三月うさぎのメルヘンチック・アワー







午前9時の螺旋階段。


万事屋には一階から二階へ続く少し長めの階段がある。
玄関を出てポーチを歩き、はじめの階段を数段下りた中ほどにある──踊り場。
そこは日中でも少し翳っていて、実にひっそりとした神楽のお気に入りの場所でもある。
螺旋階段ならもう少し雰囲気が出そうなものだが、それはそれ、改築し直せなんてさすがの神楽もワガママは言えない。
なんにせよ曲がっているかどうかなんてどうでもいいのだ。
要は、大切なのは仄かな翳りを含むかどうか。
それは、彼女が闇に愛された夜兎の習性だからではなく、秘密めいたものを愛する年頃の少女ならではの、センシティブだった。




Alice in Wonderland




太陽が空を跨いでいるにもかかわらず、まだ気温が昇りきらない午前9時。
その時刻にある階段の踊り場は、春夏秋冬、一際明るい闇に支配されているようで、神楽をどことなく『アリス』にさせる。
ぼぉーと座っているだけで、禁じられた遊びにふける小人のような背徳感にゾクゾクしてしまう。
周囲と同じ色に染まる早朝や深夜、夕方には決して味わえない感覚だった。
明るい中の仄かな昏さが、少女の中の魔物を刺戟するのだ。
その仄かな暗がりに身を置くとき、神楽はふと、自分にじっと見入る眼の存在を思い出さずにはいられない。
死んだ魚のような眼がうっすらと弛む瞬間や、怖いほどギラギラぬめる瞬間。
漆黒の鋭い眼が、キーンと張りつめる瞬間や、ふと逸らされる瞬間。
トンボ玉のような眼が不安定に揺れる瞬間や、熱く凍りつく瞬間。
さらには昏い隻眼が、ゆっくり眇められる瞬間や、澱むように滲みを増す瞬間。
その他、ややタレぎみの眼が蕩けるように笑う瞬間や、眼鏡の奥がキラリと光る瞬間。四角やら丸のサンングラス越しに見える眼が、神楽を見つめながら遠くを見るような畏れをなすような瞬間。振り乱す長い髪の隙間から見える眼が例えようもなく優しく朽ちる瞬間。まだ稚い年若い眼がじっとじっと自分に囚われる瞬間。獣じみた眼が蚯蚓腫れのように赤く濁る瞬間、───などなど。


そんな自分に向けられた様々な眼を、神楽はこの明るく暗い冷たい水の中のちいさな太陽のような軽薄の淵で、不意に思い出すのだ。
座っているだけで相手を絡めとるような雰囲気を犯しながら、無意識に。無防備に。
そうしてつかの間、幸福で罪のない空想に酔いしれた神楽は、階段をまた上にあがって行くが、半ばまで登ったとき、ふと、自分にじっと見入る銀時の目が暗やみの中に浮かんだ。
同時に階段の中途の暗やみが幽かに濃さを増して、空気が重くなった。それは神楽の予感である。
銀時が居なくなるかも知れないと思った神楽の頭に、彼の目と、この家の中の気配とが見えた。
神楽はどうしてかわからないが、最近の銀時と一緒にいるには、この家の中だけでなくてはならないと思っている。二人だけでなくてはならないと、思っている。二人が一緒にいることは、二人だけのもので、それは秘密のものだと、神楽はどこかで思っているのだ。
何か知りようもないが恐怖めいたものが走って、神楽は急いで階段を登り詰め、俄かに重く湿ったポーチを走った。
玄関に入ると、節電に部屋は明かりを消していて、外より暗かった。新八が居間の社長机の上に背を屈めて、紙切れを手に持って熱心に見入っている。椅子の銀時が鉛筆で紙の上に書いた字を辿っている。


「こっちは明日でいっか。酒蔵の仕事は俺らの十八番だな。コレは、ぱっつぁんだけで大丈夫か?」
「──はい。じゃあ行って来ます」


神楽はじっと立って、それを見ていた。
新八が急いで出て行くと、銀時は椅子の背に寄りかかって神楽を見た。


「神楽ちゃんは大人しくお留守番だからね」


神楽は電話の受話器ごしに自分を見つめている銀時を見ると、その肩に飛びついていった。


「銀ちゃん。外の階段より家のが暗いヨ」


銀時は受話器をおき、しっかりと自分に捉まる神楽の首に頬を寄せて、窓の暗い空に目をやっている神楽の肩のあたりを、後ろ手で軽くさすった。その手は離されることはなく、じっとりと熱くなってゆく。


「新八は?」
「買い物ついでにこの前の依頼人のアフターケア」
「何かあったアルか」
「いや、見積もりよこせっていうから持たせただけ」
「ふーん」


神楽はべつに、銀時が本当に居なくなるとはっきり思ったわけではない。
けれど結果的に的中した予感は、神楽を一転して満足させた。
子供は好意に敏感である。神楽の深奥にも、そんな、自分を愛しているとわかる相手さえ見れば、その愛情を喰いたがる肉の獣──煮ても焼いても喰えないうさぎ──がいて、それが時々何かしらの欲望を起こしている。
それが階段の暗がりで浮かんだ銀時の眼と、ある種の幻の神楽の予感の現れだった。
自分にじっと見入る眼の存在。
銀時のそれはいささか暑苦しい。
でも二人きりの時にさらにそうなる銀時に、神楽はどこかイケナイ気分で、もっともっと見つめていてほしいとも思う。
男を虜にするという本当の罪も知らず、神楽はもっとそれを味わってみたい。
だが欲望の向こうには恐怖があった。ふとした予感に慄いたように、神楽は銀時が父や兄とは違うことを知っている。そうしてそれがどう違うかということも、朧気にわかっていた。
彼氏騒動で生意気なくちをきいた巨人族の元彼に教わった、『親愛』という言葉、愛の一種は、たぶん間違っているのかもしれない。
銀時はうっそりとした微笑いを浮べている。どことなく神楽の頭の中のカラクリの動きをすべて見ているような、そんな眼差しで神楽を熱心に見つめてくる。彼独特の、神楽だけの、暑苦しいものの燻る微笑いだ。銀時はもしかしたら、神楽より今の神楽の心情が手に取るように解るのだろうか。


「なーに、神楽ちゃん」


紅黒い銀時の目が幽かに濃さを増す。


「あしたは?」


踊り場の昏さと重なるようにして、それは二人の時間に浮かびあがってきた。


「うん?」
「あしたはいつ、帰るアル?」


神楽はいつものように銀時の膝に座るよう抱き上げられそうになったが、するりと逃げて机の上に座ってみた。
後ろ手にぴょんと乗っかり、お行儀悪く、けれど怒られないことは確信している。どこかでうずりと挑戦的で、秘密のある目で、彼を見おろした。


「夕方には、帰って来れんじゃね」


銀時は気を悪くした様子はなかった。
神楽は彼の前で膝に両肘をついて、その横顔を覗き見るようにしながらうなずく。甘えの中に、やっぱり銀時に秘密を持ったような気がしている。


「数日は大丈夫か? 昼飯はババアに言っとくからよ。寂しかったらそのまま店にいて待ってろな」


いつもは神楽の肩や背中に置いてじっとしている銀時の掌が、今日はちいさな膝小僧に伸びてきた。
一瞬、ぞわりと鳥肌が立ったように感じた。
撫でまわすようにしばらく、神楽の丸みを堪能して動きを止めてから、銀時はまたうっすらと微笑って神楽に見入った。
外より暗い部屋の中で、ミルク色をした神楽の足首が、いいようのない光沢を見せて汗ばんでいた。











fin


more
08/21 02:02
[銀魂]




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