彼女がヒーゼルを訪ねてルミジャフタ郷へやってきたのは、その年の春のことだった。
かつてヒーゼルが西のルエダ・デラ・ラソ列侯国で傭兵として働いていた頃、共に大きな戦を戦った戦友。
彼女は見た目も言動もふわっとした掴みどころのない女で、誰にでもにこにこと分け隔てなく接するくせに、一人だけまったく別の世界で生きているような、誰とも相容れない、そんな不思議な雰囲気を常に身にまとっていた。
「私、久しぶりに故郷に帰ることになってねー。それで西に向かってる最中なんだけど、ここ、ちょうど通り道でしょ? だからヒーゼルの顔、見てこうと思ってー」
そのくせ、気まぐれにそんなことを言っては旧友のもとにひょっこりと顔を出す。彼女は元々流れの傭兵で、世界のあちこちを旅していた。
華奢な体で、一見とても傭兵なんて向いていなさそうなのに、戦場では双剣と魔法――そう、神術ではなく
魔法だ――を操り舞うように戦う。春先に郷を訪れたときも、つい二月ほど前までトラモント黄皇国で客将をしていたと言い、相も変わらず戦いの日々に明け暮れているようだった。
その彼女が数日をこの郷で過ごし、いよいよ次の目的地へ向けて発とうという頃。
別れを翌日に控えた晩、二人で惜別の酒を交わしていると、彼女は不意に意味深な笑みを湛えてこう言った。
「ねえ、ヒーゼル。私ね、視ちゃった」
普段はやけに間延びした口調で話す彼女が、そのときだけは珍しくはっきりした言葉つきだったことを、ヒーゼルは今でも覚えている。
「たぶん私、もうここへは来られないわ」
「来られない、って、どうしたんだよ、急に?」
「私が元々そんなに長く生きられないってことは、ヒーゼルも知ってるでしょ?」
達観したように微笑む彼女に、ヒーゼルは何も言えなかった。彼女が奇妙な虚弱体質であることは、確かにヒーゼルも知っている。
こうして普通に生活している分には問題ないのだが、あるとき突然、思い出したように倒れては寝込むのだ。彼女はいつもそんなことを繰り返していた。病なら養生した方がいいんじゃないか、とヒーゼルは何度も勧めたが、彼女はいつも微笑むだけで首を縦に振ろうとはしなかった。
――これは病気じゃなくて呪いだから、と。
「でもね。そんなはした金みたいな命の使い方、やっと見つけたの」
「使い方?」
「そう。私、あなたの子供たちには……エリクとカミラには、私みたいな思いをさせたくない。だから行くわ」
行くって、どこに。ヒーゼルはそう尋ねた。
この世の果て。そう言って、彼女は微笑んだ。
「ねえ、ヒーゼル。お願いよ。あの子たちのこと、守ってあげて。二人が決して運命の
虜囚にならないように」
「それはもちろんそうするが、マナ、お前、」
「ヒーゼル」
「な、何だ?」
彼女はじっとヒーゼルを見ていた。
暗闇の中、灯明かりを受けて輝いていたあの瞳の色を、ヒーゼルは決して忘れない。
「お別れね。言うべきことはたくさんあるけど、これだけにしとく。――ありがとう。あなたと出逢えて、良かった」
○ ● ○
ヒーゼルたちがコリ・ワカと呼ぶその場所を、郷の外の人間たちはこう呼ぶらしい。
――ピラミッド。
それは特定の遺跡の呼び名ではなくて、コリ・ワカのような四角錐の建造物を指す言葉なんだとか。
何でも郷の外にはこれとよく似た形の遺跡がいくつか存在していて、それをどこかのお偉い考古学者様が最初にそう呼んだのが始まりだ……というような蘊蓄を、ヒーゼルはかつて博識で話好きのクソ真面目な幼馴染みから聞いた。というか、聞かされた。
彼が長々と講釈を垂れている間、ヒーゼルは居眠りしていたので話の半分も覚えていない。だがピラミッドと呼ばれる三角形の建物が郷の外にもあることは、実際に目にした経験があるので知っている。
ちょうどルエダ・デラ・ラソ列侯国の真ん中、エスペロ湖の中心にあった遺跡がこんなだった。規模はコリ・ワカよりも遥かに大きく、古代、世界を支配したハノーク大帝国の人々が神の御魂を守るために築いたものだと言われていたけれど。
(そういや、あの方が
正義神の神子に選ばれたのもあの遺跡だったな……)
なんて遠い昔の記憶に思いを馳せながら、ヒーゼルは庇のようなものが突き出たコリ・ワカの入り口をくぐる。エスペロ湖の中心にあったピラミッドは光の加減で淡い緑色に見える不思議な石材によって築かれていたが、コリ・ワカを形作っているそれは何の変哲もない灰色の石だ。
それでいて一つ一つの石材がかなり大きい。エスペロ湖の遺跡の石材は煉瓦のように細かかった。
とは言え長い長い――気が遠くなるほど長い歳月をかけて苔生したコリ・ワカの威容は、日のあるうちなら緑色の小山のように見えたかもしれない。
今は月明かりが遥か高みからうっすらと地上を照らしているだけなので、遺跡は青白く濡れて見える。それが低い夜鳥の鳴き声と相俟って、何だか少し不気味だった。
「すげえ……コリ・ワカの中ってこうなってるんですね」
と、そんなヒーゼルの感想とは裏腹に、感嘆の声を上げたのはイークだ。何やら事態は思わぬ方向に転がりつつあったが、どうしてもついていきたいという本人の希望で、結局ここまで連れてきてしまった。
隣では息子のエリクもまた、物珍しそうにコリ・ワカの天井を見上げたりしている。遺跡の入り口をくぐるとその先は長く伸びた通路になっていて、壁には点々と松明がともっていた。
その松明が、壁にびっしりと描かれた壁画を明々と照らしているのだ。
そこには今、黙然とヒーゼルたちを先導するナワリと似たような衣装をまとった人々や、七色の羽を持つ霊鳥トスネネ、郷では災いの象徴とされている巨大な水蛇スー・タンカ、そして様々な色や形の太陽などが描かれている。
それがずうっと、鮮やかな色彩でどこまでも続いている様は確かに圧巻だった。これはただの壁画ではなく、ルミジャフタ郷に代々伝わる独自の暦『天道暦』を表したものだということは学のないヒーゼルでも分かる。
この壁画の補修と、新たな暦を紡ぐことがナワリの大事な使命の一つなのだ。今や代々のナワリと族長を除いて、天道暦の正しい数え方を知る者は郷にもいない。
「――ここだよ」
やがてナワリがヒーゼルたちを導いたのは、コリ・ワカの最奥にあるちょっとした広間だった。
先程ヒーゼルたちが立ち寄ったトラトアニの屋敷の広間よりは狭いが、大人十人くらいは入れる余地がある。部屋の形はやや横に長い長方形で、目の前には仰々しい装飾が施された石の台が鎮座していた。あれはもしや祭壇――なのだろうか?
「お前たちにはここで一晩を過ごしてもらう。石の床で寝てもらうことになるが、贅沢は言うんじゃないよ。ここでは虫除けの香を焚いているから、
森蠍やら
鉄切虫やらが入ってくる心配もない。夜明けまでは決してこの部屋を出ないことだ」
祭壇と思しい長方体の台の上では、確かに陶器の皿に盛られた何かの香が焚かれている。すうっと鼻から入って肺まで直角に落ちていくようなその匂いは、なるほど虫除けの香のそれだ。グアテマヤンの森で採れる貴重な木の実を原料としたもので、郷では毎年コリ・ワカに奉納する以外、滅多に使われないものだけれど。
「あの、ですがナワリ様。ここには窓がないので、いつ夜が明けるのか、外の様子が分からないのですが……」
「余計な心配をするんじゃない。そのときが来たら私が呼びに来る。それまでここでじっとしておいで。かわいい妹を恐ろしい目に遭わせたくないのならね」
エリクが投げかけた問いをぴしゃりと打ち返して、ナワリはフン、と鼻息を吐いた。
その視線の先ではヒーゼルに抱かれたままのカミラがすやすやと寝息を立てている。郷からここまで来る道中、暗い森の景色を眺めるのにも飽きてすっかり寝入ってしまったようだ。
「なあ、それなんだけどよ。今夜カミラの身に一体何が起きるって言うんだよ。さっきは郷に災いが降りかかるとか言ってたけど、俺たちがここに居さえすればそれは回避できるのか?」
と、ときにそう尋ねたのは、カミラの寝顔を一瞥したイークだった。郷人が一分の例外もなく崇め奉っているナワリに対して、こんな口がきけるとはなかなかしたたかなやつだ。
だがイークの疑問はヒーゼルの疑問でもあった。ナワリやトラトアニはあの広間で話した以上のことは何も言わず、詳しい災い≠フ内容については今も黙されたままなのだ。
「口のきき方に気をつけな、小僧。私ゃあんたの十倍は長く生きてるんだ。年長者を敬えないガキは早死にするよ」
「俺たちの十倍って、妖怪かよ……いてっ!」
イークがぼそりと零した言葉は、しっかりとナワリの耳に届いていたらしい。瞬間、彼の額にナワリが投擲した何かが当たった。ヒーゼルが床に落ちたそれを見ると、菱の実によく似た鋭利なトゲつきの何かだった。――怖い。
「とにかく夜明けまではここにいな。この部屋には代々
我々に伝わる秘術を用いて、特別な結界を張ってある。その中にいる限り、お前たちの身の安全は保証しよう。――ここにさえいれば、その子が
見つかることはない」
――
見つかる?
見つかるって何だ? カミラが、誰に?
何者かがこの子を探しているとでもいうのだろうか。
けれど、何のために?
カミラは間違いなくヒーゼルと
妻の子だ。それはヒーゼルと同じこの赤い髪が証明している。
赤や緑や紫といった有色髪はこのエマニュエルでも大層珍しいと言われていて、だからこそマルティナが不貞を働いていたなどという事実は有り得ない。
だったら、他にカミラが誰かに探される理由などどこにある?
この子は生まれてから一度も郷を出たことがない。だから郷の人間以外にこの子の存在を知る者はほとんどいない。唯一、春先にヒーゼルを訪ねてきた戦友と、今も手紙で多少のやりとりがあるあの方以外には。
なのに
見つかるとはどういうことだ?
ヒーゼルは必死に思考を巡らせたが答えには辿り着けそうもなかった。
そこでナワリに戸惑いと不安の眼差しを投げかければ、彼女は深いため息と共に瞑目する。
「ヒーゼル。お前には大事な話がある。子供たちは置いてついておいで」
ヒーゼルは今一度腕の中にいる娘を見下ろした。それから背後に控える息子たちを顧みる。
エリクとイークは、どちらも緊張した面持ちだった。けれどもイークに軽く肩を叩かれると、エリクもそれに頷いて、ヒーゼルの前にそっと両手を差し出してくる。
「大丈夫だよ、父さん。カミラのことは俺たちが見てるから」
ヒーゼルはその手にカミラを預けた。それから、頼むな、と低めた声でそう言って、ナワリと共に部屋を出た。
燭台に照らされた広間から一歩踏み出すと、後ろ髪を引かれ、心が引き千切られるような感じがする。――あの子たちの傍を離れたくない。
だが今はナワリについていかなくては。彼女は何か重大なことを知っている。
どうにかしてそれを聞き出すのだ。ナワリは一晩ここにいれば安全だと言っていたが、ヒーゼルはそれを完全に信じることができない。長年絶対≠ネどというものが存在しない戦場に身を置いていたからだ。それなら一つでも多くの情報を掴んで、何が起きても対処できるように身構えていたい。
「――この部屋は?」
ほどなくヒーゼルが通されたのは、壁画の通路から伸びたつづら折りの階段を登った先、そこにある円形の部屋だった。
その部屋は先程の広間より一回りか二回りほど大きく、中央の床にはこれまた丸いキニチ織りの敷物が敷かれている。その敷物の真ん中に青白い染みが落ちているのを見て取って、ヒーゼルは思わず頭上を仰いだ――天窓だ。
ということは、ここはコリ・ワカの頂点の真下? あそこからまっすぐに下りてきている透明の柱は、今まさに空の最も高いところで輝こうとしている満月の明かりだろう。
「ここが私の家さ」
「えっ」
「私は普段ここで寝起きをしている。炊事や洗濯なんかは外の塔でやるんだがね」
「へ、へえ……し、しかし、妙齢の女性がこんな時間に男を部屋へ上げるってのは……」
「安心しな。お前が妙な真似をするようならば、二度と子が作れない体にしてやる」
ヒーゼルは戦慄した。最愛の妻を亡くした今、エリクとカミラ以外の子を設ける予定などヒーゼルにはもはやないのだが、それでも股の間をヒュンッと冷たいものが通りすぎた。これ以上冗談は言わない方がいいらしい。
「そ、それで、大事なお話ってのは……」
尋ねながら、ヒーゼルはナワリに勧められて色とりどりの糸が織り込まれた敷物の上に腰を下ろした。ナワリもその向かいで端座している。
「お前には、これから教えねばならんことが山ほどある」
「は、はあ」
「まずは、暦の紡ぎ方。その意味。それからこの郷の歴史。太陽神シェメッシュの教え。あとは郷の掟も詳しく諳じられるようにならねばならないね。聖祖タリアクリが遺したご金言もだ。他にも数ある儀式の概要と正しいルミジャフタ語、たまに来るトラモント黄皇国の使者の追い返し方……」
ヒーゼルは耳を疑った。まるで老人の繰り言のように紡がれるその言葉を聞いて、「待って下さい」と声を上げずにはいられなかった。
「ちょっと、待って下さい。ナワリ様は一体何の話をしておられるのです? 暦の紡ぎ方や郷の歴史って、それじゃまるで――」
「そうだよ、ヒーゼル。そのまさかさ。こんなことは、長い長いルミジャフタの歴史の中でも非常に稀なことなんだがね。――トラトアニの次の族長は、お前だ」
しん、とあたりに沈黙が降りた。本当は天窓から微かに吹いてくる風の音や、それが運んでくる夜鳥の鳴き声などが聞こえていたはずなのに、ヒーゼルの耳はまるで誰かに塞がれたように、ナワリの声以外のものを受けつけなくなった。
「……次の族長が、俺? ナワリ様、それは一体何の冗談です?」
「私をお前と一緒にするんじゃない。こんなときに冗談なぞ言えるものか。お前はかつて西のルエダ・デラ・ラソ列侯国で、神子と共に一軍を率いていたね。そのお前になら郷を任せられると、トラトアニも合意した」
「何、を……何を言ってるんです? そりゃ、確かに俺はトゥルエノ義勇軍の副将でしたがね。だからってなんで俺が族長に? トラトアニはまだ生きてるでしょう。それにあいつには
娘がいる。まだ四歳と幼いが、元気だ。うちのカミラともよく一緒に遊んでる。そのアクリャがもう少し大きくなれば、トラトアニはきっと婿を取って――」
「アクリャは私が引き取り、次のナワリとして育てる。それも、トラトアニが合意した」
は、と聞き返したつもりが、声にならなかった。無意識のうちに口の端が持ち上がり、顔が歪む。――このババア。
「どういう、ことだ……どういうことだ、はっきり言え! カミラのことと言い、今の話と言い、あんたはいつもそうだ! 何でもかんでも遠回しに、話の核心をぼやかして……!」
「ヒーゼル。お前も知っているだろう。この世はお前がそう思い込もうとしているほど単純ではない。あらゆる物事が複雑に絡み合い、ほんの少し何かが違えば崩れてしまうような均衡の上に成り立っている。その何か≠ニは、人の想いだ。言葉は想いを映す鏡。強い言葉はそれだけ強烈に想いを具現する。だから我々は言葉を忌み、軽々しくは口にしない」
「分かんねえよ! つまりあんたは、あんたはトラトアニが……!」
立ち膝になり、勢い込んで発した怒号はしかし、そこで途切れた。その先を言葉にしてしまうことが恐ろしくて、ヒーゼルは震えた。
月明かりを透かして、ナワリがじっとこちらを見ている。吸い込まれる。
透明な、目。まるでこの世のすべてがそこにあるような。底なしの。
底知れぬ、目。
「心してお聞き、ヒーゼル。これはトラトアニの遺言だ。――ヒーゼル。お前は昔から気に食わないやつだったが、クィンヌムの儀から戻ったお前は見違えた。己の罪に苦悩しながら、それでも妻や子のために自らを捧げるお前の姿に、私はこの郷の未来を見た。だから=v
聞きたくない。ヒーゼルは耳を塞いだ。
「だから、やっぱり私は今もお前が気に食わないが、それでもこの郷をお前に託す。お前の子と共に、どうか我が愛する故郷を守ってくれ=v
――それなのに、ナワリの紡ぐ言葉は何故かするりとヒーゼルの耳孔に滑り込んできて。
ヒーゼルは耳を塞いでうなだれたまま、目を見開いていた。
敷物に描かれた太陽が見える。
太陽の村。
トラトアニが何より愛した太陽の一族、聖祖タリアクリの子ら、その子らが住まう美しき暁の郷――。
――でも俺は、この郷が大嫌いだった。
古くさくて閉鎖的で、父親がいないというだけで後ろ指をさされるこの郷が。
そんな郷を憎悪し孤立しようとする俺に、いちいち口やかましく説教を垂れてくるお前が。
大嫌いだった。
だから飛び出した。
二度と戻ってくるつもりなんてなかった。
だけどそうして飛び出した先でも居場所を失い、最後にやっぱりこの郷を頼ったのは、トラトアニ、お前が――
「……っ!」
ヒーゼルは駆け出した。弾かれたように立ち上がり、身を翻して、座るときに腰から外した剣を握って飛び出した。
騒々しい足音が神の寝所に谺して、バタバタと遠のいていく。
残されたナワリは、月明かりの下に端座したまま。
「……やはりお前はいくんだね、ヒーゼル。私がどんな言葉を選ぼうと」
彼女は年老いた手で足元の太陽を撫で、うっすらと自嘲する。
「
未来が視えてしまうというのも、難儀なものだねぇ……あんたもそう思うだろう、ペレスエラ」
そう呟いたナワリの背後に一人、女が忽然と佇んでいた。
彼女は血のように赤い
長衣の下で、静かに微笑んでいる。
○ ● ○
知ってたんだ。
知ってたんだよ。
なあ、トラトアニ。
お前がいつだって、俺を守ろうとしてくれてたことは。
俺だって、ちゃんと知ってたんだよ。
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