うろつく愛の爆弾







よくいわれることだが、ものごとはスローモーションでは起こらない。
ものごとは人々が知ったり理解したりするよりもずっと早いスピードで起こる。
スローモーションで起こるのは、のちの記憶の中の出来事だ。
記憶の中では、ものごとは驚くほど鮮明で、その場で記録できそうにない点までずっと細かく物語ることができる───。







短気な男に手を引かれたふてぶてしい小娘が、赤い風船を手離してしまったのを高杉は眺めていた。
どんどん高く蒼空の天井、その中へ舞いあがってゆく。
まるで一滴の血が大空の排水孔の中に消えていくようだった。


何をそんなにあの男が怒っているのか知らないが、世の中の奴が誰しもお前のためにやさしく囁いてくれたりしないんだぜ、と高杉は片手を懐に入れて、赤い風船の様子を見送った。


一台のパトカーがスピードをゆるめながら寄ってきて、あのふたりの様子をうかがっていたが、何もしないで走り去った。
男に一晩か二晩、留置場で過ごさせてやった方がいいんじゃないのかと、高杉はどこかまんじりともせず、漠然とめずらしく男のために考えてやったが(実際すこし嗤いを押さえるのに苦労した)、どうせ脛に傷をもつ元犯罪者だ、自分と同類の。旧知の男のいまの惨状を見てやはり辟易とした。
少女を家に連れ帰ったら、ひょっとしたら斧で首をちょん切るとか、男が飽きるまでニ、三年は屋根裏部屋に閉じ込められるのではとか、あれこれ妄想をたくましくできた。


高杉は一瞬、ほんの一瞬だが、少女のなけなしの無垢をわが物にしたいという気持ちが湧いたが、同時に、そうしたあどけなさを憎んでいるような男──腐れ縁の面を見たので、何とも冷酷な気持ちになる。
銀時の様子からは飄々とした鷹揚さが消えていた。落ち着けよみっともない、己を見失ってるのかと。
自分だったら適当に弄んでその時がきたら、トンずらして娘は適当に処分するだろうなと思うが、あの男が求めているのはそういうものじゃないんだろう。
欲しいものを手に入れ、それが本当に欲しいものなのかどうかを問えばいいだけだ。


自分たちは喪失の人生ともいうべきものを歩んでいるのだ。
もし喪失が男のこれからの人生にもつきまとうなら、それを理解できないということは、人生を生きにくくするはずだ。
それを理解しようとすることだけでも危険な作業であり、生死の問題でさえあったが、もし懸命に理解しようとした結果、そうした喪失が無意味だとわかったとしたら、まったくもって俺たちは救われないサガだよな。



後日、かなり後になってから高杉は、運命的にも少女に“無事”出くわすことができた。
少女はあの頃より少し成長していた。
まだ子供だが、とんでもない事になったもんだ。と彼は内心舌を巻いた。
本性はじゃじゃ馬姫のままか知れないが、外見だけ見ると、一見、天女かと見紛うほど神秘的で、鮮烈で凄絶、優美な気品さえ備わった顔になってきていた。体もあと少しで大人だ。むしろその青さがまた…。
高杉はいま少女が生きて自由に外を歩けているのが酷く不思議な気分だった。
これを野放しにして自由(もしくは地獄だ)を与えているのかと思うと、銀時は何をやっているんだとあまり宜しくない鬱屈が生まれてくる。そんな自分に躊躇った。
雨が小止みになっても、少女は傘をささずしばらくぐずぐずしているようだった。雨の中を走らずに、両手を後ろ手に結んでゆったりと、通りを渡ってやってきた。右も左も見なかった。万が一トラックが通ったら、簡単に轢き殺されていただろう。だが、少女にはそんなことを気にする気配などなかった。
高杉は少女を食い入るように見ながら背後から声をかけた。




「───アイツ、お前に何かするのか?」



少女は振り返ってポカンとしたが、驚くほど青い色をした目には、些か心痛が現われていた。
少女はじりっと不動ともいえる動作で傘を持ちなおしたが、目はまっすぐ前を見据えていた。高杉は胸の中で嘯いた。
この目がイケナイわけか。


「銀時は、お前に何かするのか?」


高杉はもう一度言い直した。


「どういう意味アルか?」


彼女は相手をじっくり観察して、狂気の程度を推し量り、近くにいても大丈夫かどうか考えているようだ。


「手荒いことをするのかってことだ」
「……痛い目に遭ったことはないアル」


少女は冷静に言った。


「怖い思いをしたことは?」
「……ときどきネ」
「そんなことさせちゃダメだよなァ」


実際、高杉のほうが神楽にいま怖い思いをさせているのだが。ただし、そのことを神楽は言わなかった。
雨がまた強くなってきた。高杉は編み笠をかぶっているが、神楽はそのままずぶ濡れになっている。
すぐ傍に茶屋があり、なんとなく高杉が目を向ける。
少女の食いしん坊の体が、許すかぎりのスピードで状況を的確に判断しようとしている。


「もし、よかったらよォ──」


高杉は誘拐犯のような声で言ったつもりはなかったが、神楽は辛うじてそのザラリとした声質を捉えることができた。


「オゴってやるよ何でも」
「いらない」
「食事はできるか?」


店の奥にいたオヤジに訊いた。これまた辛うじて聞こえるような掠れた声だった。


「団子と茶しかねーよ、兄さん」


神楽の顔馴染みの店らしく、少女を見知っていた店主が高杉を胡散臭そうに注視してきた。
後でこりゃあ銀時にバレそうだなァ、と厄介な気分のほうが上回ってくる。


「ハンバーガーがいいヨ」


と、神楽が告げた。


「ねーよ、うち団子屋」


妙な雰囲気を払拭するべくオヤジにじゃーなと手を振って、少女は歩き出す。
灰色の街並みのなかを、真っ赤なチャイナドレスの爆弾がひるがえる。
高杉はそれをぼんやりと見送ってしまった。
あの時、空に赤い風船を見送ったように───。


スローモーションのように当時の記憶が走馬灯で甦ってきた。赤い風船は血のように空に吸い込まれたが、その最後を見届けたわけじゃなかった。
あれは所詮どこまでも自由には飛んでいけないのだ。途中で力づきて、天を彷徨った挙句また地に舞い戻ってくる。
運が良ければ途中で爆ぜてしまうかもしれない。けれど運が悪ければ、地の者たちに踏みつけられる運命だ。
そしてあの時いた、あのパトカー。通りすがりは偶然ではなかったように、銀時はまるで追いかけてくる頭のイカれた少女の男友達を撒こうとしているかのようだった。
風船を追っていてあまり気にとめてなかったが、パトカーが変則的にハンドルを切るのに高杉は気づいた。
銀時は神楽がその男友達のために、真夜中にそっと玄関のカギをあけてやるとでも思い込んでいるかのようだ。
男は今もあの脆さのままなんだろうか。高杉はそう思って安心しようとした。
だが少女は、すでに男のモノだった。
たぶんどこもかしこも余すところなく可哀がられている。
それも酷く。憐れなほど執拗に。
そういう女の匂いがした。
ある意味被虐的なといってもいい。
可愛がられ過ぎて死んでしまうペットのような、腐ってしまう植物のような、そういう危険極まりない妖しさの権化だ。
全身から銀時の気配が揺らめき立ってくるような、凄絶な思念を彼女の背後に感じた。
よもや男の背後霊でも憑いてるのかと疑うほど、神楽からは色濃く銀時の悪臭が漂っている。
神楽は痛い目に遭ったことはないと言った。けれど怖い思いはときどきしているらしい。
最初に見たときの、あの熱い青い目の奥のほうから放たれた僅かな苦痛のおかげで、銀時がどんな想いで神楽を手にして、どんな想いで今いるのかと思うと、高杉は奇妙なほどの胸の痛みを覚えて息苦しくなった。
しかしこれは銀時に対してのものではなく、少女に対してのものだ。


高杉は嗤った。
今度こそ声を出して嗤った。
人々の軽蔑と敵意だけが、この自分のアンチクライマックス的な静けさを今は掻き乱すようだった。




うろつく愛の爆弾
(アンチロマンに食傷し)










fin



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01/31 18:24
[銀魂]




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