ドンファン≠愛の幻滅







私はある逆説に気づきました 苦しくなるまで愛せば 苦しみは消え さらなる愛だけが残るという事に。

───マザー・テレサ







夜の帳が降りて空気が冷たくなった。
銀時は一方が家々の列に、もう一方が黒いペンキ塗りの格子に囲まれている公園沿いの通りを歩いていた。
その公園沿いの歩道に、木製のベンチがふたつあった。
そこのひとつに座った。
だが座ろうとすると怒号がきこえた。思わず飛びあがった。
いつの間にかベンチを占領していた男に罵られたのだ。銀時は言い返しもせず立ち去る。これでいいと思った、これが今の自分だ。
昔の銀時ならほとんど憤慨しただろうが、今はそのことに魅了される。数分まえには惨めな嫉妬に炙られていたのに、いまの自分はただ恐怖しか、神楽のために、ただ恐怖しか感じていない。
神楽のためにはなんでもしてやりたいが、なにをしていいのかわからない。
そして耐えがたいのは、まさにそのことなのだ。
どうしたら神楽が気に入るかわからないのに、その行為自体焦る自分が嫌われたくないだけなのか、ほんのちょっとのことで鬱になる。
どうしたら自分が耐えられるのかもわからないのに、自分が耐えがたく求めているのも神楽だけなんて──。
神楽だけなんて。



ふたつの街灯が離れているので、そのあいだに残された暗闇のなかで、ほとんど見えないベンチのほうに銀時はもどった。
ひどく疲れているのを感じ、腰かけに脚を置いて、長々と横たわりたくなった。


……きっとこんなふうに始まるんだろう。


ある日、ベンチの腰かけに脚を置く。やがて夜になる。すると、そこで眠る。
そんなふうにある日、ひとは放浪者たちの仲間入りをし、長谷川さんの一員になる。。。

だからこそ、全力を振り絞って疲労感を抑え、じつに真っ直ぐ背を伸ばして銀時はすわった。









───初めは、その声に悪意までは感じなかったのだ。


それは一瞬友情を──互いに知りたくもないのに──約束する火花のようだった。
だがそれも、ずしりとした手が肩に襲いかかり痛みを感じる。銀時は振りかえり、隊服姿で瞳孔を開き…嫌味っぽく話しかけてくる男の煙草を頬に感じた。
まるで昔の悪夢が銀時のほうに降りてきたように。

男いわく、最近神楽が見知らぬ輩たちと一緒にいるのをよく見かけるらしい。
銀時は信頼できずに言った。


『そっちこそ、ウチの神楽ちゃん屯所に連れ込んでねぇだろうなぁ? 最近どうなの? 総一郎くんとまた喧嘩してんの? 知ってたら教えてほしいんだけど』


男は黙り、それから尋ねた。


『アイツはおまえに教えてないのか?』
『…は?』
『そういうことなら悪いが』


男はほとんど後悔するようにバカ丁寧に嘲笑い、銀時の肩をポンポンと叩いた。


『俺のほうからは教えるわけにはいかねーな』


火花は消え、落ちてしまった。
銀時はまるで隠したいとでもいうように、無意識の仕草で胸に手をもっていった。服を掴んだ。体の内部の炎が、たちまち劣等感と反抗心とを燃やし尽くしてしまう。
肩にかけられた手を振り払い、逆に掴みかかった相手の肩を徐々に痛めつけ車道のほうに押しやると、男はその手を振り払おうとした。抵抗しようとしてバランスを失い、寸でのところでガードレールにしがみついていた。
一瞬、そのまま車道に突き飛ばしてやろうかと思ったが手を離した。
銀時は降参し、不快に背を向けたが、隊服の男は追いかけてくる。そして、男がよろめきながら銀時のまえに立ちどまると、抜刀し、腕を振りあげ、怒りを爆発させた。
突然、銀時は自分の疲れを感じた。突然、本当に自分の弱さを感じた。
そして急に、掴まれて挫傷した肩に痛みを感じた。
ほんのひと昔まえなら絶対になかったことだ。
本気で男に斬りかかりたいなどと絶対に思わなかった。
いくらこの男とそりが合わず相性最悪でも、無駄な喧嘩をしないのが自分の流儀だった。なのに……


男から何とか逃げきり、ひとりになってようやく冷静になった。
探しにきた神楽のことを思いだす。
どこに行ったのかわからないので、行き当たりばったりにまた歩き出した。








思えば最近ずっとこんな感じだ。
情緒不安定──。
とてつもなく苦しい嫉妬に囚われている。
それは開いた箪笥のまえで、神楽には自分を裏切る能力があるのだろうかと、まったく理論上の疑問を抱いていたときに覚えた、頭のなかだけの抽象的な嫉妬じゃない。
体を刺し貫き、痛めつける、耐えがたい不幸なものだ。


考えがその地点にまで達すると、また神楽のことを思いだした。


神楽は家に帰っているだろうか?
あんまり遅いので探しに来たけど、自分とすれ違いになってやしないだろうか。
もう遅いしお願いだから帰っていてほしい。
自分ももう帰らなくては。
銀時はどんな動揺もなしにそう思う、まるで明日は雨が降るだろうかと、晴れればいいと思うように……。


銀時は顔を覆った。
強烈な哀しみの波が体の奥底から立ちのぼってきて、腹に、胸にあふれ、顔を覆う。冷たい炎に包まれる。

神楽はもう自分のために存在しているのではなく、どこか別のところ、たとえ銀時が出逢っても、神楽だとは気づかない別の人生のなかに行ってしまったんだろうか。不思議だ。その考えがどこからきたのか、もう自分にはまったくわからないのだ。記憶のなかを捜してみるが、なにも見つからない。
銀時はただ、どんな具体的な想い出も惹起しない耐えがたい感覚を、遠くからやってきた、まるで救いのように謎めいていてなんとも説明できない失望的な感覚を覚えた。

神楽の非情な顔、そこから発する、倒錯していながらも魅力的な無垢を想った。
神楽は共感をもって、しかし欲望をもたずに銀時を眺め、銀時はずっとまえから自分の男としての能力をすべてこの盲目的な信頼、仲間たちに行使する行き過ぎた権威に変えられてしまっているのだと思った。
神楽が銀時からその信頼を失くすときのことを想像した。
神楽が銀時を妄信している言葉で脅えさせ続ける一方で、神楽のほうはこっそりと見知らぬ男のなかに紛れ込み、そのあとで銀時から逃れてしまうのを───。



ガサリ、と近くで物音がして銀時はハッとなった。
顔を覆っていた手をどけて横を見ると、離れた隣のベンチから放浪者がむくりと起きだしていた。
孤立無援の境遇を保護してくれる屋根もない哀れな者たちだ。
突然彼らは銀時に驚くべきことを理解させてくれた。
たしかに銀時は安逸に生活してきたとはいえ、それはただまったく不確実で、一時的な状況のおかげにすぎない、はみ出し者なのだと知る。
つまり自分がもっとも深い疎外感によって今もはみ出し、あるがままの自分になり、自分が属していた者たちのあいだに再び舞い戻っていく運命なのだと。
貪欲さをなくしたら、ひとは転落の淵に嵌まりこむことになる。今そこに嵌まりこんでいる。それだけだ。
だから耐えがたい苦痛と、幸福と、渇望のただ中に───。
自分の顔にようやく乾いた笑いが浮かぶのを感じ、銀時は隊服の男が言ったこともよく覚えておいた。


『俺のほうからは教えるわけにはいかねーな』


俺のほうからだって、教えられるわけにはいかねーんだよ。











fin






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09/19 17:41
[銀魂]




・・・・


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