誰そ彼、鴉の黙示







あの春の宵以来、銀時は『鯉の館』と呼ばれるこの廓の酒席を訪れるたび、小さな花魁に何かしら小さな贈り物を携えて行くようになった。
それは糖蜜飴よりは数段上等な洋菓子だったり、目についた野の花だったりもした。何度か絹で作った装飾品を持って行ったときなどは、神楽はそれをまだ一人前の自分がもらうに不相応だと固辞したが(姐太夫への遠慮もあったろう)、そんな困惑の表情もただ愛らしく映った。
高価なものを贈られることが遊女の誉れだと考える者も多くいるなかで、幼い神楽は高価なものは嬉しくなかった。それが取りも直さず、金銭の介在無くしては逢うことが叶わない自分たちを象徴するようで、悲しかったのだ。こんな幼い神楽の気持ちにまで銀時は気づかなかった。
いつしか、月に何度か通ううち、季節は巡っていった。
半年が過ぎ。一年が過ぎ。そうしてまたたくまに風に冬の気配を感じる頃だ、ある晩、銀時が訪ねてみれば神楽の顔色が優れない。


「神楽、どこか具合が悪いのか?」


銀時の言葉にこの美しい少女は何でもないように首を振る。が、きょうはいつもと違い、いちだんと着飾った艶姿をとらされていた。
また言葉少なく、ただ静かに銀時の傍らに座り姐太夫が来るまでの酌をする。小柄な神楽が一回り小さく思えて、銀時は不安になった。


「熱があるんじゃねーか?」
「いいえ、わっちに熱など……」


そう答える神楽が、ふっと顔に浮かべる憂いの表情に、銀時は落ち着かない。どこか遠くへ行ってしまうのではないかと思えるほど、儚げで……銀時はそっと神楽の顎を上げ、優しいくちづけをした。
その紅玉の唇が熱かった。頬にかかる吐息は熱を孕み、握りしめた細く頼りない指先は氷のように冷たかった。
唇を離しても銀時は神楽を離すことができなかった。腕に少女を抱いたまま、諭すようにそっと語りかける。


「やはり、熱があるな。休むわけにはいかないのか?」


銀時の言葉に禿といっても女郎は女郎、神楽は微笑むだけだ。そんな事が許されるはずがない。それにこの熱は……体調を崩しての事じゃない。神楽にはひとつ気がかりがあって、それは銀時を慕う心と相まって、熱となって彼女を蝕んでいる。
だが、その気がかりを銀時に言いだすことはできなかった。それだけは悲しすぎる……。
いずれこの男の耳にも入るだろうと、今はただこのまま瞳を閉じ、この腕に全身を預けていれば熱を孕んだこの身も癒されるかもしれない……。
だがそんな神楽の願いも一時のものでしかない。
扉をほとほとと叩いて、ひとりの小職が座敷に姿を現すと、神楽の耳元で一言二言囁いた。すると彼女はうなずいて、銀時に頭を下げ座敷を後にする。
太夫が相手にしていた客が一人終わり、次に新しい客でも来たんだろう。姐さん太夫がこの遊郭の看板でもあれば、その世話をする引込禿は待ち時間の客を相手にしなければならない。これは今まで何度も銀時が目にしたことだった。だが今日の神楽は病んでいる。何とか休ませてやりたいと銀時は思った。
太夫が来るまでの代わりにと、座敷に上がった小職に彼は尋ねた。


「あの仔の具合は、ずいぶん悪いのか?」


銀時の言葉に、その小職はほぅっとため息をついた。彼女は比較的神楽と仲がいいようだ。


「一昨日、あの話があってから一睡もしていないのでしょう。熱は今朝からございますが……たとえ横になろうとも気が鎮まらないのであれば、しようがありませぬ……」
「あの話?」


銀時の問いに小職は、知らなかったのかといわんばかりに目を丸くする。
その表情に銀時の不安はさらに募る。


「あの話とは何だ? 教えてくれ……」
「………」


小職が銀時の視線をはずして口を閉ざせば、銀時は詰め寄るようにして答えを促した。


「あの話とは何だと聞いている。あいつが一睡もできないほどのものなのか!?」


小職は再びため息をついた。


「あの仔が口にできぬことを、なぜ私から言えましょう」


それは道理だったが、それで引き下がるわけにはいかなかった。銀時は盃を卓に置くと身分も恥じず一礼した。
その真剣な銀時の表情に、小職は諦めたように微笑んだ。



「旦那さまも……神楽も……本来、酒席は似つかわしくございませんわね……とくにあの仔はあまりに初心で……。神楽の水揚げが決まったのです」
「水揚げ……」
「あの仔も年が明ければ十六になります。もう立派な新造です。今まで未通女(おぼこ)でいられたのは、引込禿としてあの仔を可愛がっていた太夫のおかげ。でもこのたび、さるお大臣が神楽と枕を交わしたいと言い出しまして、かなりの金子をつんだのでございます。見ての通りの珍しい美貌でございましょう? 旦那さまのように昔から目をかけて下さる殿方はたくさんございます」
「枕を交わす……」
「坂田様は来るたびに目をかけくださっても、そのご意志はないようですので、主人も腹を決めたのでしょう」
「枕を……かわ……す……」
「お忘れですか? ここは遊郭にございます。いかに幼くあろうとも、金子によっては早く春をひさぐこともございます」


その詰るような口調に、銀時は神楽がどこかに行ってしまうと思ったのは正しかったのだと知った。


「主人を呼んでくれ」


絞りだすような銀時の言葉に、小職の顔がぱっと輝く。


「それは…! …そうですか……。初めてが坂田様ならあの仔も報われましょう……。お待ち下さいませ!」





□■





神楽が銀時の待つ座敷に上がると、先ほどまでと部屋の様子は一変していた。酒肴を並べた卓は片付けられ、代わりに夜具が延べてある。
一瞬、神楽は部屋を間違えたのかと思った。


「銀ちゃん?」


いつの間にかそう呼ぶようになった気安さで。
そっと声をかければ、銀時は彼女に背を向けたまま窓辺に座り星を見上げ、囁いた。


「おまえを一晩買った」


その言葉に神楽は、胸を抉られるような気がした。幼くして買われた身だ、…いつか、こんな日が訪れるのではないだろうかと思ってはいた。
銀時が慕わしいだけに、望まなかったといえば嘘になる。だが、枕を交わすことはなくとも彼に対する自分の想いは真実で、銀時が自分を可愛がり嫌ってはいないことだけでも真実で、それでいいと、それで十分と、神楽は思っていた。
どこの誰かと枕を交わそうと、この思いに嘘偽りはなく、すべて覚悟を決めたつもりでいた。もちろん、それは神楽の理性がだした答えで、感情は理性に抗い熱となって幼い彼女を苦しめてはいるが、所詮は女郎という達観が神楽には身に染みている。


惚れるも地獄、惚れられるも地獄。
色がなければ生きていくのもまた地獄。


遊離に住まう遊女のほとんどがこれに倣い、これを肝に命じている。


しかしだからこそ、突然、なんの前触れもなく目にした銀時のこの変貌に戸惑い、裏切られたような気がしたのだった。


『おまえを一晩買った』


やはりこの男にとって自分は女郎。
女郎であることが覚悟を決めた理由ではあったが、女郎であることを銀時によって思い知らされるのは、それもまた苦痛だった。
あの春の宵からずっと……。そう…ずっと、純粋に慕う相手に逢えるだけで神楽は幸せだったから、そんな想いが裏切られたようで、何もいわずに帯を解いた。
肌着だけになり夜具の傍ら、裏切られた想いを抱きしめ座っていれば、熱に火照った身体に初冬の夜風が粟を立てる。
寒かった。
心が凍えるほど、寒かった。
いつまでこうしていればいいのかと、神楽が寒さとそれに相反する熱で気が遠くなりかけた時、銀時がそっと立ち上がった。
小さな丸い肩が怯えたようにびくっと揺れる。それに銀時も胸を抉られる。
彼女をなるべく怯えさせないように、ゆっくりと口を開いた。


「それで、いいのか?」


銀時の言葉の意味がわからず、熱に潤む瞳を上げれば、優しく自分を見おろす男がいた。


「横になっていろ」


いわれたまま夜具に身体を滑らせる。
神楽の胸に込み上げてくるのは涙だ。
なぜ、裏切られたと思うのか……だが、確かに悲しい涙だった。
顔を背け、夜具の中、嗚咽を堪え肩を震わしていると、銀時の動くのが気配でわかった。
なぜ、自分は女郎でしかないんだろう。金で買われることでしか、この人の側にいられない。そんな自分が哀れだった。
銀時の掌がそっと神楽の額に触れた。


「やっぱり熱があるんじゃねーか…。神楽は嘘つきだな」
「………?」
「なんでもないと言っていたが、こんなに熱があり、ひとりで怯えている。俺はそんなに頼りがいのない男か?」
「銀ちゃん……?」
「おしゃべりは明日にするぞ。 ほら、目ぇ閉じて眠っとけ」
「……銀ちゃん……?」


銀時の言葉に、自分の思い違いを知り……神楽は言葉を失った。それでも上掛けの端を引きあげたのは、確かめようという気持ちの表れだったろうか。
神楽が入るようにと引きあげた上掛けを優しくおさえ、銀時は幼い彼女が寒くないようにと夜具でその華奢な身体を包みこんでやった。


「ぎ…ぎんちゃんっ!」


宝石のような青い瞳に、堪えていた涙が一度に浮かぶ。
ひとり勝手に裏切られたと思った自分を恥じて、涙が浮かぶ。
この人は、わっちを好いてくださっている。
たとえ、女郎であろうと、この人はわちきを大事と想うていてくださる。
神楽はそれに泣いた。それは確かに幸せな涙だった。





□■





次に神楽が瞳を開けたとき、すでに東の空は白々と明けていた。
いつの間に寝入ってしまったのか、茫洋とした面持ちであたりを見渡せば、自分の傍らに銀時がいる。朱絹でできた褥を枕に軽い寝息を立てている。
この人はわっちの看病のため、初めて自分のとこに泊ってくれたのだと、再び神楽の胸が熱くなる。
昨晩あれほど流した涙とともに熱も去ったのか、気分は穏やかだった。自分が使っていた上掛けをそっと銀時に掛ければ、いとしさが神楽の全身を満たして行く。
ああ、こんなにもわっちはこの人が慕わしい。
この人に逢えたこの幸福を、なんと言葉にすればいいんだろう。そんな想いがまた涙となる。
銀時の乱れた前髪を指で梳けば、軽くうめきながら眠たげな眸がぱちっと開いた。自分を見上げるその眼差しに、神楽は微笑んで魅せた。泣きながら優しく微笑んで魅せた。


「まだ……泣いているのか?  どこか…痛むのか?」


いいえ、と首を振って見せると、銀時が身体を起こした。暖かい手のひらで神楽の小さな顔を包みこみ、心配そうに覗き込む。


「熱はないようだが、……。俺に上掛けはいらねーよ。野宿には馴れてるからな。まだ横になってるといい。俺は時刻になれば帰るから、気遣いは無用だ……」


自分の頬にある銀時の手を、神楽は上からそっとおさえて囁いた。


「抱いておくんなんし」


……………─────!!


「いずれ、誰かに抱かれることになるのなら、銀ちゃんに………」


それ以上は言葉にできない。凪いだ気持ちでそこまで言って、自分の言葉の意味にようやく気づき、初めて頬が熱くなる。


「神楽……」


銀時の視線が自分を刺すようで、上からおさえていた手を外し、羞恥に耳まで紅くして神楽は目を伏せた。その瞼に、銀時の唇がそっと触れた。
沁みゆく温もりが得がたいものに思えて、神楽は男の胸に身体を預けた。
幼い身体を銀時の熱が満たしていく。
それが幸せと、神楽はこの時思った。
その幸せが、一生続くなどと、神楽が知るにはまだあまりに幼かった。









fin


more
08/07 16:49
[銀魂]




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