なんかこう…静かに冷静に妻を殺させたいと思ったけど結局激昂して衝動で殺すことしか出来なかった…そんな没を載せる…失敗したわー…でももったいないから載せる…冷静に殺すにはどうしたらいいのかしらん…
2012-7-25 21:27
青妻
これをしてはいけないよ。
あれはしてはいけないよ。
物語の登場人物は優しく忠告してくれる。なのにいつだって、子供はそれを聞きやしない。
七匹の仔山羊も赤ずきんも、親切なお母さんの忠告を守らず狼に食べられた。馬鹿な子たち、きちんと言う事を聞いていれば怖い目に合わずに済んだのに。
あれをしてはいけないよ。
これはしてはいけないよ。
何度言われても聞き入れないのは、禁忌こそ犯したくなるのが人の常だからなのかしら。
結局のところ、忠告には誘惑も含まれているのだと彼女は思う。あれをしてはいけないの、どうして?これはしてはいけないの、どうして?決め事を破ればどうなるか、破った後どんな不幸があるかわからないから手を伸ばす、好奇心の甘い毒。危険性に現実味が無いから手を伸ばすのは、炎の熱さを知らぬ子供がきらきらと光り揺らめく炎に思わず手を延ばすのと似ている。熱いと大人に忠告されても、その熱いというのがどんなものかわからない。そして目に見えるそれはとても美しく危険には見えない、だから手を伸ばす。これをしてはいけない、あれをしてはいけないと言われる程に、それがどういうものか気になってしまう。或いはそれは、女が故の罪だろうか?神話はかく語る、食してはいけない知恵の実を口にした罪人の名を女と言うと。神からの忠告を聞き入れず、悪魔の誘惑に惑わされた哀れな女。女だからこそ惑わされたのだろうか、女が愚かだから?男ならば、そんな愚かな行為はしなかったのだろうか。
それならばこれは、楽園を追放された物語の繰り返しだろうと、彼女は口端を歪め笑んだ。裸の胸に降りかかった血飛沫の不快なこと。座り込んだ膝先に倒れこむ首のない裸の男の目障りなこと。自らの首の数ミリ先にある白刃の鬱陶しいこと。その白刃を手に氷のように表情の無い顔で彼女を見下ろす男の恐ろしいこと。なのに悠長にそんなことを考える自分が可笑しくて、彼女は歪に笑った。いつか来るだろうとずっと思っていた日が漸く来たのだ。
「……言い訳は、あるか」
低い、地の底から這うような声。怒りと憎しみに染まった声は、何処か震えている気がした。それ程激昂しているのだろうか、所有物が手を噛んだことに。それとも別の感情が含まれているのだろうか?彼女には、わからないことだけれど。
「……何を言い訳すればよろしいの?」
微笑む彼女の心は穏やかだ。いつか来るとずっと思い続けていたからか、それとも流すべき涙は既に流し切ったからか。何も知らぬ無垢な少女のように笑うのは、事実彼女が何も知らないからだ。
「留守を預かる身で身分の知れぬ男を招き入れたこと?その上この男を相手に不貞を働いたことかしら?それとも、入ってはいけないと忠告されていた部屋の奥に入ったこと?ああ、それとも、」
首にじりじりと刺さる白刃の切っ先。彼女の白い喉元に一筋の鮮血が流れるが、それでも彼女は微笑んだ。慈愛を分け与える聖女のように、見境を知らぬ娼婦のようにただ美しく。
「彼女の前で、汚らわしい行いをしたことかしら」
小首を傾げる彼女の胸元で、長い栗色の髪と申し訳程度に彼女の肌を隠す白いクライトが揺れた。無邪気にさえ見えるその仕草。けれど彼は、何か恐ろしいものでも見たように小さく手を震わせる。未知のモノを見る目。信じられないのだろうか、罪を犯してなお、その無垢な微笑みを絶やさない目の前の女が。
「貴、様、」
「美しい人」
怒りに震える男の声に聞こえないふりをして、彼女は少し振り返る。突きつけられた刃が白い喉を裂いたけれど、彼女はそれをものともしない。痛みを微塵も感じていないような仕草。その彼女の視線の先には、彼女の言うように美しい人が居た。
宵闇よりなお濃い長い黒髪、深く澄んだ海の色の瞳にそれを縁取る長い睫毛。すっと通った鼻筋の下には、薄く色付いた艶やかな唇。真雪の肌の麗しい穢れを知らぬ乙女は、細やかな装飾の金の額縁の中で微笑んでいた。女神のような、背筋が凍る程のその美しさ。幸か不幸か、彼女に見覚えのあるその女性。
「美しい人でしたね。ルードヴィング家のお嬢様…いいえ、貴方は知ってらっしゃるのよね」
美しく聡明な女性。いつだって社交界の花だった。彼女は白百合、穢れを知らぬ気高き乙女。彼女は青薔薇、唯一無二のたった一輪の花。
そうよ、私とは似ても似つかぬ彼女は。
「麗しの我が従姉妹様」
「…」
激昂し戦慄ないていた男の唇が、真一文字に引き結ばれる。憎しみと怒りに塗れていた目に映る、理性の色。けれど、その理性は誰に向けたものか。そこに宿る悲しみは、誰を思ったものか。彼女は知ってしまった。だからこそもう、必死にはならないのだ。彼の為にも、自分の為にも。
「高名な青髭公、貴方が私を娶ると言って下さった時、確かにおかしいとは思っていたわ。貴方程の方が、何も知らぬ箱入り娘の私を選ぶなんて」
それでも嬉しかった。初めて自分を求めてくれた人、初めて自分の手を取ってくれた人。あまり多くを語らない貴方は、いつだって私が寂しくないようにと沢山の宝石やドレスをくれた。戦争に向かい留守になりがちな時も心の慰めとなるようにと全てを買い与えてくれた。それがどれだけ空虚なただの物であるかも知らず、喜んでいた。そこに愛は無いのよ。駄々をこねる子供に飴を与えるのと同じ。黙らせるために与えるの。誤魔化すために与えるの。
「ごめんなさいね」
宝石を与えられても、絡まない視線。ドレスを与えられても、かけられない言葉。気付いたのがいつからかは忘れてしまった。けれどその小さな違和感はいつしか亀裂になり、そして、
「がっかりしたでしょう、私と従姉妹様があまりに似ていなくて」
入ってはいけないと言われていた秘密の部屋に、足を踏み入れてしまった。そして知ってしまったのは、愛する人の心の在り処。それがよりによって、あの人だった。一族の中でも随一の美貌と才能を誇った女性。妹君が既に嫁がれていたから従姉妹である彼女を選んだのだろうと思うが、誤った選択をしたものだと思う。あんな美しい人など、他にはいない。妹君だって、あの人にはあまり似ていなかった。まして、従姉妹である彼女など、欠片も似ているところは無かった。
「弁解すべき点と言えば、そのくらいかしら?」
冬の夜のように黒い髪を持っていないの。私の髪は木の幹の色。優しい海のような目は持っていないの。私の目はどこにでもある葉っぱの色。深い教養も才知もないから、貴方を楽しませることも感心させることも出来ないの。私に出来るのは歌うことだけ、子供でも出来ることだけ。貴方たちのように強い心も持っていないから、返らぬ愛を思い続けることも出来なかった。一時の温もりさえくれれば、誰でも良かった。だって貴方じゃないのだもの。
その瞬間に絶望したのは、確かに男の方だった。変えられぬ現実を突きつけられていたのは、確かに男の方だったのだ。けれど彼は、なおそれを認めはしない。認めてはならぬのだ。認めれば、彼の積み上げて来たものが崩れてしまう。たった一人の人に送り続けていた、彼の中の何よりも清らかな思いが崩れてしまう。誰あろう彼だけは、それを認め否定してはならない。それは罪ではないのだ。ただ神を愛するように、彼の人を愛している。純然たる愛は目の前の女が邪推する感情とは全く別のものなのだ。男は彼の人を愛している。けれど愛欲を抱いてはいない。劣情を覚えたこともない。彼の彼の人に向けた感情はどんなものより清らなるもので、それは神への信仰にも似た美しき友情なのだ。だから、それを理由に女の不貞を許してはならない。それは彼の人を愛する気持ちを穢されるのと同意義だからだ。
「……不貞の罪を犯し、なお笑うか。魔女め。」
そうだこの女は魔女なのだ。邪悪で汚らわしい神への冒涜。許されざる存在の最たる者。悪いのはこの魔女であり、聖女を思う男には何一つとして罪はない。
言葉遊びにも似た、下らない自己防衛。男の中の癒えぬ傷は今なお血を流している。聖女を守れなかった自身、聖女を屠った国、聖女を救わなかった神。全てを呪ったくせにそれでも全てを捨てきれなかった。聖女を失くした時その手に抱いていた彼女を突き放していれば、あるいはこんなことにはならなかったかもしれない。けれどもう遅いのだ。彼女は全てを知り、知った上で彼の柔らかな部分に爪を立てる。
「嫌なことを言うのね、私は魔女ではないわ」
花に水があるように、侭、罪には罰がいる。
突きつけられた現実から逃げて、逃げて、逃げて。そうして、犯してはならない罪を犯した。助けて欲しくて藻掻いて、足掻いて、取ってはならない手を取った。逃げて、罪を犯して、隠れて、逃げて、そんな私を見つけたのなら、後は貴方が、
「魔女はこの女でしょう?国に、神に処刑された汚らわしいテューリンゲンの黒い魔女」
罰して頂戴ね。
「ふざ、けるなあああ!!」
先ずは一撃。袈裟懸けに斬り付けられて赤く染まる胸。衝撃に耐えきれず前へと倒れ込めば、すぐにニ撃目が背中に落とされた。垂直に刺さる剣が肺を突き抜ける。
「貴様に!彼女の!何が!わかる!穢れた女が!あの優しき人の!あの美しい人の!何が!!」
激昂する男の目にはもはや、僅かばかりの理性もない。言葉の区切り毎に落とされる剣。傷一つなかった彼女の肌は穴だらけに、白い肌もクライトも赤く染まる。痙攣して跳ねる身体。気づかぬ男は爪先で彼女の身体を蹴り上げ、仰向けになった身体にまた剣を振り下ろす。
「汚らわしいのは貴様だ!豚め!恩も忘れ!裏切り者が!貴様など、」
幾度彼が剣を振り下ろした頃か、不意に、振り上げた手はそのままに彼の動きが止まる。時が止まったような静寂。彼の唇が、小さく震えた。見開かれた瞳。その先にいるのは、
「…、…… ?」
音にならない声で紡いだ妻の名前。
なあに?
小鳥のように軽やかに返事をした、あの声が聞こえない。彼の視線の先には彼女の瞳があった。新緑の麗しい鮮やかな翡翠色、であった瞳。暗く濁ってしまった、色のない瞳。陽光の下煌めいていたあの瞳は、今しがた彼が其の手で屠った。彼女の犯した罪を罰するが故に。
「…、死んだ、か…」
からん、
硬くも軽い音を立てて、彼の愛剣が床に落ちる。ふと頬を撫でると、ぬるりとした感触がした。視線を手に落とせば、自分のものではない血で真っ赤に染まっていた。手だけではない。彼女を蹴り上げた足も、刺し貫き続けた剣も、真っ白だった彼のシャツも、彼女の胸も、背も、真白だったクライトも、全て。全て、彼が染めた。
「は、はは…、当然の…当然の酬いだ…豚め…」
そうね、当然の終わりだわ。
しかし当然だと嘯く彼の目は、もう何も見ていなかった。虚ろな瞳でぼんやりと宙を見つめ笑続ける。こんなことは大したことねはない。大したことではないと、彼は自身に言い聞かせる。罪に罰を与えるのは当然のこと。彼は罪を犯した女を裁いた。ただそれだけのことなのだ。たったそれだけのことなのだ。
罪を犯せば贖わなければならない。どんなに逃げても、隠れても、犯した罪はいつか露呈するものだ。露呈した罪は白日の下裁かれる。それこそが神の意志、それこそが摂理。
けれど。
けれどもと、彼女は思う。絶えた生の最後の欠片を抱いて、狂ったように乾いた笑を零し続ける男を見て最期に思う。
貴方の罪は、いつ裁かれるのかしらね。
罰は当たり前に存在する。人は等しく神の子だ。その子を殺し自らを偽る男はいつ裁かれるのだろうか。彼に愛されることも、生きることも諦めた彼女はそこに思い至り初めて、死ぬことを惜しく思った。もはや何を言っても、何も戻りはしないのだけど。
これをしてはいけないよ。
あれはしてはいけないよ。
最初にその忠告を無視した女は赤く染まって吊るされた。
あれはしてはいけないよ。
これをしてはいけないよ。
神の御前で愛すると誓った女を殺した男はどうなるのか。
見届けられぬ無念を抱き、彼女は覚め得ぬ眠りについた。
あれはしてはいけないよ。
物語の登場人物は優しく忠告してくれる。なのにいつだって、子供はそれを聞きやしない。
七匹の仔山羊も赤ずきんも、親切なお母さんの忠告を守らず狼に食べられた。馬鹿な子たち、きちんと言う事を聞いていれば怖い目に合わずに済んだのに。
あれをしてはいけないよ。
これはしてはいけないよ。
何度言われても聞き入れないのは、禁忌こそ犯したくなるのが人の常だからなのかしら。
結局のところ、忠告には誘惑も含まれているのだと彼女は思う。あれをしてはいけないの、どうして?これはしてはいけないの、どうして?決め事を破ればどうなるか、破った後どんな不幸があるかわからないから手を伸ばす、好奇心の甘い毒。危険性に現実味が無いから手を伸ばすのは、炎の熱さを知らぬ子供がきらきらと光り揺らめく炎に思わず手を延ばすのと似ている。熱いと大人に忠告されても、その熱いというのがどんなものかわからない。そして目に見えるそれはとても美しく危険には見えない、だから手を伸ばす。これをしてはいけない、あれをしてはいけないと言われる程に、それがどういうものか気になってしまう。或いはそれは、女が故の罪だろうか?神話はかく語る、食してはいけない知恵の実を口にした罪人の名を女と言うと。神からの忠告を聞き入れず、悪魔の誘惑に惑わされた哀れな女。女だからこそ惑わされたのだろうか、女が愚かだから?男ならば、そんな愚かな行為はしなかったのだろうか。
それならばこれは、楽園を追放された物語の繰り返しだろうと、彼女は口端を歪め笑んだ。裸の胸に降りかかった血飛沫の不快なこと。座り込んだ膝先に倒れこむ首のない裸の男の目障りなこと。自らの首の数ミリ先にある白刃の鬱陶しいこと。その白刃を手に氷のように表情の無い顔で彼女を見下ろす男の恐ろしいこと。なのに悠長にそんなことを考える自分が可笑しくて、彼女は歪に笑った。いつか来るだろうとずっと思っていた日が漸く来たのだ。
「……言い訳は、あるか」
低い、地の底から這うような声。怒りと憎しみに染まった声は、何処か震えている気がした。それ程激昂しているのだろうか、所有物が手を噛んだことに。それとも別の感情が含まれているのだろうか?彼女には、わからないことだけれど。
「……何を言い訳すればよろしいの?」
微笑む彼女の心は穏やかだ。いつか来るとずっと思い続けていたからか、それとも流すべき涙は既に流し切ったからか。何も知らぬ無垢な少女のように笑うのは、事実彼女が何も知らないからだ。
「留守を預かる身で身分の知れぬ男を招き入れたこと?その上この男を相手に不貞を働いたことかしら?それとも、入ってはいけないと忠告されていた部屋の奥に入ったこと?ああ、それとも、」
首にじりじりと刺さる白刃の切っ先。彼女の白い喉元に一筋の鮮血が流れるが、それでも彼女は微笑んだ。慈愛を分け与える聖女のように、見境を知らぬ娼婦のようにただ美しく。
「彼女の前で、汚らわしい行いをしたことかしら」
小首を傾げる彼女の胸元で、長い栗色の髪と申し訳程度に彼女の肌を隠す白いクライトが揺れた。無邪気にさえ見えるその仕草。けれど彼は、何か恐ろしいものでも見たように小さく手を震わせる。未知のモノを見る目。信じられないのだろうか、罪を犯してなお、その無垢な微笑みを絶やさない目の前の女が。
「貴、様、」
「美しい人」
怒りに震える男の声に聞こえないふりをして、彼女は少し振り返る。突きつけられた刃が白い喉を裂いたけれど、彼女はそれをものともしない。痛みを微塵も感じていないような仕草。その彼女の視線の先には、彼女の言うように美しい人が居た。
宵闇よりなお濃い長い黒髪、深く澄んだ海の色の瞳にそれを縁取る長い睫毛。すっと通った鼻筋の下には、薄く色付いた艶やかな唇。真雪の肌の麗しい穢れを知らぬ乙女は、細やかな装飾の金の額縁の中で微笑んでいた。女神のような、背筋が凍る程のその美しさ。幸か不幸か、彼女に見覚えのあるその女性。
「美しい人でしたね。ルードヴィング家のお嬢様…いいえ、貴方は知ってらっしゃるのよね」
美しく聡明な女性。いつだって社交界の花だった。彼女は白百合、穢れを知らぬ気高き乙女。彼女は青薔薇、唯一無二のたった一輪の花。
そうよ、私とは似ても似つかぬ彼女は。
「麗しの我が従姉妹様」
「…」
激昂し戦慄ないていた男の唇が、真一文字に引き結ばれる。憎しみと怒りに塗れていた目に映る、理性の色。けれど、その理性は誰に向けたものか。そこに宿る悲しみは、誰を思ったものか。彼女は知ってしまった。だからこそもう、必死にはならないのだ。彼の為にも、自分の為にも。
「高名な青髭公、貴方が私を娶ると言って下さった時、確かにおかしいとは思っていたわ。貴方程の方が、何も知らぬ箱入り娘の私を選ぶなんて」
それでも嬉しかった。初めて自分を求めてくれた人、初めて自分の手を取ってくれた人。あまり多くを語らない貴方は、いつだって私が寂しくないようにと沢山の宝石やドレスをくれた。戦争に向かい留守になりがちな時も心の慰めとなるようにと全てを買い与えてくれた。それがどれだけ空虚なただの物であるかも知らず、喜んでいた。そこに愛は無いのよ。駄々をこねる子供に飴を与えるのと同じ。黙らせるために与えるの。誤魔化すために与えるの。
「ごめんなさいね」
宝石を与えられても、絡まない視線。ドレスを与えられても、かけられない言葉。気付いたのがいつからかは忘れてしまった。けれどその小さな違和感はいつしか亀裂になり、そして、
「がっかりしたでしょう、私と従姉妹様があまりに似ていなくて」
入ってはいけないと言われていた秘密の部屋に、足を踏み入れてしまった。そして知ってしまったのは、愛する人の心の在り処。それがよりによって、あの人だった。一族の中でも随一の美貌と才能を誇った女性。妹君が既に嫁がれていたから従姉妹である彼女を選んだのだろうと思うが、誤った選択をしたものだと思う。あんな美しい人など、他にはいない。妹君だって、あの人にはあまり似ていなかった。まして、従姉妹である彼女など、欠片も似ているところは無かった。
「弁解すべき点と言えば、そのくらいかしら?」
冬の夜のように黒い髪を持っていないの。私の髪は木の幹の色。優しい海のような目は持っていないの。私の目はどこにでもある葉っぱの色。深い教養も才知もないから、貴方を楽しませることも感心させることも出来ないの。私に出来るのは歌うことだけ、子供でも出来ることだけ。貴方たちのように強い心も持っていないから、返らぬ愛を思い続けることも出来なかった。一時の温もりさえくれれば、誰でも良かった。だって貴方じゃないのだもの。
その瞬間に絶望したのは、確かに男の方だった。変えられぬ現実を突きつけられていたのは、確かに男の方だったのだ。けれど彼は、なおそれを認めはしない。認めてはならぬのだ。認めれば、彼の積み上げて来たものが崩れてしまう。たった一人の人に送り続けていた、彼の中の何よりも清らかな思いが崩れてしまう。誰あろう彼だけは、それを認め否定してはならない。それは罪ではないのだ。ただ神を愛するように、彼の人を愛している。純然たる愛は目の前の女が邪推する感情とは全く別のものなのだ。男は彼の人を愛している。けれど愛欲を抱いてはいない。劣情を覚えたこともない。彼の彼の人に向けた感情はどんなものより清らなるもので、それは神への信仰にも似た美しき友情なのだ。だから、それを理由に女の不貞を許してはならない。それは彼の人を愛する気持ちを穢されるのと同意義だからだ。
「……不貞の罪を犯し、なお笑うか。魔女め。」
そうだこの女は魔女なのだ。邪悪で汚らわしい神への冒涜。許されざる存在の最たる者。悪いのはこの魔女であり、聖女を思う男には何一つとして罪はない。
言葉遊びにも似た、下らない自己防衛。男の中の癒えぬ傷は今なお血を流している。聖女を守れなかった自身、聖女を屠った国、聖女を救わなかった神。全てを呪ったくせにそれでも全てを捨てきれなかった。聖女を失くした時その手に抱いていた彼女を突き放していれば、あるいはこんなことにはならなかったかもしれない。けれどもう遅いのだ。彼女は全てを知り、知った上で彼の柔らかな部分に爪を立てる。
「嫌なことを言うのね、私は魔女ではないわ」
花に水があるように、侭、罪には罰がいる。
突きつけられた現実から逃げて、逃げて、逃げて。そうして、犯してはならない罪を犯した。助けて欲しくて藻掻いて、足掻いて、取ってはならない手を取った。逃げて、罪を犯して、隠れて、逃げて、そんな私を見つけたのなら、後は貴方が、
「魔女はこの女でしょう?国に、神に処刑された汚らわしいテューリンゲンの黒い魔女」
罰して頂戴ね。
「ふざ、けるなあああ!!」
先ずは一撃。袈裟懸けに斬り付けられて赤く染まる胸。衝撃に耐えきれず前へと倒れ込めば、すぐにニ撃目が背中に落とされた。垂直に刺さる剣が肺を突き抜ける。
「貴様に!彼女の!何が!わかる!穢れた女が!あの優しき人の!あの美しい人の!何が!!」
激昂する男の目にはもはや、僅かばかりの理性もない。言葉の区切り毎に落とされる剣。傷一つなかった彼女の肌は穴だらけに、白い肌もクライトも赤く染まる。痙攣して跳ねる身体。気づかぬ男は爪先で彼女の身体を蹴り上げ、仰向けになった身体にまた剣を振り下ろす。
「汚らわしいのは貴様だ!豚め!恩も忘れ!裏切り者が!貴様など、」
幾度彼が剣を振り下ろした頃か、不意に、振り上げた手はそのままに彼の動きが止まる。時が止まったような静寂。彼の唇が、小さく震えた。見開かれた瞳。その先にいるのは、
「…、…… ?」
音にならない声で紡いだ妻の名前。
なあに?
小鳥のように軽やかに返事をした、あの声が聞こえない。彼の視線の先には彼女の瞳があった。新緑の麗しい鮮やかな翡翠色、であった瞳。暗く濁ってしまった、色のない瞳。陽光の下煌めいていたあの瞳は、今しがた彼が其の手で屠った。彼女の犯した罪を罰するが故に。
「…、死んだ、か…」
からん、
硬くも軽い音を立てて、彼の愛剣が床に落ちる。ふと頬を撫でると、ぬるりとした感触がした。視線を手に落とせば、自分のものではない血で真っ赤に染まっていた。手だけではない。彼女を蹴り上げた足も、刺し貫き続けた剣も、真っ白だった彼のシャツも、彼女の胸も、背も、真白だったクライトも、全て。全て、彼が染めた。
「は、はは…、当然の…当然の酬いだ…豚め…」
そうね、当然の終わりだわ。
しかし当然だと嘯く彼の目は、もう何も見ていなかった。虚ろな瞳でぼんやりと宙を見つめ笑続ける。こんなことは大したことねはない。大したことではないと、彼は自身に言い聞かせる。罪に罰を与えるのは当然のこと。彼は罪を犯した女を裁いた。ただそれだけのことなのだ。たったそれだけのことなのだ。
罪を犯せば贖わなければならない。どんなに逃げても、隠れても、犯した罪はいつか露呈するものだ。露呈した罪は白日の下裁かれる。それこそが神の意志、それこそが摂理。
けれど。
けれどもと、彼女は思う。絶えた生の最後の欠片を抱いて、狂ったように乾いた笑を零し続ける男を見て最期に思う。
貴方の罪は、いつ裁かれるのかしらね。
罰は当たり前に存在する。人は等しく神の子だ。その子を殺し自らを偽る男はいつ裁かれるのだろうか。彼に愛されることも、生きることも諦めた彼女はそこに思い至り初めて、死ぬことを惜しく思った。もはや何を言っても、何も戻りはしないのだけど。
これをしてはいけないよ。
あれはしてはいけないよ。
最初にその忠告を無視した女は赤く染まって吊るされた。
あれはしてはいけないよ。
これをしてはいけないよ。
神の御前で愛すると誓った女を殺した男はどうなるのか。
見届けられぬ無念を抱き、彼女は覚め得ぬ眠りについた。
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