サランボーの潤んだ炎 -1-








「なんだよ?」



銀時は机から顔を上げ、壁の時計を見た。
午後十時二十四分。風呂から上がって、今日夕方に入った調査仕事をしはじめて一時間弱になる。先ほどまで、方々にかけていた電話をようやく一段落させて、今は依頼主の要求どおり、苦手な報告書に詳しい経過を書き連ねていた。
その傍に、もう寝たとばかり思っていた神楽が近づいてきたのだ。浅い半袖のミルキーオレンジに小花が咲いたチャイナ風パジャマに着替えている。
銀時はいつもの一張羅を脱いだジャージ姿だった。風呂から上がってもパジャマでなくズボンをはいてベルトを締めると、腹に気合が入った気がする。
報告書は今日中には仕上げてしまうつもりだ。珍しく仕事が立て続けに入っているので、溜めないように気をつけている。期限より早く終わればそれにこしたことはない。


「何…?」


ふたたび銀時は言った。左手には今日の昼に調査内容を書きとめた、開いたメモを持っている。右手にはエンピツを持っていた。


「頑張ってる銀ちゃんに、エールを送りにきたアル」


椅子の背に両手をつき、神楽は肩越しに机を覗き込んだ。面白みのない調査内容だと知ると、首をすくめる仕草をした。
神楽はまだ少し日本語が苦手だ。ペラペラと、それこそ流暢な毒舌口調で喋りはするが、新聞で難解な漢字を見つけては逐一、銀時や新八に教えを請うている。江戸に来て万事屋に転がりこんできた頃は、書き取りも苦手だったので、ひらがな・カタカナが書けるようになるまで二人が練習を見てやったりもした。今もときどき、新八が寺子屋で習った教科書を携えて教師の真似事みたいなことをしている。


「あー、どうも。送ってくれた? ならもういいわ」
「あらら、ずいぶんな言い方してくれるアルナ〜」


人形のような硝子めいた大きな碧い眼で、神楽が睨んでくる。つややかな淡い桃色の唇も、湯上りのせいかちょっぴり膨らんでしまっている。
銀時が風呂から上がってじき神楽も風呂に入ったはずだが、背中まで伸びたピーチブロッサムの髪はさらさらとしていた。かきあげた前髪が割れ、まあるい額を見せている。
眉は薄い桃色でやさしい弧を描き、鼻は高すぎず低すぎず美しさの見本のように愛くるしい。それもこれもすべてが西洋人形のようだ。けっして銀時の欲目ではなく…。


「ずいぶんて…、じゃあ、どんな言い方すればいいんだよ」


銀時はメモに顔を落とし、調査書の続きにかかった。


「エールだけでなく、銀ちゃんに甘いものあげようと思って」


肩におおいかぶさるようにして神楽は言った。ほんわりとした温もりが漂う。共同で使っている石鹸やシャンプー、お湯の匂いのほかに、物憂い甘さも感じとれる。それはいつしか……そう、いつからか、神楽から漂ってくることに、銀時が気づいた───彼女特有の香りだった。籠もるような稚さをどこかに残しながら、日に日に、熟していく果実のような神楽の体からは、植物性の香料のような香りが立ちあがってくる。銀時は子共の頃、六月の中旬に咲く清らかなミルク色の、しかし中奥に向けて濃い紅を艶放つ野生の百合の花を、片田舎の山中で摘んだことがあったが、その時に感じとった物憂いような香気が、神楽の体が近づいた時などにふと感ずることが多くなった。まるで、あの永遠の夏に舞い戻っていくような、それにちかい少年のような気持ちで、思い出に酷似した神楽の香気の青さを吸い込む。それは、植物性のもので清潔な香気なのだが、纏わるような粘着性は執拗で、神楽の皮膚の上に微かではあるが燻らしたように迷っている。
無邪気なのか、わざとか、ミルク色の百合の香りが立つ、赤子のように緻密な肉を押しつけて、神楽は銀時の首筋に両腕を絡ませていった。


「甘いもの、欲しくないアルカ?」


甘い香りのなか、甘いものに目がない銀時は、浮き足立つというよりはやや困惑ぎみに訊ねた。


「甘いものって何」


平静を装った声は思ったよりも上ずった。
そのことに舌打ちしたい気分になる。


「桜餅がいいアルカ? それともイチゴチョコ?」
「……イチゴチョコ…かな、やっぱ。つか俺の隠してたチョコ食ったろお前」
「ほんと、チョコレート好きアルナ」
「この世でチョコレートを発明した人を、俺ぁ神様だと思うね」
「私は酢昆布を発明した人を天才だと思うアル」


お互いクスっと笑い合う。


「で?」


いくぶんリラックスした銀時は顔を上げて振り向いた。神楽は、手には何も持っていない。パジャマの胸ポケットを見るも、何も入っていないようだ。小ぶりな乳房はゆるやかな山を描き、ポケットを押し上げている。変なところを見たと思われそうで、銀時はすぐに目を戻した。


「おまえ……甘いもんくれるっつっといて、なんも持ってねーじゃん」
「持ってるヨ、ほら…」


神楽は肩にすがるようにして、左側から顔を回してきた。


「ちょ…っ!」


やめろよという素振りで銀時は顔を右に逃がしたが、神楽は銀時の顔をかかえ、自分のほうに向けさせると、はぁ―っと息を吐きかけた。
甘いチョコレートの香りのような息がした。


「ネ?」






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05/02 17:47
[銀魂]




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