入り江に追い込まれた人食い鮫







しばらくの間、抜き手を切って波の間に見え隠れしていた土方は、百メートルほど泳ぐと仰向けになって浮き、まだ夕闇の残影が、幾らか紅い色を残した灰色の重い空を仰いだ。
ここは、混雑した海を嫌う土方が、ようよう発見した外房州の海岸で、そこで土方は、真選組と一緒に海に来ていた。毎年夏になると、鍛錬もかねて休暇を取るという真選組特有の夏季合宿である。
そこに何故か、偶然、万事屋も志村家と共にやってきたのだ。当然、近藤は有頂天になるわ、隊士どもは浮かれるわで、今日一日に起きたあれやこれやの疲れがどっと押し寄せてきた土方は、リフレッシュも兼ねて遠泳していた。明日で最終日の合宿計画に、狂いが生じたことが少々悔やまれる。



抜き手を切って沖まで泳いで行った土方が、今度はゆっくりと、泳ぎ戻って来ると、小さく、遠く、砂浜の上に神楽が立っていた。一人だ。土方が手を挙げて合図をすると、こっちへ歩いてくる。土方はたちまち、全身に海の力をつけた男のようになった。


神楽はゆっくり歩いて来て、波打ち際の大分手前で立ち止まった。土方が海から上がって一歩、一歩、神楽に近づき、手を腰において見下ろすと、夕暮れになずむ魔のようなあやかしの纏う目が、土方を見あげている。
(この人を私は絡めとってやった)
そんな目だ。絡めとってやったと思っていて、それを相手が知らないと思っている、そんな目だ。その絡めとったというのが、はっきりした意識をもってやった、というよりも、本能に押されてやったというようなところがある。それがかえって重苦しい、迫る力になっている。思わず土方の掌が、神楽の肩を軽く捉まえようとした。


「万事屋は?」


誰かが来るのが気になりながら、土方は昂奮を抑えて、言った。


「帰る準備をしてるネ」
「もう帰るのか?」
「うん」


神楽は、銀時に手に持っていろと命じられた、水着のバッグを持って、もうチャイナドレスに着替えていた。
鮮やかな赤の大人びた三角ビキニを着た神楽は、男たちの目には猛毒な、まさに半獣神の女神のように、蠱惑的な生きものに見えた。その胸やら、腰やら、つんと上を向いた可憐な尻など、その成長具合に、思わず直視できず鼻血を出すなどした隊士も続出したぐらいだ。純白の花びらのような肌に、谷間ができた美しい胸元や、すでに処女地ではなくなった禁断の下肢を、ピュアレッドのビキニで隠し、薄紅色の髪をなびかせたまだ15歳の美少女──。
大人をイケナイ気分にするには十分だった。
だから今、神楽の着替えている薄いライム色のチャイナ風シースドレスが、土方の眼には、神楽の裸を自分の目から隠そうとする銀時の策略が着せたもののように思われた。銀時が、今日ずっと神楽から片時も離れず一緒にいて、付きっ切りで世話をし、どこに行くにも何をするにも、暑苦しい藻のように纏わり附いていたことも、土方には銀時が故意にしたことだと解るのだ。そうして、薄いライム色のチュールの下に、透いていた神楽の肩を、軽く抑えた土方の掌を、ゆるりと躱そうとした神楽の様子が、いま土方を酷く苛立たせた。


だが、土方はこれぐらいで自分を押さえられなくなる年齢ではない。
早朝と、夕方薄暗くなってからとの二度、海に飛び込んで、疲れるまで泳ぐ、という日課を自分に課してきた土方は、比較的冷静だったが、神楽といた、短い時間の、火のような記憶は時おり不意打ちに土方を襲った。


神楽の、まだ実ろうとしている固く熟れた、二つの胸の甘い果実……。蜜の艶をくり延べていた、神楽の皮膚。蜜を塗りつけた肩、腕、ウェスト。まだ何処かに、青い固さを残していて、そのためにかえって襲うようなもののあった、それらの神楽の断片。そうして、緻密な皮膚に、隙間なく覆われた腹から腰、二つの脚の、内部から持ち上がってくる、十六歳未満のようでそうは思えない、男を知ったふてぶてしい禁断の肉づき──。それらには、全て銀時の匂いがべったりと染みついているのだ。どこを切り取っても、銀時の執念のような気狂いの恋情や、白濁の残滓が染みついている。そしてその銀時は、まるで花粉に埋もれたように始終うっとりとしている。…否、銀時だけではない。今日、この浜辺にいたすべての男が、紅い百合の、いいようのない、物憂い香気の中で、花弁のような皮膚に目を奪われ、魔力の花粉に塗れた、数十匹の蜂であった。しかも神楽の無防備な肢体は、むしろ、ふてぶてしく体を投げ出した、成熟した女の媚態に通ずるものがあった。だが土方は、目も眩むような美少女の体の饗宴の後、無心の媚態に抗って、何度か燃え上がるものを抑えたのだ。それが土方の火の記憶を、一層苦しいものにしている。
土方は、花の香気と蜜とに覆われた追憶に、精神も体も熱くなったまま、野獣のように光る目を据え、ほっと、切ない息を吐いた。



「……婚約したんだってな」


神楽が少しきょとんとして瞠目した。


「おめでとう」


土方の突拍子もない無機質な言い方に、神楽はどうしたらいいのか少し困った様子で、黙ってこくんと頷いた。
婚約してからというもの、すでに数週間は経つが、こうやって誰かにお祝いを言われたのは初めての事だったからだ。…といより、婚約という“既成事実”を、どうやら神楽は認識していなかったらしく、今日この浜辺にいた皆の反応に一番ビックリしたのも神楽だった。
土方は、今日一日にあったことを思い起こし、苦い想いで神楽の瞳を苦しげに見つめた。
今日一日、色々あった中で、新八がサラリと口を滑らせた一言は、ある意味、阿鼻叫喚の一大事件だった。姉の妙さえ知らなかった事実に、静かな海は一時大いに錯乱に陥った。未成年の神楽に対する犯罪じゃないのかと、ノンポリの隊士でさえ銀時を血祭りにあげてやろうかと決起したほどだ。顔面蒼白の新八に、妙は怒り狂い、近藤はそんな妙を宥め、隊士の数人は鬱状態になり、数人は泣き暮れ、他は怒り狂うかお祝いムードだったが、そんな中で沖田と土方の物言わぬ沈黙は突出して恐怖だった。銀時が妙にボコボコにされるのを黙って見ているだけの二人には、なかなかの迫力があった。沖田にいたっては、人を寄せ付けない殺気が駄々洩れだったが、そんなことももう遠い昔のように思える。
神楽は土方をじっと見つめて、まだ少し困ったように口をもごもごしている。


(お前は、ほんとにそれでいいのか?)


直前まで出かかった言葉を土方が飲み込んだとき、遠くから声がした。





「神楽!」


銀時が少し離れた岸辺の道路から走ってくるのに気付いて、神楽は振り向いた。目を離したすきにこれだ、と呆れて怒っているのかもしれない。
妙と海へ出た神楽は、妙が帰り支度の忘れ物がないか見に行った後、ひとり残って、波の被るところまで歩いて戯れていた。銀時が新八とシャワーに行ったのを見ていたからだ。銀時に言われて、妙がすぐに引き返してくるに違いないので、波を被るのは二、三回で諦めて、泡立ちながら、脚に戯れる波際を、未練そうにバチャ、バチャやりながら上がって行った時、土方が遠くで泳いでいるのに気付いた。
黒い海水パンツ一つの青年は、広々とした海と舌灰色の砂を後ろに、西洋の絵で見る裸の兵隊のように浮き出して見えた。紅みを帯びて陽に灼けた、組んでいるらしい逞しい腕は、もしその腕で捕らえられでもしたら、骨まで響くのではないかと思われるようだ。
土方は急ぐでもなくまっすぐに歩いて来る。そうして顔が見えるほど近づくと、優しい微笑いを浮べた。だが、少し苦しげでもある。神楽は肩に置かれそうになった暑苦しい手を思わず拒んだ。
その、土方にもう一度振り返ると、彼はもう神楽に背を向けていた。
土方は一度神楽を振り返ると、手を高く挙げた。神楽はじっとそれを見ると、駆けてきた銀時に肩を抱かれて、顎の向きを強引に変えられた。少し力が入りすぎたのか、痛い、とむっとする神楽に、銀時が火のような眼を当てて睨んでくる。それをじっと見返して、神楽はまたむっつりと唇を膨らませ、銀時の強引なキスを受け入れた。
土方は神楽たちの後姿が小さくなったのを見ると、勢いよく海に飛び込み、水煙を立てて波に乗って泳いでいった。


唇までもっていった甘い果実を、横から来て奪われたような気が、土方はしていた。神楽は土方にとってすでに蜜をたっぷり含んだ、甘い果実に違いなかった。


土方は波を被ってぬれた顔を片手で撫で下ろし、再び今度はゆっくりと、岸へ向かって泳ぎ始めた。
空は灰を吹きつけたように薄暗い。空一面に横に靡いた薄白い雲が、湧き出たままの形でじっと、動かずにいる。海はその下に重く、動いていた。暗い海は土方の火をいよいよ掻き立てる。砂の上に蹲っていた、沖田だとわかっている男が、土方の頭に浮かびあがった。その逞しい体と、蹲った体全体に燻っていた、恋の火と哀しみ……。そうして、銀時の顔が浮かび上がってくる。駆け寄ってくる間にも、土方はその銀時の顔に怒りとは別の、不思議な微笑いを視たのだ。
(また、土方くんを苦しめて)
と、そう言っているような、神楽への甘い愛情と、揶揄の混じり合った微笑いである。どこか残酷な、底にエロティックなものの影さえあった、蜜に塗れた微笑いである。その二つの黒い記憶が、払い除けようとしても執拗に、神楽といた時間の、切ないが甘美な記憶の中に絡みついてくるのだ。その二人の男は今、どこにいようと、神楽を激しく想っている。神楽はその二人の男の、一方だけに、魔の目をじっとさせて見上げ、甘え切っているのだ。時に、絡みつきもするだろう。土方の胸に朦朧とした不快な幻が見えてくる。


(あれは正常な恋人ではない。あれに、結婚生活が送れるはずがない……)


土方は殆ど全く、理性を失っていた。理性はどこかで蓋をされていて、目を醒ますことが無い。土方は知らずに、銀時が醸し出していた一種の空気に巻き込まれている。
暗い海岸に立って、土方は、どこにも救いようのない自分を感じた。









fin


more
06/18 17:46
[銀魂]




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