「何やってんだ、お前」
「……それはこっちのセリフなんですけど。なんであんたがこんなところでピアノなんか弾いてるの?」
「俺は今日は非番だ。非番のヤツがどこで何してようがそいつの勝手だろ」
「それはそうだけど――」
乱暴に突き放すようなセドリックの言い草に、ミレーナはいつもどおりカチンときた。だが待て、ダメだ、深呼吸。今日はもうこいつと言い争って無駄なストレスは溜めないと決めたばかりじゃないか。平常心、平常心。
「私はあんたが寄越した稟議書にサインをもらいに来たんです。締日ギリギリに提出するんなら、せめて内容に不備がないかどうかの確認くらいちゃんとして下さいませんかねえ」
「あ? 稟議書? ……ああ、ブライスに書かせたやつか」
「ブライス? これあんたが書いたんじゃないの?」
「隊長職は忙しいんでね、たまたま手の空いてた副隊長に代筆させたんだよ。別にサインさえ俺の直筆なら違反じゃねーだろ?」
「まあ、そうだけど……」
相変わらず詩爵家のお坊ちゃんとは思えぬ言葉遣いだ。そう思いながらミレーナは、頑としてピアノの前を動こうとしないセドリックへ歩み寄り、問題の稟議書を手渡した。
セドリックはそれを譜面台の上に置くと、元々持っていた羽ペンでさらさらと自分の名前を明記する。性格はこんななのにやたらと流麗な字を書くのがこの男の腹立たしいところだ。
だがそのとき、ミレーナの視線は稟議書の隣に置かれた別の紙へと移った。それは五本一組の線が何行にも渡って引かれた奇妙な様式の紙だった。
更に五本線の上には、セドリックが描いたと思しいおたまじゃくし……みたいなものの羅列がある。一つや二つじゃなく、何行にも渡ってびっしりと。
何をこんな熱心に書きつけているのだろう。ますますわけが分からずミレーナが眉をひそめれば、そこへセドリックがずいと稟議書を突き出してきた。そんなに寄せなくても見えるって!
「ほらよ、これで満足か? シグムンド将軍にはよろしく伝えといてくれ。礼は後日改めてするつもりだが」
「そ、それはいいけど……ねえ、これなあに?」
「は?」
「このおたまじゃくしみたいなやつよ。あんたが描いたんでしょ?」
と、好奇心には勝てずそう尋ねると、セドリックはミレーナが指差した先を一瞥したあと、またあの忌々しい顔でこちらを振り向いてきた。
「お前……冗談だろ? まさか楽譜も知らねーのかよ」
「が、ガクフ……?」
「いや、悪い。そういやお前は未開の土地からやってきた野蛮人だったな。そりゃ先進文明の産物を知らねーのは当然か」
「言っときますけど、その未開の野蛮人たちが住む土地をあんたらトラモント人は聖地と崇めて有り難がってるんですからね」
腰に手を当て、ひくりと口元を歪ませながらミレーナはそう釘を刺した。故郷であるグアテマヤン半島のルミジャフタ郷は、確かに密林の奥地にぽつりと佇むド田舎だが、それをこの男に言われると何故だか無性に腹が立つのだ。
が、いつもならそのまま不毛な口論に突入するところを、セドリックは珍しくため息一つで終わらせた。彼も非番の日にまで不快な思いをしたくないと思ったのかどうか、面倒そうではあるもののガクフとやらを手に取ると、それをミレーナへ突き出して言う。
「まあ、お前が見ても分からねーと思うがな。要するにコレは曲の設計図だ。お前がおたまじゃくし扱いしたそいつは音の高さを表す記号で、それが示すとおりに楽器を鳴らしゃ曲になる。ピアノだろうがヴィオラだろうがフルートだろうがな」
「へえ……じゃああんたは今、その設計図を作ってたってこと? それってつまり……作曲?」
「だったら何だよ」
「いや、あんたに作曲の趣味があったなんて意外で……そのあまりのミスマッチぶりをちょっと不気味に思っただけ」
「こっちだって好きでやってるんじゃねーよ! ただ兄貴に頼まれたから仕方なく作ってるだけだ」
セドリックは苛立たしげにそう言うと、ミレーナの手から荒々しくガクフを奪い取った。彼の言う兄貴≠ニはハインツ・ヒュー、すなわちヒュー詩爵家の当主にして近衛軍の上級将校も務めている人物である。
「じゃあお兄さんはなんであんたに作曲なんか?」
「再来月に甥と姪の聖浄式があるからだよ。聖浄式のあとには身内だけの祝賀会があるから、そこで姪が俺の新曲を聴きたいとご所望なんだと」
「甥と姪って……え? ってことはセドリック、あなたもしかしてオジサン≠ネの……!?」
「てめえ、そのニヤケ面を今すぐやめろ。さもねえとぶち殺すぞ」
とっさに両手で口元を覆ったものの、そこから漏れ出す悪意に気づいたのだろう、セドリックは歪んだ笑みと共に殺気を振り撒き始めた。
いや、けど無理だ、だってこのセドリックが叔父さん=H 二十六歳という若さにして? ダメだそんなの、面白すぎる!
「い、いやあ、ごめんごめん……だけどあんたに甥っ子や姪っ子がいたなんて初耳で……じゃあ何? その子たちにはセドリックおじさま≠チて呼ばれてるの? ぷくく……」
「よーし、てめえ、そこに直れ。この俺を侮辱したことを後悔させてやる」
「いやいや、待った待った! でもさ、姪っ子ちゃんがわざわざ演奏を頼むってことは、あんたそれなりにピアノ弾けるの?」
「弾けたら悪ィのかよ。ウチは親父が俺たちを文人にしたがってな、ガキの頃に楽器の扱いは一通り叩き込まれた。それが何か?」
「じゃあ今ここで何か弾いてよ、一曲。そしたらあんたが実はオジサンだってこと、ハミルトンたちには黙っててあげるから」
ミレーナが終始ニヤつきながらそう言えば、セドリックは史上最大級に口元を歪ませた。それはもう、いつ邪神と契ってもおかしくないような凶悪な顔で。
「おい、野蛮人。なんで俺がてめえみてえなちんちくりんのために一曲弾かなきゃならねえんだよ」
「イヤなら別にいいのよ? その代わりあなたはこれからハミルトンたちにセドリックおじさま≠チて呼ばれることになるけど」
「なるほど。つまりそうやって脅してでも俺様の演奏が聴きてえと」
「あ、そう言われると急に聴く気が失せてきたかも」
「じゃあそのまま失せろ。聴く気もてめえもな」
「でも私、ピアノの演奏って聴いたことないのよ」
――だから、聴いてみたかった。
別に奏者はセドリックじゃなくてもいい。ただたまたまピアノを弾ける人材としてコイツがいたから脅してみただけで、この巨大で真っ黒な楽器の音色が聞けるなら、誰でも。
だってミレーナは歯痒いのだ。文化圏のまったく違う土地からやってきた自分では、追いかけても追いかけてもシグムンドに追いつけないことが。
ミレーナがトラモント黄皇国へやってきてから一年あまり。それでもまだまだこの国には知らないことが溢れている。
つまりミレーナは、トラモント人であるシグムンドが当たり前の景色として眺めてきたものの大半を知らないのだ。そう思うと胸の中が焼け焦げるようで、悔しいような悲しいような、とにかく叫び出したい気持ちになった。
いつもこんなに傍にいるのに、シグムンドはまだ遠い。
だから早く追いつきたい。
追いついて、隣に立って、いつの日か同じ場所から同じ景色を眺めてみたい――。
「……チッ、分かったよ。じゃあ一曲だけだからな。何がいい?」
と唐突に訊かれて、ミレーナははっと我に返った。
それから目の前にいる彼の意外な返答に驚愕する。
だって、今こいつ、弾いてくれるって言った……?
「って訊いてもピアノ曲なんて知るわけねーか。じゃあ俺が一番弾き慣れてるやつで……」
「……なんで?」
「あァ?」
「なんで弾いてくれるの?」
「寝ぼけてんのかてめえは。たった今てめえが弾かなきゃ良からぬ噂を流すと脅したんだろうが。身内以外は滅多に聴けねえセドリック様の演奏が聴けるんだ、耳の穴かっぽじって心して聴きやがれ」
……いつもなら漏れなくカチンときている偉そうで乱暴な言い草。けれどミレーナは今回だけ、何故だか胸がじんとした。
それを覚られまいと横を向く。だって、たぶん、コイツは。
セドリックがピアノの端に置かれていた布で、サッと鍵盤の表面を拭った。音の玉が音階を上から下まで美しく転がり落ちていく。
ミレーナはその間に鼻を啜り、部屋の隅に積まれていた椅子を一脚持ち上げた。それをセドリックの真横、扉からそう遠くない壁際に置いて着席する。
「じゃ、始めるぞ」
「はい」
「――アンジェロ・ベレ・ルシェロ作曲、『君がいたあの日へ捧ぐ
鎮魂歌』」
すう、とセドリックが息を吸う音がした。
直後に響き渡ったのは、ビリビリと空気を震わせるほどの激しい旋律。
まるで雷鳴のような低音から始まる曲だった。ピアノ曲というからてっきり軽やかで優しげな音色なのだろうと思っていたミレーナは面食らう。
あたかもセドリックの気性の荒さをそのまま体現したかのような、荒々しく攻撃的な音色。
これが鎮魂歌? 何かの間違いじゃ? と眉をひそめたくなるほどには、音の一つ一つがミレーナの耳に刺さり、全身を打擲した。けれど突然に、
(あ――)
分厚く空を覆っていた暗雲が突如晴れ、隙間から天使の梯子が降りてきた。鎮魂歌の曲調は、そんな情景がありありと目に浮かぶほど儚げなものへと変化した。
まったく違う曲をつなぎ合わせているんじゃないかと思うくらい、そこからガラリと空気が変わる。嵐は止み、地上には平和が訪れた。人々は生還を喜び合い、大地には新たな草木が芽吹く――。
なのに、何故だろう。
曲調は美しく穏やかな旋律から心震わす悲しげなそれへと変わっていく。
もう二度と会えない人へ向かう、胸を引き裂かれそうなほどの激情。記憶の中にある幸福だった日々。それを失った現在の悲愴と、わずかばかり閃く明日への希望……。
セドリックが奏でるピアノの音色は、そうした人の心の一つ一つを音に変え、驚くほど繊細に表現していた。まるで吟遊詩人が英雄の一生を巧みに歌い上げるように。
それは作曲者の一生か、はたまたセドリックの一生か。
ミレーナはただただ彼の奏でる旋律を茫然と聴いているしかなかった。
(……すごい、これは――)
郷の外の音楽に疎いミレーナでも分かる。セドリックの演奏技術はたぶん、黄都でもトップレベルだ。
だって、でなければどうしてこんなにも胸揺さぶられるのか。それは人の心の機微を描き出すこの曲が優れているからだけじゃない。その旋律をなぞる奏者に、曲に託された想いを具現化させる力があるからだ。
だから曲の中の出来事が、まるで自分の身に起きたことのように感じられる。旋律の中に隠された様々な想いが、ミレーナの中にあるそれと重なる。
もう会えない人への、彼らと共に過ごした日々への鎮魂歌――。
いつしか脳裏に流れ出したのは、幼き日々を過ごした郷の景色。そこで共に生きた人々。二度と取り戻すことの叶わない、幸福。
けれどそれらは今もミレーナの胸の中にある。
この先何があろうと手放さない。
ずっと。死ぬまで。
誰に否定されたって、ずっと――
「――我が国が生んだ稀代の作曲家、アンジェロ・ベレ・ルシェロは言った。音楽とは奏でる者の心を映す鏡である≠ニ」
そのとき俄然隣から聞こえた声に、ミレーナはぎょっとした。慌てて振り向けばそこにはいつの間にか、執務室で別れたはずのシグムンドがいる。
「し、シグ様……!」
「素晴らしいだろう、彼の演奏は? セドリックはああ見えて何曲か、帝立劇場で有名奏者に演奏されるほどのピアノ曲を手がけている」
「えっ」
「いずれも後世まで末長く弾き継がれるだろうと言われている名曲ばかりだ。だが本人は嫌がって聴かせてくれないから、いつか機会があれば、彼の曲が組み込まれた演奏会へ連れていこう」
言いながらシグムンドは静かに笑い、白い手巾を差し出してきた。それを見て初めて、ミレーナは自分が泣いていたことを知る。
未だセドリックが奏で続ける、優しき日々への鎮魂歌。そしてシグムンドの温かさ。
その双方が目に沁みて、ミレーナは唇を引き結んだまま手巾を受け取った。うつむいて目元を覆いながら、思う。
(ああ、そうか。だからシグ様は――)
自分をセドリックのもとへ行かせた。今なら彼の演奏が聴ける好機だと――そしてその演奏を聴けば、ミレーナのセドリックに対する評価も変わるだろうとすべて見越して。
確かに彼を見る目は変わった。
セドリックはただの乱暴で横暴なエセ貴族なんかじゃなかった。
シグムンドの語った言葉が真実なら、きっと彼も心の中に、ミレーナと同じ失った日々を抱えて生きているのだろう。
でなければあんな演奏はできないはずだ。ミレーナは壁に背を預けながら、セドリックが奏でる彼の思い出に聴き耽る。
シグムンドと並んで眺める景色はやたらと滲んで輝いて、眩しかった。
いつかこの鎮魂歌が誰に捧げられたものなのか、彼に尋ねられる日が訪れればいい、と思う。
◯ ● ◯
「――カミラ」
と、誰かを呼ぶ声で目が覚めた。
……カミラ?
聞き覚えのある名前だ。誰の名前だっけ。
そう思いながら開いた瞼の先に、こちらを覗き込む青い瞳の少年がいた。
日光を背にしてチラチラと閃いているのは、彼が頭に巻いたバンダナの金細工。その輝きが目に刺さり、まどろんでいた意識と記憶とを覚醒させる。
ああ、そうだ。私はカミラ。そして目の前にいる彼は……。
「……ティノくん……?」
「おはよう。みんなもう起き出してるけど……大丈夫?」
「うん……?」
「その……何か夢でも見てたのかな、って」
ためらいがちにそう言いながら、ときにジェロディがそっと手を差し伸べてきた。珍しく手套を外した彼の指先が、横になったままのカミラの頬に触れる。
途端に寝起きの肌が冷たさを知覚した。ジェロディが掬い取った雫が改めて頬を濡らした冷たさだった。
それに気づいてカミラも頬に触れてみる。――泣いてた? どうして……?
「今、マリーが朝食を作ってるから。起きられそうかい?」
「……ええ、大丈夫。あのね、ティノくん」
「うん?」
「私――」
言いかけて、自分が何を言おうとしたのか分からなくなった。頭に浮かんでいたはずの言葉も夢の記憶も靄のようにじわりとぼやけ、やがて霧散してしまう。
だから仕方なく、ごめん、何でもない、と告げて体を起こした。ジェロディはそっか、と言うだけで、それ以上何も訊かなかった。
野営地では仲間たちが銘々出立の準備を整えている。ここは黄都ソルレカランテの南、春の風吹くエオリカ平原。
晴れ渡った空の下、カミラは体を起こしてあの街がある方角を顧みた。
あそこに何か、大切な――とてもとても大切な、かけがえのないものを置いてきてしまったような気がするのは何故だろう。
(私は、誰?)
意味も形もなさない自問が、脳裏に浮かんで弾けて消えた。
夢なんてさっぱり覚えていないのに、どうしてか泣きそうになっている。
唇を噛み、胸を押さえて、カミラはじっと耳を澄ました。
そうしていればどこからか、あの日のピアノの音色が聞こえる気がして。
(了)
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紙幅の都合で書けなかったため補足。
作中で出てきた『聖浄式』とは日本の七五三みたいなものです。別記事で詳しく触れましたがエマニュエルでは4と8が不吉な数字とされており、子供がこの年齢を迎える年には災いが降りかかると信じられています。
その厄払いをするために教会へ赴き身を清めてもらうのが聖浄式。で、無事に儀式が済んだら「良かったね〜」とお祝いするのが一般的。ごちそう食べたり贈り物をもらったり。気分はちょっとした誕生日パーティー。エマニュエルは数え年制なので、誕生日という概念はないんですけどね。
なお48歳を迎える年は最強の厄年と言われていて、このときばかりは大人も聖浄式を執り行うのが普通です。84歳でもやるにはやるけど、平均寿命が50代の世界でここまで長生きする人はたぶんほとんどいないでしょうね……。60歳のギディオンですら「ご長寿ですね!」と言われる世界、それがエマニュエル。