『月を見ていたいんだ。』
そう言って、俺の下宿先のベランダに出たあいつを見たのは、もう随分前だ。
遠征に行くと言って出ていったきり、あいつは戻ってこなくて、それがいつの事だったか、出て行ってからどれくらい経ったのかさえ、思い出せない。
…いや、本当は思い出せないんじゃない。
むしろこの上なく覚えてる。
今でも昨日の事のように、あの出発の日を思い出せる。
変わらない笑顔で、行ってきますって、手を振ってたんだ。
その動きすら鮮明に思い出せる。
あいつがいつもみたいに笑いながら帰ってくるのを、ずっとずっと、それはもうバカみたいに、ずっと此処でこうして待っているのだから…。
なのに…
「あれからどんだけ経ったか、わかってんのかよ……なぁ、フレン……」
呟いた言葉は寒空の下、誰の耳に届く事も無く消えていった。
「どうやったらお前に会える…どこに行けばお前に会える…」
騎士団にでも戻ればいいのか。
いや、それも結局は今更で。
だって騎士団に入ったって、今あいつはこの帝都にはいないのだ。
出ていく前の夜に、この部屋でこうしてただ月を眺めていたあいつと同じように、自分も今こうしてベランダに立っているが、ここで月を見ながらあいつは何を思っていたんだろう。
もう何度満ち欠けを繰り返したのか、あの日と何一つ変わらない形のままの月が、静かに輝いている。
ふと、手摺に置いた指先に傷のような、指に引っ掛かるものがあるのを感じてそこを見ると、ぽつりと
"好き"
と、何か尖った硬いもので削られた痕がのこっていた。
「―――――…」
あぁ、そうか、あいつはあの時、これを、…
そう思った瞬間、かどうかは定かではないが、だって気付いた時にはもう涙がぼろぼろと冷たい頬を伝っていて、止まらなかった。
その場に座り込み、声を殺して泣いた。
そうか、あいつは、もう、ここには帰ってこない…。
二度と会えない…。
経ちすぎた月日と、たった一つ残されたあいつの想いを知って、俺はただひたすらに、この先、あいつに会えることはもう無いのだ、と、直感して崩れ落ちた。
月だけが俺を見ていた。
→