「――エリク!」
ヒーゼルが叫びながら広間へ飛び込むと、エリクとイークがぎょっとした様子で振り向いた。
祭壇の間、とでも呼べばいいのだろうか。その部屋の真ん中にはたっぷりの干し草が敷き詰められていて、それを覆うように大きな白い布がかけられている。恐らくナワリがヒーゼルたちの当座の寝床として用意したものだろう。
エリクとイークはその寝床の上で、眠るカミラを守るように寄り添っていた。二人とも剣を大事に抱え、ヒーゼルが飛び込んでくるやサッとそれを持ち直す。
エリクは左手に、イークは右手に。
そうして素早く立ち上がる彼らの身のこなしを見て、ヒーゼルは確信した。この二人がいればきっと大丈夫だ――少なくとも、カミラは。
「どうしたの、父さん」
「エリク、すまない。俺は一度郷へ戻る」
「えっ……さ、郷に戻るって、どうして」
「今は説明してる時間がない。お前はイークとここにいろ。夜明けまでには戻る」
「待ってよ、父さん。ナワリ様のお話が本当なら、今郷に戻るのは危険だ。ここで一緒に、カミラを――」
取り縋るように伸びてきたエリクの手が、ヒーゼルの上着の袖を掴んだ。こちらを見つめるヒーゼルそっくりの空色の瞳には、困惑と不安が揺れている。
息子の言うことはもっともだった。今宵本当に災い≠ニやらが郷を襲うのだとしたら、安全なコリ・ワカに籠っていた方がずっと賢い。それにその災いの呼び水だという
我が子を残し、この場を去るのはヒーゼルとて本意ではない。
けれど男には、行かねばならないときがあるのだ。
ヒーゼルはエリクの手を振り払い、けれどすぐさまその手を取り直して、言う。
「エリク。お前ももう十六だ。十六と言えば、クィンヌムの儀にも出られる立派な大人だ。それに、なんていうかアレだ、去年の
成人の儀。あれは良かった。父さんはなぁ、感激したぞ。お前の堂々たる剣舞を、母さんにも見せてやりたかった」
「父さん、」
「そのとき俺は確信したんだ。ああ、こいつはもう大丈夫だって。知ってるか。ザヨリン≠チてのは郷の古い言葉で巣立ち≠チて意味なんだ。お前はもう立派に巣立った。そのお前になら、安心してカミラを任せられる。母さんが生きてたってそう言うさ」
エリクは出かかった言葉を飲み込むように、ぐっと口を噤んだ。その瞳はなおも揺れながら、しかし何一つ見逃すまい、聞き逃すまいと言うように、じっとヒーゼルを見つめている。
「だから、エリク。カミラを頼む。お前たちはたった二人の兄妹だ。それに、カミラがいなきゃ今の俺たちは朝飯一つろくに食えない。あの子は働き者のいい子だ。だろ?」
「……はい」
「約束してくれ。何があっても、カミラのことはお前が守ると」
「分かった。約束するよ」
「タリアクリに誓うか?」
「ううん。誓わない」
「何?」
「俺は正義神ツェデクに誓う。そうでしょ、父さん」
――ああ、と、ヒーゼルは胸の内で震える息を漏らした。
年甲斐もなく目頭が熱くなる。――大きくなった。そう思えるのは、カミラだけではなかった。
十年前にはまだよちよち歩きで、戦に明け暮れるヒーゼルをただただ追いかけ回していた息子が、今はしっかり自分の足で立ち、まっすぐにこちらを見つめている。
ヒーゼルはそんな我が子を抱き寄せた。こんな出来た息子を生んでくれた亡き妻に、心から感謝した。
「だから父さんも、無事に帰ってきて。カミラにはまだ父さんが必要だよ」
「ああ……そうだな。俺も母さんに約束したんだ。お前たちのことは、これからも変わらず俺が守ると」
まずは俺がその約束を守らなきゃな。ヒーゼルがそう言って体を離せば、エリクも笑って頷いた。こうして見ると鏡を見ているのかと思うくらい、エリクは若い頃の自分にそっくりだ。
けれど十六歳の自分はこんなにしっかりした子供じゃなかったし、どちらかというととんでもない悪タレだった。息子にだけはそんな自分と同じ轍を踏ませたくないと懸命に育ててきたが、思いは天に通じたのだろう。
改めて、この子なら大丈夫だ、とそう思えた。
幼かった雛は
大鳳となって、既に大空へ羽ばたいたのだから。
「イーク」
「はい」
「こんなことに巻き込んですまん。お前もエリクとカミラを頼む」
「大丈夫ですよ。エリクが何か無茶をやらかそうとしたら、そのときは俺がぶん殴ってでも止めてやりますから」
そう言って、エリクの隣に立ったイークは不敵に笑った。ヒーゼルもそれにニッと笑い返して肩を叩く。
イークはどちらかというと若い頃のヒーゼルに似ていて、時々ひどく危なっかしい。芯が強そうに見えて時々ぐらりと揺らぐのは、たぶんヒーゼルと出会うまでの間、彼も父親がいないという理由で抱えた鬱屈があったからだ。
そんな彼のわだかまりを、自分は少しでもほどいてやれただろうか。ヒーゼルがもう一人の息子を見つめてそんなことを考えたとき、不意に幼い声が響く。
「おとーさん……?」
はっとして二人の背後に目を向けた。その先には、白い寝床の上に白いチュニックをまとって起き上がった天使みたいな少女がいて、眠い目を擦っている。
「おとーさん、なにかあったの……?」
「いや。何もないさ、カミラ。大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい……カミラのことは、父さんたちが必ず守ってやるからな」
「うん……?」
半分寝惚けている娘には、ヒーゼルの言葉の意味するところがいまいち分からなかったらしい。そんなカミラの、膨れっ面にも似た疑問顔に笑って、ヒーゼルは彼女を抱き寄せた。
「だから今夜はもうおやすみ、カミラ。明日にはまた郷に戻って、ちゃんとうちで過ごせるからな」
「本当? じゃあ、明日の朝ごはんもわたしが作っていい?」
「おう、もちろんだ。明日の朝飯は何かな?」
「えっとね、明日はね、おとーさんの好きなコロ芋のサクサク焼き!」
「おー、あれか。お前が作るサクサク焼きの味つけは絶品だからな。そりゃ楽しみだ」
「今朝ね、テナムおばさんからコロ芋たくさんもらったの。だから帰ったらいっぱいサクサク焼きにするからね!」
そう言って屈託なく笑う娘を見ていたら、ヒーゼルはどうしようもないくらい愛しい気持ちが込み上げて、もう一度我が子を抱き締めた。
そうしてその額にキスを落とす。死にゆく妻が、かつて最期にそうしたように。
「それじゃあ、行ってくる。あとのことは頼むぞ、エリク、イーク」
「はい」
改めて腰に剣を佩き、振り向くと二人が頷いた。
その二人に見送られ、祭壇の間を出ていくヒーゼルの背中に声がかかる。
「いってらっしゃぁい」
何も分かっていない幼い娘の、無邪気な見送り。
ヒーゼルはそれを顧みて手を挙げた。
目を細めた先、そこにいる子供たちの姿が、眩しかった。
○ ● ○
息急き切らせて、郷までの道をとにかく駆けた。駆け続けた。
真っ黒に塗り潰された森の中を、月明かりだけを頼りに走る。走る。走る。
あちこちから聞こえる虫の声。夜鳥の呻き。低く唸る風の音。
それらはすべて、今のヒーゼルの意識から遠い。茂みや梢を蹴りのけ、払いのけて、噎せるような湿気と草熱れを引き裂いていく。
全身が燃えるようだった。額から流れる汗が目や口に入って痛い。しょっぱい。
こんな汗だくになるまで走ったのはいつぶりだろうか。あの日――十年前のあの日、処刑台に引かれてゆくあの人を必死で追いかけたとき以来だろうか?
(カルロス殿)
今にも喉が擦り切れそうな喘鳴を上げながら、ヒーゼルは心の中で叫ぶ。あのとき飛ぶように石畳の街を駆け抜けた若き日の自分と、今の自分の姿が重なり合う。
(カルロス殿、俺は)
――愚かな弟子でした。
結局あなたに何一つ恩義を返せない、無能で浅はかな弟子でした。
俺は死ぬまであなたにお仕えしたかった。
けれど、あなたは――。
(あなたはそんな俺のために、何もかも投げ出した)
命も、名誉も――誇りさえも。
『それは違うぞ、ヒーゼル』
あの日、ヒーゼルが心から愛した
神子は言った。
『私にとっては、お前と共に在った日々、それこそが誇りだ。だから私はその誇りを守る。カルロス・トゥルエノという一個の人間が、自らの手で選び取った誇りを――』
――だから、これでいいのだ、ヒーゼル。
正義の神に選ばれし神子は、そう言って微笑んだ。
そうしてすべてを失った。
命以外の、すべてのものを。
(あなたはいつもそうだ)
そうやって、何でもすべて一人で引き受けてしまう。どんな苦しみも悲しみも、人には与えまいと独り占めしてしまう。いつもいつも変なものばかり――悲しいものばかり拾い集めて。
そうして取り除いた悲しみを、勝手に自分のものにする。そのまま持っていってしまう。全部全部――まるで己だけがそう在るべきだとでも言うように。
(だけど、俺は――)
――俺だって、あなたのその悲しみを一緒に背負いたかった!
ヒーゼルは叫んだ。熱い。体も胸も目の奥も、何もかもが熱い。
腰に差した剣。別れ際、これが今生の別れになると分かっていて、あの人が託してくれた剣。
『これは、私にはもう必要ない』
――そうさせたのは俺だ。
『持っていけ。この剣で、お前はお前の守るべきものを、守り続けろ』
唇を噛む。血が滲むほどにきつく噛み締める。
この剣のおかげで、ヒーゼルは今日まで多くのものを守ることができた。自分の命。誇り。愛する妻。子供たち。
けれど本当に守りたかったものは、決して守ることができなかった。
自分は逆に守られたのだ。すべてを擲って守ろうとした相手に。
そして今、自分はまた同じ過ちを繰り返そうとしている。
守るべきものに、守られようとしている。
「そう、何度も……!」
闇を切り裂きながら、ヒーゼルは絶叫した。
「そう何度も、守られてたまるか!」
繰り返さない。
自分はもう繰り返さない。
あんな過ちは。
誰かを犠牲にして自分だけが生き残る――そんな間違いは。
「トラトアニ……!」
気に食わない。あの石頭でお節介な、説教好きの幼馴染み。
その友の名を、血を吐くようにヒーゼルは呼んだ。呼ばわった。
森の向こう、ヒーゼルが見据えた先で、愛する故郷が燃えている。
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