかなるなら誰も苦労しないだろ!」
「まあ、そうなんだけどねえ。それでも何とかなっちゃうのがあの人なのよねえ」
「はあ……!? あんたら、そんないい加減な理由で――」
「年上のお姉さんにお説教もいいけど、イケメン君。あなたの担当がお見えみたいよ?」
呼び方を改めろとは言ったがそういうことじゃねえ、と怒鳴りたいのをこらえて振り向くと、予想より遥かに近い距離に魔物が一頭迫っていた。あまりのデカさに仰け反りそうになり、とっさに神術を炸裂させる。
今度は本体の頭ではなく、尻尾を狙った。漆黒の尾の先端ではしつけのなっていない犬みたいに口が吠えていて、その口内を狙ったのだ。
バチンと雷気が弾け、神術は見事尻尾の口に吸い込まれた――かに見えた。
ところが命中の寸前、生意気にも尻尾は口を閉じたらしい。おかげでまたも雷撃が弾かれる。
本体が怯まず突っ込んできた。イークは舌打ちして左へ飛び、同時にジルヴィアも反対側へ退避したようだ。
「くそ、やるしかないのか……!」
尻尾がゲラゲラ笑い出し、魔物はついに立ち止まった。神気の
においを嗅いでいるのか、イークとジルヴィア、二人の姿を交互に探している。
その動きから察するに、やはりこいつには目がない、のか……?
ならばとイークは敢えて左手に雷気をまとわせた。神の力を常備することで魔物を自分に引きつける。ジルヴィアは一応女だし、短剣ではリーチが短すぎて魔物を相手取るのは無理だ。案の定魔物がこちらを向いた――まずは第一段階、成功。
「……で、第二段階は?」
自問してみたが初めからそんなものはない。さてどうしようかと一瞬思考が止まったところへ、いきなり何か飛んできた。
魔物の背中に生えたトゲだ。それが生き物のように向きを変え、イークを狙って射出される。なんというトンデモ生物か。イークは止まったら死ぬことを確信して走り出す。
「おい、気をつけろ! 黒大蜥蜴は背中の針を飛ばしてくるからな!」
「警告が遅いんだよ!」
遠くで喚いているベルントに喚き返し、イークは力の限り剣を振るった。飛んできたトゲがカンッと音を立てて弾かれる。
そこそこ重く硬質な手応え。まるで金属と打ち合ったみたいだった。当たったらやばいとは思ったが本当にやばそうだ。当たりどころが悪ければまず間違いなく、即死する。
「こんなのどうしろってんだ……」
神術も物理攻撃も通らず、近づくことすら許されない。これほど厄介な魔物を相手取るのはさすがのイークも初めてだった。
真っ黒な口を開け、本体が吼える。ビチャビチャ飛び散る唾液から鼻の曲がりそうな臭いがした。体が反射的な拒絶を示し、吐き気を催すそれは瘴気の臭いだ。地の底にどこまでも広がっているという、魔物たちのゆりかごたる腐海の臭い……。
「
氷結の檻」
魔物の脚がぐっと縮んだ。あれは跳躍の前触れだ。
飛んでくる。あの巨体が。
想像するだにぞっとして、イークが身構えた、刹那だった。
再び蒼い光がほとばしる。今度の光は魔物の尻尾を包み込んだ。かと思えば宙空に半球状の氷が生まれ、それが左右から尻尾の先をガッチリ挟み込む。
噛み合った二つの氷は球形となり、尻尾の口を閉じ込めた。途端に魔物の四肢から力が抜ける。ガクンと半身を地に沈めると、黒大蜥蜴は動かなくなった。
「は……!? こいつ、なんで――」
「尻尾を切って、イケメン君! コイツの本体は尻尾の方よ!」
「尻尾が本体……!?」
「アナタの神術に対する反応を見て何となくそんな気がしたんだけど、アタリだったみたい。他の仲間も援護したいから早くして!」
トカゲの巨体の向こうから聞こえるジルヴィアの声に、イークは当惑しつつも駆け出した。まさかこれだけのデカさを誇っていながら、本体があの小さな尻尾の方だったとは。盲点だったが、たった一度の攻撃でそれに気づいたジルヴィアの洞察力にも驚きだ。
先端の口――恐らくこのデカブツの脳がある――を凍らされ、ぐったりと地に落ちた黒い尻尾を叩き斬った。ブシャッと不快な音を奏で、尻尾と本体が分断される。
ほどなく尻尾を凍らせていた氷が砕けた。しかし魔物は動かない。
どうやらジルヴィアの推理は当たったようだ。黒大蜥蜴の巨体はサラサラと瘴気の霧に変わり始めている。
「ベルント! こいつの弱点が分かったわ! 尻尾の方が本体よ、狙うならそっちを狙って!」
「ああ!? 尻尾が本体だ!? そうか、そりゃ気づかなかった――なァ!」
すさまじい轟音が噴き上がった。何事かと目をやれば、ベルントが魔物に向かって戦斧を振り下ろしている。
いや、正確には魔物にじゃない。魔物の方を向きながら、
地面に刃を叩き込んだのだ。
水に剣を叩きつけると白い水飛沫が弾けるが、ならばあれは土飛沫とでも呼べばいいのか。ベルントの斧を受けた大地は悲鳴と共に
土煙を上げた。あれは地面が――割れている、のか?
バリバリと天が裂けるような音を立て、地表に走った亀裂が魔物へ向かっていく。ベルントを狙って突進していた魔物は次の瞬間、頭から真っ二つになった。
亀裂と共に走っていく斬撃が、魔物の巨体を縦断したのだ。それが後肢の方へ達する頃には、尻尾まで綺麗に両断された。二つになった魔物の体は真っ黒な血を流し、ゆっくりと左右に沈んでいく。
「お……おいおい、何だよ今の……」
ベルントの斧が見せた規格外の破壊力に、イークは茫然と立ち竦んだ。硬化能力を持つ魔物を正面から叩き斬るなんて、まったくもってデタラメだ。
しかもただの斬撃じゃない。あの男の斬撃は
地面を走った。
そんな話があるだろうか? いくら何でもぶっ飛びすぎている。
しかしふと目をやれば、魔物の数が計算より一体足りない――もしや離れたところで霧化を始めているアレも、ベルントが一人で倒したのか。あの魔物の弱点が尻尾だと分かる前から?
(あの野郎、本当に気合い≠ナ何とかしやがった――)
イークは立ち尽くしたまま口の端が引き攣るのを感じた。ベルントは何が面白いのか、真っ黒な魔物の血を浴びて放笑している。
白み始めた空の下、黒々とした影となって大笑いするベルントの姿は、下手な魔物よりよっぽど魔物然としていた。そんな彼を遠目に眺めながらイークがぞっとしたところで、にわかに裂帛の叫びが上がる。
「きゃああああ……!」
甲高い女の悲鳴だった。それに打たれて我を取り戻したイークは、とっさにジルヴィアを顧みた。
だが彼女じゃない。ジルヴィアは仲間に追い縋る魔物の牽制で忙しい。ならば今の悲鳴は――と振り返ったところで、全身に粟が立った。
アレは何だ。
コウモリ? いや、羽の生えた人間のようにも見える。全身がトカゲと同じく真っ黒でなければ。
体長は二〇
葉(一メートル)ほどと思しいが、手には短槍を持っている。錆びてボロボロになった鉄の棒みたいに不気味で赤黒い槍だ。
コウモリ人間とでも呼ぶべきその魔物は、イークたちが野営地としていた岩陰を笑いながら槍で突いた。途端にフィロメーナが転がるように飛び出してくる。まずい。彼女は丸腰だ――!
「フィロメーナ!」
イークは身を翻して駆け出した。ジルヴィアが一瞥をくれたような気がするが、やはり前線の援護で手一杯なのか舌打ちしている。
コウモリ人間は複数いた。三匹? いや、岩陰から一匹飛び上がってきた。四匹だ。小型とは言え人型で醜悪な魔物に追われ、フィロメーナは這うように逃げ惑っている。
「
雷槍!」
急いで彼女に駆け寄りながら、神術を放った。疾駆する雷の矢に撃たれ、「ギャッ」と鳴いた魔物が地に落ちる。
だが残りの三匹はイークに目もくれなかった。煙と異臭を放つ魔物の死骸を目の前に、竦み上がっているフィロメーナへ肉薄していく。
「シン・ヴォズィ! シン・ヴォズィ!」
魔物が何か喚いていた。まさかあれは魔物の言語――なのか?
「フィロメーナ、逃げろ!」
叫んだが、彼女だってそうできるならとっくにそうしているだろう。しかしいつまでも地面に這いつくばったまま立ち上がらないのは、たぶん腰が抜けているからだ。
くそ、と悪態を吐きながら、イークは更に神術を放った。ところが残った三匹はこちらの攻撃を巧みに避ける。雷撃をヒラヒラかわしながら、隙を見てフィロメーナに――
「イケメン君!」
だからその呼び方はやめろ、と思いながら地を蹴った。魔物に槍を振り下ろされ、頭を抱えたフィロメーナを抱き留め地を転がる。
だが刹那、腹部にジュッと熱が走った。
足を使ってとっさに勢いを殺したイークとは違い、止まり方を知らないフィロメーナは数歩先まで転がっていく。が、全身砂にまみれてようやく止まった彼女が咳込みながら体を起こすのを確認した――良かった。フィロメーナは無事、だ。
「は……しかし、あの状況で……」
――よくも正確に狙いを定めたもんだ。
イークは頭上で狂喜している魔物を見上げながら、口角を歪ませた。
崩れ落ちそうになる体でどうにか剣を掴み、空いた手を腹部へ回す。
そこには土手っ腹を貫き、瘴気で肉を焼く魔物の槍が、
「イーク……!!」
背後で上がったフィロメーナの悲鳴を聞きながら、イークは槍を抜こうとした。
ところが槍を掴んだだけで掌が焼け、呻きと共に頽れる。
起き上がろうとして、血を吐いた。
ダメだ。胃を貫かれている。
魔物の羽音が近づいてきた。
戦わなければ。
しかしもう、意識、が、