その晩、マナはキムの天幕を訪ねて彼と差し向かっていた。
虹暦一九八年、命神の月、聖神の日。
正義神の神子率いるトゥルエノ義勇軍が、押し寄せた魔物の襲撃により甚大な被害を受けたその夜のことである。
キムが彼の民を従えて築いたその小さな王国は、義勇軍の拠点サン・カリニョの外れにあった。彼らは義勇軍が提供すると言った営舎には拠らず、そこにいくつもの天幕を張って野営している。
キムが寝起きしている天幕はその野営地の真ん中にあって、青地に獅子の横顔が描かれたアルハン傭兵旅団の旗が掲げられているからすぐに分かった。
彼がその場所に陣を張ったのは、トゥルエノ義勇軍に雇われたその日からだ。おかげで傭兵隊は奇跡的に今回の襲撃の被害を免れている――キムは義勇軍と馴れ合うのを避けるためにそうしたのだが、北の外れに陣取ったのが幸いし、南から攻めてきた魔物の目に留まらずに済んだ、というわけだった。
その野営地の真ん中で、マナはキムと酒入りの杯を交わしている。はっきり言って一日中魔物退治に追われていた体はくたくたで、酒なんて飲んでる暇があるならさっさと寝台に倒れたい。
けれど今夜はどうしても彼と話しておかなければならないことがあって、マナは気つけに軽めの酒をグイッとやった。一方キムは、あれだけ激しい戦闘のあとだというのに平気な顔でキツい酒を呷っている。
彼とはもう二十年がらみの付き合いになるけれど、マナは何があろうと顔色一つ変えない、彼の超然とした態度が憎々しかった。
こういう脳筋の筋肉バカと一緒にいると、自分がひ弱でひどく情けない存在のように思えてくる――いや、その認識にあながち間違いはないのだけれど。
「で、なんだ。話というのは」
「んー、実はちょっとウラーンから気になる話を聞きましてー」
「気になる話?」
「そう。さっきね、外でウラーンが荷造りしてるのを見かけたんだけど――キム、サン・カリニョの復旧がある程度済んだらここを離れるつもりでいるって、本当?」
「ああ。そのつもりだ」
「ほんとのほんとに言ってるの?」
「俺が冗談を言わないタチなのは、お前が一番良く知ってるだろう」
虫たちの合唱が最も盛んになる深夜。マナはキムとの間に置かれた円卓の上で、薄い酒の入った杯をきゅっと握った。
初めて出会った頃から何も変わらない、低くて抑揚がなくて突き放すような声。灯明かりを映した黄金色の瞳はまさに肉食獣のそれで、気を抜くと喉笛を喰い破られてしまいそうだ。
でもマナはキムがそんな人間ではないことを知っているし、彼が魔物に蹂躙された義勇軍を見捨ててこの地を離れようとしている真の理由も知っていた。
だから正直、今の自分の立場がかなり苦しいものだということは分かっている。それでもこの傭兵隊と義勇軍をつなぐ唯一の存在として、口を出さないわけにはいかなかった。
「でもー、今のこの状況でサン・カリニョを離れたりしたら、戦況が不利になった途端逃げ出した臆病者って悪評が立っちゃうじゃない? 傭兵は信頼が命でしょー?」
「別に俺は誰に何と言われようが構わん。だいたい傭兵なんてのは本来そういうものだ。いくら金で戦う兵士とはいえ、割に合わない戦にまで手を貸してやる義理はない。俺たちは誰に忠義立てしているわけでも、どこの国に属しているわけでもないからな」
「それはそーでしょーけど、それってつまり、このマナさんが信用できないってこと? キムだって分かってるでしょー?
渡り星がついた側は負けたりしないって」
「ああ。つまりお前だけ
義勇軍に残れば、何も問題はないということだ」
「あー! ひどーい! キムは二十年来の戦友を死地に放り出していくつもりなのー!?」
「お互い好きで二十年もつるんでるわけじゃないだろう。むしろこっちはどこへ行ってもお前と引き合わされて、正直うんざりしている」
「まーっ、何よそれー! ほんとはマナちゃんがいないと寂しいくせにー! 戦場でマナちゃんに会うとちょっと嬉しくなっちゃうくせにー!」
「俺が今まで一度でもそんなことを言ったか?」
「言われなくてもマナちゃんには分かるんですー!」
「自分の都合のいいように事実を捩曲げるな。不愉快だ」
「キーッ! ほんとキムってつまんないんだから!」
「生憎面白い男になろうと思ったことがないんでな」
ああ言えばこう言うキムのすげない対応に、マナはバンバンと卓を叩いた。するとキムは杯を口に運びながら「うるさいぞ」と文句を垂れてくる。それはもううんざりした様子で。
だけどマナもこの程度ではへこたれない。長年の付き合いで、彼からのこういう扱いには慣れているのだ。
いや、慣れている、と認めてしまうのも何か悲しいものがあるのだが――とにかくマナは残りの酒を一気に呷って、空になった杯をヤケクソ気味にダンッと卓に叩きつけた。
「じゃーつまりこういうこと? キムはこのマナちゃんに、見も知らぬ土地で使命のために孤独に戦えって言うのね?」
「別に見も知らぬ土地じゃないし、孤独でもないだろう。お前をよく知る人間なら、ここにはロクサーナがいる。それに
お前はヒーゼルたちとも上手くやっているようだしな」
「でも、もし義勇軍と連合国の同盟が実っちゃったら?」
「……何?」
「今、義勇軍はアビエス連合国と同盟の交渉中でしょ。それがもしまとまったら、連合国からはきっとヴェンとかマドレーンとかが派遣されてくるに決まってるわ。そうなったとき、誰が私を匿ってくれるの?」
「そんなことはロクサーナに――」
「無理よ。ロクサーナは私を連合国に帰したいと思ってる派だもの。ヴェンたちが来たらこれ見よがしに引き合わされるに決まってる。そしたらあとは連合国まで強制連行よ。だけど私は帰りたくないの」
「だったら俺たちと共に来ればいい」
「私が神子の傍を離れられないのは、キムだって知ってるでしょ」
マナがなおも睨みながらそう言えば、向かいでキムがため息を落とした。
天井から吊られた角灯の灯りに、小さな羽虫がたかっている。その影が卓の上でチラチラ踊っているだけで、あとは鉛のような沈黙が天幕の中に積もっていく。
「ならお前も、俺がここにいられない理由はもう分かっているだろう」
先にその沈黙を破ったのはキムの方だった。
「分かってる。でも、義勇軍にはキムがいなきゃ駄目」
「それは俺が守護星とやらだからか?」
「それだけじゃない。今のカルロスさんはサン・カリニョの王よ。その王の苦しみを本当に理解してあげられるのはあなただけ」
「王というなら、ロクサーナだって元は小国の王だろう。それにお前も
故郷に戻れば女王だ」
「だけど私にそのつもりはないし、今も民のために苦しんでる王はあなたしかいない」
キムが再び口を閉ざした。マナの言うことが珍しく正論だったせいもあるだろうし、滅多に見せない真剣な眼差しが彼を射抜いたせいもあるのだろう。
鉛の沈黙がまた訪れた。それはずいぶん長い時間、天幕の中を満たしていたように思えた。
けれどあるいは、ほんの数瞬の出来事だったかもしれない。
まるで王の言葉を待つように、外の虫たちが静まり返る。
「だが――いや、だからこそ俺は、俺の民を危険には晒せない」
「問題はエレツエル神領国でしょ?」
「そうだ。ここに『
兇王の胤』が現れたというのなら、もう猶予は幾許もない。やつらに見つかる前にここを発たなければ」
「だけどやつらの狙いはカルロスさんよ。ここにあなたがいることはまだ気づかれてない」
「だとしても、気づかれれば厄介なことになるのは確実だ。やつらに見つかってから逃げ出したのではもう遅い」
「だったら見つからなければいいわけでしょ?」
「何?」
「キムのことは、私が責任を持って守るから。だからお願い。今はカルロスさんの傍にいてあげて」
一拍の静寂のあと、キムの口から長く深いため息が漏れた。
彼の杯も、たぶんもう空なのだろう。キムはそれを再び掲げることをせず、ただじっとその底を見つめて冷笑する。
「お前が俺を、な。逆ではないのか?」
「今まではそうだったけど、今回は違う。私は本気よ」
「やめておけ。また寿命を縮める気か。お前の先見の力は確かだが、代償が大きすぎる」
「それでも、やるの。そのために与えられた力だもの」
キムの瞳がこちらを向いた。その眼差しに、マナは初めて苛立ちのような、痛みのようなものの影を見た。
だけどキムがそんなものを露わにするなんて、マナが見た幻かもしれない。だって彼は孤高の王だ。常に気高く、迷いや恐れなんて人前では決して見せない――カルロスや
あの人のように。
それがこんなにも悲しいから、マナは彼らの傍にいる。
もちろん、それだけが理由ではないけれど。
だけどどうせ命を縮めるのなら、残された時間は彼らのために使いたい。
何をどう足掻いたって――結局は呪いで朽ちる身なら。
「……正義の神子がそれを喜ぶか?」
「さあ、たぶん喜ばないでしょうね」
「だったら」
「だけどこれ以上戦況が悪化したら、あの人はヒーゼルたちのために自分の首を差し出すことも厭わない。たとえキムだってそうするでしょ?」
「……」
「だからこれは、私とあなただけの秘密。元々秘密だらけの関係だしね、私たち」
言って、マナはニッと笑った。キムは頭痛の種が増えたと言わんばかりに眉を寄せ、明後日の方角へ視線を投げた。
「そういうわけだから、もうしばらくどうぞよろしくー」
「……万一神領国に見つかるようなことがあれば、そのときはお前を連合国に突き出すからな」
ああ、それは困るな、とマナは思った。一度キムに首根っこを掴まれたら、それこそどう足掻いたって逃げられる気がしない。
だからマナは「善処しまーす」とにこやかに笑って、自分の杯とキムの杯をカツンとやった。
王と女王の密約だった。