朝顔ヘブンリーブルー







八月に入ると蒸されるような暑い日が続いて、神楽はぐったりと、弱っていた。
そんなある日、沖田が、また万事屋を訪問した。銀時の都合を問い合わせて来た沖田の電話を、新八から聴いた神楽は、


「サドが?」


と言った。いつもの神楽とは違うむっとした声だ。
神楽は現在では、銀時と自分とが入っている愛情の密室、その敬虔で甘い部屋をたしかに、探りあてている。神楽と銀時との間にあるものは、疑似親子のような、父親と娘との間の親しみであって、そこに危険があるはずはない。だが何かの、不思議なものがあって、その何かが、銀時と神楽との親愛の中に微かに危険の苦みを添加している。その微かな苦みの中に、在るとも、無いとも、わからぬ混沌の中に、陶酔がある。その現実には無いはずの危険が、あるかも知れぬように思われる、意識の狭間に、陶酔がある。
神楽は銀時のように、そこまでは、わかっていない。
だが神楽は、銀時と自分との親愛が封じこめられている甘い敬虔な壺をどこかで探りあてていて、その壺に触ったような気がしている。
その壺に毒を入れようと目論む外敵には、神楽は不機嫌になるのだ。
「サドが?」と言った時、神楽の眼が、異様に光るのを新八は見た。新八の胸にも大抵厄介事をもってくる沖田への、警戒の念が、奥深いところで音をたてているようである。
新八は忙しげに居間を出入りして、扇風機をかけ、テーブルを拭いたりしている。
銀時は沖田が、神楽に嫌われているのを知った上で、ちょっかいをかけ続け、万事屋への訪問も定期的に計画を立てて企てていることも、何となく判っている心持がある。
沖田は銀時を、憎たらしい神楽の保護者だとは思うものの、畏れのようなものを抱かざるを得ない男だと、思っているのだ。沖田ですら、銀時には尊敬を抱かざるを得ない。
銀時は今年二十八歳になる。いつもの白い着流しを着て、涼しげに書物机の椅子に座っている。その後ろに、神楽が纏わりつくように肩にかじりついて、銀時に甘えている。
そんな、少し前に、沖田がやってきたのだ。
暑さ見舞いの挨拶が済んで、仕事の依頼の話も済ませると、沖田はソファに座ったまま、新八が運んできた麦茶をごくごくと飲んだ。
そうして世間話にと、去年気まぐれに埋めた西瓜の種が、今年屯所で花を咲かせて小さな実がなった話から、坂田家でも神楽が育てはじめた、朝顔の話になった。


「全くの素人だが……それでも花は毎朝開くんだよなぁ。 種の袋にあったのと花の色が違うとか、神楽ちゃんは言ってるけど」


銀時はそう言って楽しげに笑った。
銀時は、神楽がこの前の仕事で怪我をした銀時を、歓ばせようとして種を撒き、どうやら朝顔を咲かせたことには、言い知れぬ歓びを覚えているのだ。沖田も、声を出して笑った。


「朝顔は、近藤さんも好きな花ですねィ」
「ゴリラのくせに、風情がわかるアルね」
「メスゴリラのお前に言われたくねーよw」
「あぁん!?」
「こらこら、喧嘩しなぁい」


銀時が、彼を護るように肩に張りつく神楽をぽんぽんと後ろ手でたたいて、なだめている。
沖田はそれをじっと見ていたが、不意につまらなそうに顔をそむけた。


(相変わらず旦那になついてやがるな、このチャイナ娘は……)


心の中でそんなことを呟きながら、テーブルの上に置かれていたシャーロック・ホームズの本にふと目を止めた。そうして手を伸ばす。が、神楽がそれに気づいて、「触るなヨ!」と飛びかかってきた。


「お前のかよ、これ」
「そうアル。夏休みだから、読書してるアル。凄いダロ」
「なんも凄くねーけど? むしろ、字読めるのかよ、お前」
「読めるモン! 銀ちゃんに難しい字は教えてもらうけど、めっちゃすらすら読めるアル」
「じゃあ読んでみろよ、いま」
「嫌アル。お前に聴かせるような言葉は無いネ」


沖田が取り返した本を片手に、神楽はまた銀時のもとに戻っていく。


「けっ……」


沖田は神楽の言い分を疑わしそうに一蹴して、意地悪そうに笑った。
神楽は銀時が、


『何か面白いと思うものでいいから、本を読んでみな。夏休みの宿題みたいなもんだ。読書感想文を書いて、銀さんに教えてよ』


と言ったのを守って、図書館の書棚から手当たり次第に易しそうなものを引き抜いたのが偶然、ホームズで、ひどく興味を持ち、押入れ中で何か読むときには本はきまってホームズであった。
神楽はよく、銀時の膝に凭れかかって絵入りの小説類や、外国の大辞典を拡げて、説明をせがんだ。銀時は小さな神楽が、無気味な絵を見つける度に説明をせがむのに興味を持ち、肉をせがむ小動物に肉片を投げ与えるようにして、神楽が飽くことなく要求する、自分からの愛情の肉片と一緒にそんな小説の話、絵の説明をも、与えていたのだ。
険悪なムードになった二人をよそに、お土産のゼリーと、冷えた西瓜を運んできた新八が、雰囲気を和ませてきた。


「西瓜じゃねーか。タイミングがいいねェ」
「さっき話してたの聞こえたもんで…」
「梅のゼリーは私のもんアル!」
「じゃあ、俺は葡萄のゼリーをもらおうかな」


沖田が持ってきたお土産のゼリーを、真っ先にかっぱらう神楽と銀時に笑って、新八が「沖田さんはどれにします?」と聞いてくる。箱に入ったぜリーの種類は何種類かあって、全部果物のゼリーだ。沖田は自分は遠慮して、和やかな雰囲気に戻ったのを愉しんだ。
気に入りの薄紅色の木綿のチャイナドレスの神楽が、沖田が入って来るなり「銀ちゃん」と言って、肘掛椅子に掛けた銀時の後ろに廻って肩に飛びついた様子に、耐えられぬほどの嫉妬を覚えた以外には、沖田は万事屋への訪問をうっそりと歓ばしく思っているのである。
神楽が後ろから飛びついた時、銀時が、低く俯けた顔で微笑い、神楽の掌を後ろ手に軽く叩いた様子にはそれとないたしなめがあって、その二人の姿には妬心に胸を刺された沖田も、清潔な画面を感じぬわけにはいかなかった。
その銀時の様子には、どこか恋人とも見まごう、一種の気配がありながら、沖田に嫉妬の心を恥じさせるほどの綺麗な、保護者と娘との楽し気な馴れ合いが、あったのだ。だが、それだからといって、沖田の妬心が消え去ったのではない。沖田の嫉妬を最も刺激したのは銀時が瞬間、上半身を前に伏せて、深く顔を俯けて微笑ったことである。銀時の顔は殆ど影になっていて、ひどく粋にみえた微笑いが辛くも見てとれた。その様子が二人の画面を秘密ありげにした。神楽の掌を、触れたか触れぬかのように叩いた掌にも、沖田は憎悪を感ずるほどの愛情が見えた。神楽はしばらく銀時に纏わりついていたが、新八が西瓜を運んでくると離れた。だが、銀時もソファに移動してきたのだ。嬉しそうに神楽が銀時の隣に座り、ひっついている。
神楽は、銀時が食べている葡萄のゼリーを一口欲しそうにしていて、それを「あーん」と口に入れてもらいたい欲望を抑えられない。それを知りすぎているはずの銀時の顔には、それを知っているということの、微かな影さえもない。時おり、神楽への愛情に充ち溢れた微笑いをあてるが、その度に銀時は、唇を膨らませ、じっと自分を見ている神楽の眼に行き会って、微かに微笑う。銀時は自分と神楽との甘い敬虔な部屋を、神楽よりも先に探りあてていて、神楽より深いところで、的確にその情緒を突きとめ、現実とあるはずのないものとの微妙な狭間を、現実とある感覚との間にある魔を、余裕の微笑いの底で噛みしめている男である。だが銀時は、沖田の前では、神楽に一口与える餌付けは控えようと思ったのだ。銀時は可哀くてならない神楽の不満な顔を見るたびにほとほと、困り果てていた。
銀時は神楽が近寄って来て、あーんと口を開きかねないのを見て抑えたことが、沖田を刺激したことにも気付いていた。
不満を唇に膨らませて、あらぬところを見ながらゼリーをしゃぶるように食べる神楽の耳に、銀時の静かな声が入った。


「……とりあえず依頼は承知した。明日から調べてみるけど、あんまり期待はするなよ?」
「わかってまさァ。今回のホシはちょっと厄介なんでねィ」


沖田がようやく腰を上げると、神楽がぱっと顔を明るくして、銀時に凭れかかった。


「チャイナは、甘えただねィ」
「うっさいネ。早く帰れヨ」
「へぇへぇ。言われずとも帰りまさァ。お見送りはいいんで」


沖田は神楽の、銀時に今日は一段と甘える様子を見てからというもの、妬心の獣を抑えかねていたが、淡々とお別れの挨拶をした。
神楽は、ゼリーに夢中な風で、沖田の気配を探っていたが、ふと眼を伏せて微笑った。ようやくいなくなった化け物に、気分を回復させた神楽の様子を見た銀時も、かすかに笑っている。
神楽が再び眼を上げた時、銀時が神楽を見た。


「相変わらず、沖田くんが嫌いだなぁ?」


銀時の笑いは揶揄いを帯びている。新八の、神楽を仕方ない子だと見る眼が、同時に向けられている。神楽の青い眼が銀時を見て、新八に移った。


「新八も、あんま好きじゃないくせに……」
「えー…、僕は別に……」


苦笑う新八にぷいっと顔を背けるが、銀時がそんな神楽の頭をなでなでと撫でてくるので、神楽は頬をすり寄せた。
沖田が夏の風のように爽やかに現れ、辞して行った後では神楽も、自分を無為に苦しめる心をほとんど、鎮めてはいた。






fin


more
08/20 13:36
[銀魂]




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