チラシの裏

　はっきり言って、トラトアニにはわけが分からなかった。

　ナワリの言葉を疑うわけではない。彼女たちは代々受け継がれてきたその神秘の力で、何百年もの間この郷を守ってきた。
　族長としてその歴史を知るトラトアニは、彼女らがこの郷にもたらす恩恵が絶対的で揺るがないものであることを知っている。
　だから、たった今自分の目の前に佇むそれ(・・)が彼女の言っていた��災い�≠ﾈのだということは、頭では理解できた。

　けれども、これは一体どういうことだ。

　屋敷を包む大火。それが生き物のごとくうねりながら照らし出した��災い�≠ﾍ、絹のように艶めく白髪を火に染めて、超然とこちらを見据えている。

「もう一度問います。あの娘はどこです」

　凄絶な光景の中で嘘のように響く、幼い声。
　美しく濡れる青を湛えた瞳。
　それでいてその小さな体には不釣り合いな、平板な語調と眉一つ動かぬ顔。

　――これは何だ。

　トラトアニは壁に背を預け、肩で息をしながら思った。

　これは何だ。人間――ではないというのか？

　姿形は確かに人間のそれ。一見した印象だけで言えば、先程ナワリが連れていったあの娘とさして変わらぬ少女に見える。
　けれどもその身がまとう気配が尋常のものではない。炎に照らされた肌は月のように白く、顔は作り物めいていて、まるで人間のにおい(・・・)を感じない。

　――ならばこれは、魔物？

　しかしこれほど真白く美しい魔物が、この世に存在するのだろうか？

「何度も言わせるな。カミラはもうここにはいない。疑うのなら気が済むまで探せ。この郷には貴様の求めるものなど、何もない」

　既に剣を握っているのがやっとの腕で、どうにか切っ先をもたげる。気を抜くと視界が霞んで、そのまま倒れ込みそうだった――血を失いすぎている。
　壁際に佇むトラトアニの足元には、炎を浴びて輝く血溜まり。ただ立っているだけでもその血溜まりはゆるゆると広がってゆき、自分の命がそう長くはないことを教えている。

　何が起きたのかは、トラトアニにもよく分からなかった。

　ただ、ヒーゼルたちがナワリに連れられコリ・ワカへ向かってからほんの一刻後、その白い魔物は唐突にトラトアニの視界へ現れた。

「何者だ」

　短く問うた言葉に返ってきたのは、

「私はイヴ。お前たちが精霊とか天使とか呼ぶもの、と言えば分かるでしょう」

　まったく常軌を逸した答え。

「答えなさい、トラトアニ。この郷にはカミラという名の娘がいるはずです。歳は十。父の名はヒーゼル。母の名はマルティナ・ビルト・バルサミナ・ウニコルニオ。上に六歳離れた兄がいて、母親は既にこの世にいないはず。その娘の居場所を、教えなさい」

　正直、トラトアニは驚愕した。ナワリから災いがヒーゼルの子を攫いに来るとは聞いていたが、こんな幼い少女が、族長である自分の名からカミラの家族構成まで、そのすべてを調べ上げて現れたことが衝撃だった。
　けれども答えは決まっている。災いが姿を現したなら、こう答えよとナワリは言った。

「――そのような娘は、この郷にはいない。数年前、家族と共にこの地を去った」

　イヴ、と名乗った少女は眉をひそめる。

「そのようなはずがありません。お前は神の目を誤魔化せると思っているのですか」
「嘘だと思うのなら調べてみるがいい。郷中どこを探しても、そのような娘はいないはずだ」
「確かに、お前の言うとおりです。あの娘がいるべき家は空だった。だから私はお前に問うているのです。――あの娘を、どこへ隠した？」

　あとはすべてがめちゃくちゃだった。少女の目が妖しく光り、その身が信じ難い殺気を帯びたかに見えた刹那、トラトアニは吹き飛ばされ、全身を見えない刃に切り刻まれた。
　――風の神術か。そう判断した直後には、少女が薙いだ手の先から炎が生まれ、それがトラトアニに襲いかかる。――二刻使い(バイハンド)？　まさか、このような幼子が？

　それだけでも信じ難いというのに、少女はその後もトラトアニがシラを切り続けると、次々と静かな怒りをぶつけてきた。あるときは掲げた繊手から氷の杭が生まれてトラトアニの体に打ち込まれ、またあるときは雷の槍がトラトアニの肩を焦がした。

　――馬鹿な。こんな年端もいかぬ子供が何故、ありとあらゆる神術を？

　この郷には遺伝的に、神術の才能に恵まれた者が多い。それでもトラトアニの知る限り、一人の人間が同時に使いこなせたのは三刻までだ。

　それを、この娘は……。
　まさか本当に、この子は神の使いだというのか？

　しかし、ならば何故カミラを狙う？
　慈悲深き神々が理由もなく親から子を奪い、その絆を引き裂くとは思えない。そのような非道を、神々が許すはずがない。

「貴様は……貴様は一体何者だ。貴様の真の狙いは何だ!?」
「言ったはずです。私はイヴ。神より遣わされし者。その神々がご所望なのです。あのカミラという娘の星を」
「意味が分からん。貴様が本当に神の使いだと言うのなら、愚かな人間風情にも理解できるように話せ！」
「ならばこう言いましょう。あの娘は今ここにいてはならない。その存在が世界の命運を左右する。神々はそれを知っている。だから引き戻すのです――運命の輪の中へ」
「カミラが、世界の命運を……？」

　――馬鹿馬鹿しい。トラトアニは口の端を持ち上げた。
　いくら神の予言だと言われても、そんな話は信じるに値しない。トラトアニとてあの娘がどういう娘かは知っている。
　何の変哲もない、無垢でちょっとお転婆なだけの、どこにでもいる女の子だ。それが世界の命運を左右する？　あの子が神子にでもなるというのか？
　だがナワリはカミラの将来について、そんなことは一言も言っていなかった。

　――あの子を災いに渡してはいけない。そんなことをすれば、待っているのは救いのない未来だけ。すべてが滅びへと向かうだけ……。

　トラトアニがナワリから聞いた予言と、この少女が告げる未来は矛盾する。

　――いいかい、トラトアニ。カミラを守るということは、即ちこの郷の未来を守るということ。けれどその道を選べば、お前は――。

　トラトアニは更に口角を持ち上げる。

「もういい、白き魔性よ。貴様の戯言は聞き飽きた」

　氷のような少女の目が、トラトアニを見据えた。

「……そうですか。ならばここで滅びなさい。――神に仇為す痴れ者よ」

　少女の全身が発光する。青白い光。それと共に満ちていく強烈な冷気。
　本来相反するはずの、火炎と氷雪の狂演。少女の足元には氷の花が広がり、そこから生まれた氷柱がいくつも宙へと浮き上がる。

　ナワリの言葉が甦った。


　――トラトアニ。お前は郷の未来と引き換えに、今宵必ず命を落とす。


「望むところです、ナワリ様」

　記憶の中の巫女にもう一度そう答え、トラトアニは剣を構えた。
　上等だ。自分はそのために生きてきた。この愛する故郷を守り、導くために生きてきた。
　それが族長たる者の使命だと幼い頃から教えられ、自身も信じて疑わなかった。トラトアニはこの郷のすべてが愛しかった。ここで暮らす郷人一人一人が、郷を形作る高床の家々が、畑の作物が、グアテマヤンの森が、この郷を取り巻く生きとし生けるものすべてが――それらはいわば、トラトアニの命そのものだった。

　だから、何も恐ろしくはない。この郷が地上に美しく存在し続ける限り、たとえ肉体は滅びても、トラトアニの魂は生き続ける。

「許せよ、アクリャ――」

　遺してゆく娘への、最期の言葉を吐き出して、トラトアニは駆け出した。
　自分とて族長である以前に一人の戦士だ。
　ならばせめて、この白き魔物に一太刀――。

　最期の力を振り絞る。渾身の力で床を蹴り、体に半回転の勢いをつけ、悪鬼の形相で大剣を振りかぶる。

　青い宝石を嵌め込んだような魔物の目が、こちらを見た。


「愚か者」


　岩をも砕く一撃で、大剣を振り下ろす。甲高い音がした。硬い手応えがあった。しかしトラトアニは目を見開いた。

　全力で振り下ろした刃はしかし、白き魔物に届かない。

　目には見えない不可知の壁が魔物を守り、トラトアニの誇りを阻んでいる。

「さようなら」

　氷の杭。放たれる。至近距離から。逃れようもなく。
　もう何度目か分からない。トラトアニの体は再び吹き飛ばされた。
　背中から床に叩きつけられる。全身を駆け巡る激痛。呻くと傷から血が溢れる。

　だが、妙だ。

　生きている。
　虫の息だが、まだ意識はある。四肢も動く。
　ならば剣を、となおも体を起こそうとして、

「……馬鹿な」

　トラトアニは言葉を失った。目を見開き、全身を震わせた。
　自分の体に、自分のものではない影が覆い被さっている。
　その影の背に幾筋も突き立つ、氷の刃。

「ヒーゼル」

　声にならない声で、その名を呼んだ。

　呼ばれた彼が顔を上げ、ほんの少しだけ、笑ったような気がした。


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