彼方にかかる縄梯子







猫を飼ったことのある者なら誰でも知っている。
猫は時おり、ひどく軽蔑に満ちたまなざしで飼い主を見ることがある。
小さな顔に似合わぬ、あの大きな美しい目で飼い主の言動を一瞥し、自分が目にしている光景がいかに馬鹿げていて、見るに値いしないものであるか、その無表情の中に塗りこめながら、時には、ふん、と鼻さえ鳴らして、そっぽを向く───。







神楽はまた一歩うしろに下がって、見惚れるようでいながらも挑発するような眼差しで、銀時をじっと眺めた。
ふたりはテーブルをはさんで立ったまま向かい合っている。
かつてない冷ややかな空気に、『軽蔑』という二文字が銀時の頭の中に浮かんだ。
神楽を怒らした理由はわかっている。


アレだ。
アレがばれた。


神楽の箪笥から取り出した封筒を少しだけ破った。その折りたたんであった手紙がテーブルには広がっている。
一時間足らずまえに銀時が勝手にまた開いた手紙だ。以前のとは差出人が違う。
実際、神楽は銀時のまえですこしも自分を隠さず、それどころか自分を見せびらかしさえした。


神楽がプイっと背を向け、ふたたび押入れに引きこもってしまうのを茫然と見送った。
銀時はなにをしていいのかわからず、なにもできず、ぼんやりと、いつものように和室に布団を敷いて寝た。(──たとえ酔っていようが、遅く帰ってこようが、神楽におやすみのスキンシップをしてからいつもは寝入るのに)。
その晩はそれ以降、当然、神楽は自分のところから出てこなかった。
時間が過ぎたが、銀時は眠れなかった。
とうとう立ちあがって押入れの襖に耳を当てた。


規則正しい寝息がきこえた。
その静かな眠り、神楽が眠り込んだその寝つきのよさが銀時を苦しめる。
いつかの赤い風船の午後の夥しい劣悪感情がよみがえってくる。
そんなふうに長いあいだ銀時は襖に耳を当てたまま、神楽は自分が考えているよりずっと傷つきやすくないのだと思っていた。そして神楽が弱く、銀時のほうが強いのだと見なしたとき、たぶん自分が間違っていたんだと。


じっさい、どっちが強いんだろうか。


愛の土俵(愛着)が確かでないときは、たぶんほんとうに銀時だったかもしれない。
だが、愛着(愛の土俵)が足もとから消えてしまっても、強いのは神楽のほうで、弱いのは自分だ。



銀時はそっと押入れを開けて、神楽の頬に無断で触れた。


しっとりとして…どこか冷たい。


陶器のように青白いなめらかな質感は、観ているだけで鬼気迫るものがあった。
神楽の頬にも、その手の接触はまるで夢に触れられたあとみたいに、ひんやりとした痕を残すだろうか。


神楽の“ファン”には圧倒的にカルト臭がする男が多かった。
近場の知り合いなら言わずと知れた犬猿のドSから、病弱な少年の崇拝者、サイコ野郎に、札付きの悪、殴られるのが大好きな中年のおっさんや、テロリストや、ロリコン、オタク、どこぞの星の俺様な王子様まで。
どう見てもひんやりと冷たそうな皮膚をした神楽は、いわゆる少女めいた素朴なイメージとは無縁なわけで、どちらかというと人形のように孤立した、無意識の誘惑がきわだつ。
それに加えて、ある種の透き通るような純度、無垢な重み。無機質な乾いたイノセントというべきか、観る者にノワールな気分を誘発させる何かが、神楽の周囲にはひたひたと気配としてまとわりついているのだから、一般的な男の歓心を買ってもその後、正常に戻せなくなるのは当然と言えば当然だった。


赤い風船を手にして帰ってきた日から、神楽は何かしら物や手紙をもらうことがさらに増えるようになっていった。
あの風船は、街頭アンケートに答えてもらったと言っていたが、あまりにあかさらまな貢物まで増えて、銀時が 「返してきなさい」としょうがなく言い出さなければならなくなる程だ。
隠すのも面倒くさくなっていったんだろう。
それはとどまるところを知らず、神楽は確かに陽気だった。
そう、神楽は陽気で、そのことが銀時を傷つけた。
神楽に裏切られているのだという気はしなかった。
それとは別のことだった。
銀時には神楽から遠ざかる力がない。
もとより自分から離れるつもりはないし、近づく力も持て余している状況だが。
どんなことを“して”も、“された”としても、その力がないのだと絶望的な想いでもう諦めている。



銀時の愛撫は長く、静かだった。
まるで嵐に、自分を運ぶ波にとらえられた者が、たったひとつの動作しかできなかったみたいに。
その考えじたい愛撫のようだが、しかしあまりにも長い愛撫だった。
あの日に、あの突拍子もない瞬間に吹き込まれた決心は、狂気の沙汰なのかもしれない。
どうしてあの瞬間の一致の結託が、自分に有利に働きかけているなんて思ったのか。


どこまでも劣悪で、神楽の押入れの壁に張りつき、手を差し出して。
眼前で起きてるあいだも仔猫のように戯れている神楽を、じっと眼を凝らし淫乱に眺めているその自分を──銀時は想像する。


銀時は見知らぬ男と神楽の、ほとんどそれと感づかれない痕跡として、署名代わりに手紙を破いておいた。
黙って自分自身を嘲笑った。
アレは身元が特定できないままにしておきたいと望んでいたわけではなく、やはりバレることを前提とした開き直りだった。
それなのに、逆の願望、全然正当化されない、正当化できない、たしかに愚かしい願望が、とぼけるようにそそのかすのだ。
完全に気づかれないままにはしておかず、痕跡を残し。神楽なら銀時だと特定できるかもしれないと確信しながら、認めなかった。
自分の罪を認めなかった。
神楽のせいで銀時は、自分のものであるはずだった人生からずっと引き離されていく───。
このところ外に神楽を捜しにゆくのは、絶望的な振る舞いだが、たとえきわめて不確かだとしても、手紙だけが神楽の残していった唯一の手がかりだった。
だから、正しい道に導かれる確立がいくら低くても、その手がかりを無視することができないのだ。



外から帰ってきたこの日、破かれた手紙を見つけた神楽は、数分間黙ったまま、静かに銀時を見つめ。
そして、ふと目をそらして皮肉めいた困った微笑を浮かべると、


「銀ちゃんデショ?」


そう言った。
低い声だった。聞き取れないほどの。


銀時は言葉を失った。
反抗心も生まれなかった。
屈辱感すら生まれなかった。

ただ、ひたすら、怖気づいた。

その沈黙が答えだというのに、ここで感情を爆発させて神楽を責めることもできなかった。乞うことなどできなかった。
神楽が遠ざかってゆくのが怖かった。
そうだとしか言いようがなかった。
もし自分の愛を口にして、神楽が受け入れなかったらどうするつもりだと自分を責めた。
責めるのはいつも自分だ。
手に入ってもいないものをいつまでも自分はこうして恐れている。
すでに愛の土俵を知りはじめた神楽は、たちまち優位の感覚を占めてきて、そして暫くは銀時を無視するだろう。
今は飼い主のご機嫌をとる気分ではないとか、しつこくするなとか、せいぜいがその程度の反応なのだろうが、飼い主でありながら劣位に転じてしまったような、そんな気分にさせられることはこれまでの経験上でも明らかだ。
神楽が起きてきたら、またあのまなざしが銀時に悪夢のように知らしめるのだろうか。
神楽がもつ残忍さ、神秘性、理不尽な身勝手さは、おしなべて“女”に共通した特性だと決めつけて、自分はどこまでも劣等感を植えつけられていくのか───。



やがて銀時は考えを正す。
その考えが気に入らなくなる。
何度も堂々巡りだ。
自分の悪いクセだ。


それがただ単に時間を引き延ばしたいと願っている自分なのだと思ったから。
そう、だからこそ中心にとどまるのを、妨げられないのだと。
軽蔑を避けられないのだと。


そっと神楽の頬に触れたその指は愛撫ではなく、注意の喚起だった。
じっさいは抑制のきかない未知の力に操られている。
見知らぬ男の欲望が、自分の欲望よりも“尊敬”に値することになるなど受け入れられない。
どうしても。
どうしてもだ。
軽蔑されたっていい。
誰にも渡したくない。


銀時は神楽の冷たいくちびるにそっと触れた。
それはただ、そのことによって自分の仮面を剥いだと知らせるためだった。











fin


※ノワール……フランス語で“黒”の意。






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09/19 16:48
[銀魂]




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