火刑台の上のジャンヌ・ダルク







おどおどした小娘みたいに走って逃げるわけにはいかない。


だがその一歩を踏み出すのにどれほど勇気がいったのか、銀時はかつてなく悪魔的に思えるこの瞬間に吐きそうになった。
歩調は緩慢になり、唯一の神楽を見ないようにする。
ぼんやりとした神楽は、ひとりなにもしないで赤い風船を手に、このうえなく無関心な様子で虚空を眺めている。
銀時など見えないのだ。
銀時の動揺に対して、どこか幸福そうな表情で虚空を眺めている。



こんな瞬間など望んでいなかった。
銀時は数歩しか離れていないところで神楽に呼びとめられる瞬間を待った。



差出人はなにも望まず、なにも求めず、なにも固執していなかった。
賢明にも自分自身の人格、生活、感情、欲望をうやむやにしていた。
相手は神楽についてしか書いていなかった。
誘惑でなく、賛美の手紙だった。



銀時は神楽が、洋服箪笥の棚のしたに恥じるように隠してある手紙の包みのことを考えると、どうしても我慢できなくなる。 
神楽がすることすべてを秘密の場所から窺っているわけではないが、これだって神楽が大切そうに仕舞うところを偶然見つけた不幸であり、なにを考えているのかわからない相手を思い描くと、平静ではいられなかった。
だいたい、書いてあるあの文字、内容、愛というものの言葉。
どう考えたって神楽と同年代の餓鬼が書くような代物じゃない。いい年した大人がどこぞの唄や詩の一節を引用して書いたものだろう。
銀時のような男からしたら、砂を吐きそうな甘い文句をつらつら重ね、けれど見ようによっては、大変ロマンチックで哲学的、おおいに神楽を観察したのか、おおげさでなく的を射ているものだとわかる。



『美しい、陶然とした野生の、宝石のような瞳。』



─────なんじゃそりゃ。



銀時は神楽がそのへんの男に飢えているじつに平凡な“女”だと、もっと悪い場合には、夢みている愛の記録をいちいち神聖な物として取っておく、愚かでロマンチックな“女”だと思いたくないのだ。


神楽は、神楽。
それ以上でも以下でもない。


のどかな路上で、銀時にはあいかわらず人通りのざわめきがきこえ、淫蕩などこぞの男の顔が見える。そんなイメージのなかをふらふら歩き、住んでいる通りに近づく。
すると前方25メートルほどの歩道に、神楽宛の手紙を書きそうな若い差出人が歩いてきた…。
神楽は飽きず無心に虚空を眺めている。赤い風船がふわふわ揺れている。
さっきから妙な動悸が治まらない。
自分の心臓が高鳴っている。


大人になると、赤くなるのを忘れてしまう。
だが銀時はいま、自殺したくなるような羞恥心が目覚め、それを学び直した。


わかっている。これじゃあまるで、銀時が手紙を見つけて我慢できずに読んだ直後に、その相手と神楽が出会うのを知っていたみたいだ。ふたりが出会うべくして出会う瞬間を知っていたみたいだ。
銀時は狼狽し、幼い少女に近づく不穏な影を、そのふしだらな正体を暴いてやろうと怖気づいた。
あの赤い風船だって誰にもらったかわかりゃしない。
すでにもらった相手がそうかもしれない。
あれは、待ち合わせのシルシか?
そんなことをするには礼儀正しすぎるし、都合よすぎる。
誰かも知らない怪しい男の妄想のアイドルになぞなられてたまるか。許してたまるか、そんなこと。


しばらくのあいだ、こんな自分の考えは辛く、はた迷惑なものに思えたが、これでもずいぶんと滑稽な名誉だ。


神楽にはまだ早い。
それだけ分かっていれば十分だ。
だが、神楽が銀時に隠し事をし、秘かに内緒にすることができるという確信を得られたいま、今回のように銀時を自分の人生から遠ざけたのと同じ冷淡さで、いずれ銀時から遠ざかるだろう。


なんとも不思議なくらい快活なこの冷淡さに、自分はずっと怯えていくのか──。
いまの銀時にはわかる、この怯えは虫の知らせだったのだと。


銀時は体の内部に膨張する波が立ちのぼるのを感じ、ぐらぐらとした。
もはや全身が赤くなったように感じて目の奥が痺れた。
神楽を自分が愛する唯一の存在にしているのは、銀時の自己満足な秘密などではない。
神楽が恥ずかしそうにあんな私的な事柄を隠すのも、それが個人的なものだからではなく、逆に嘆かわしいほどなんとも非個人的なものだからだ。
神楽が自分の性に属し、他の女たちに似ていて、男たちからチヤホヤされ、モテはやされ、愛されることを、どうして恨んだりできるのか?
まるで銀時自身が永遠に男性的なものの愚劣さに属していないとでもいうように。
そんなことは互いに許しあうべきではないのか。
引き出しに隠している卑小なみすぼらしさなど、無視すべきではないのか。
銀時はかぎりない無念に捕らえられ、この展開に終止符を打つために何も気づかない神楽の横を通り過ぎた。
前方25メートルほどから来ていた男は、とうに神楽の横も銀時の横も通り過ぎている。まったくの関係ない他人だった。
でも本当にそうか? わからない…。
なんだかもう自分があまりにも不安定で銀時は哂い出したくなる。
果たしてこの瞬間、神楽は最後まで本当に気づかないのか。
銀時の存在に、この背に、この気配に気づかないのか。
ならもう迷ってられないと思った。
神楽の関心を惹くためなら───。







あらゆる可能性の廃止。
たとえそれが幸福な減少だとしても。
銀時の人生のたった一つの可能性への減少は、神楽にほかならないからだ。











fin
哀れな魂がわずかの場所しか占めていない身体。


なんかこれも寵姫系ぽいですかも。






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09/18 00:09
[銀魂]




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