何もしない何もしないといいながら実は何かをしている私(笑)が気づいたことがあります

姿勢(肚)がある程度決まって重心がある程度落ちても、さらにそこから限りなく落ちシロがあるということです。かつての自分よりは全然力の抜けて氣の通った身体であった近年ですが、その「ある程度」の落下身体からの動作はしょせん「ある程度」のもの。以前より何かをしなくなった、という相対的なものでしかありませんのです。

ただ座るもしくはただ立つ。そこでビッとかビーンとかいう体感がありそこから動作したら氣感力感があるもんだから、それをやる。それは別に悪くはないが、身心脱落脱落身心無限の力、とはいわない。

ただ立つ。ビーン。それは到達点でも何でもなく、落ちる縦軸に終わりなど見えない。それは底なし沼のようでもあるからして、つい「何かをしなければ」というエネルギーが、ある程度のところで身体をG軸に合わせているのです。


精神的な物言いでいうなら、「体得したい自分」、が実は居るのでした。
「無限のチカラを体得したい自分」。これは完璧な矛盾です。 神秘体験だとかある程度の中心力、エーテルレベルの氣、そんなものは、体得の範疇でしょう。

ただ立つ。そこから限りなく落ちてゆくのは、体得感など消失するような体験です。ですから体得したい「自分」が先行しているかぎり、その体験をすることはできないのでした。鍛練や修行を否定していても私は体得をひそかににぎりしめていた。ま、コソドロみたいなもんですな。