花咲く母の吸盤








すでに幾らか、“女”の魔をひそめ始めた神楽は、どうかすると、無意識のように拳にした指先を唇にあてていたり、ソファの背に凭れかかったりしながら、表情のはっきりしない魔の目を、じっと、銀時にあてていることがある。
傍に人がいるような時によくやる。それも別な女が、銀時との間にいるような時だ。


また、神楽は上目遣いに目を白くして、銀時を横から視ることもある。たとえば青いソファーに、隣にきた新八と並んでかけていて、仕事をもってきた依頼人と真向いに座り、事務机に座った銀時が、依頼人に話しかけているような時だ。
依頼人にものを言いながら見ていると、新八から少し体を離して、足を組み、手のひらで膝小僧の上の辺りを、捉まるようにしながら、横から新八を視て、また銀時を視る。
その神楽の目は、大して意識してやるのではないらしいが、なかなか強かなものだ。茫洋とした目の中に、


“どの人より、自分の方が、大事にされてるんだ”


というような自信が潜んでいる。その自信が、立ちこめた雲の後ろにある月の光のように、潜んで居座っている。神楽は、銀時と話している依頼人を全く除外して、銀時に愛情の強請をしているのだ。銀時の胸の底に、抑えることの出来ない溺愛の情が滲み出る。そうして銀時は、女を二人傍において遊んでいるような錯覚に陥るのだった。



「それで、どういった要件?」


銀時が聞くと、依頼人の猿飛あやめは、どこか落ち着かない様子で、神楽の不動の目と、正反対の居心地が悪そうな目をして気圧されたように押し黙っている。
その時、神楽がふざけて、あやめの顔を覗くようにするので、銀時が、一応客なんだからと、


「客にむかって、そんなことはするな」


と微笑いを潜めた厳しい目を向けた。すると神楽はそれを止め、今度は白い長靴下(日焼け防止のために履かせている)の片脚を折り曲げ、一方の脚を投げ出してソファの奥に沈みこむように座り、上目遣いに二人を視ている。
銀時は、一通り依頼を聞き、段取りをつけて新八と相談してから、明日から仕事にとりかかることを告げて彼女を帰した。
あやめは気の弱い女でもないのだが、始終神楽を気にして遠慮して喋ってるようだった。
客が帰ったあと、銀時がソファーに座ると、神楽は不機嫌ではないが不当な様子で銀時にもたれかかってくる。
銀時はまんざらでもなく、あやめに気の毒なことをしたと思うと同時に、神楽が彼女にやったことはいけないと思った。一応、依頼は真剣なものだ。他の女性客にも仕出かしたら商売あがったりである。これは言ってきかせてやらなくてはならない。そう思った銀時は、多少の優越心からも、肩にもたれかかっている神楽の、艶のある髪をやさしく撫でてやりながら言った。


「お客様に、失礼な態度をとったらダメだろ?」


神楽が甘えるように首を振って、「客じゃないもん、さっちゃんだもん」と銀時の手のひらを払いのける。
いつものように片頬を腕にすりつけるようにうつつに聴いていた神楽は、頬にかけた銀時の指先に、今までにないほど力が入っているのに愕くと同時に、銀時の自分を視る目の中に、今までに見たことのない、厳しい色が潜んでいるのを見た。長い睫毛が音をたてそうに、目を二つ三つ瞬き、赤いリップクリームの塗った唇を泣こうとする直前のように歪めて、神楽は銀時の目に見入った。見間違えではないか、と思っているような目だ。母犬の腹に鼻をすりつけて乳首を探す仔犬のような、目だ。銀時が、哀れでならないのを抑えて、厳しい色を消さずにいるのを知らぬ神楽は、汗ばんだ手のひらで銀時の手のひらを押しのけ、愕きと、わけのわからない昂奮とで紅潮した顔で立ち上がった。少しの間そうやって、立っていたが、泣く寸前の顔で銀時を一目じっと視ると、背を向け、部屋を駆け出して行った。
最後に自分を視た神楽の、子供のような泣きそうな顔の中に疑惑と、飼い主に鞭打たれた仔犬のような、哀しみを視た銀時は、覚悟していた以上の寂しさに襲われた。大切なものが、掌の中から抜け出ていくような気がする。神楽の後を追いたいのを、銀時はようよう堪えた。追いかけて行って、神楽を許してやり、甘い言葉のかぎりを尽くして抱き締めてやりたい。殆ど恋の情熱のような愚かしい心を抑え、銀時はソファーにうつぶせになった。













神楽は走って玄関を出て、残夏の残るまだ9月の暑い外の公園に駆けて行った。
ちょうど黒い隊服の男が缶コーヒーを片手に休憩していたらしく、


「マヨ!」


上着を脱いで汗をぬぐっていた土方は、涙で濡れた顔で走って来る神楽を見ると驚いて、手を止めた。が、
手早く口元で吸いかけの煙草の火を消し、ベンチから立ち上がると、大きな掌で首を一つ二つぬぐうと神楽の傍に立った。


「どうした…。チャイナ娘」


神楽の泣きながら、きれぎれに言う言葉の中に、「ぎんちゃんが」と言うのを聴きとると土方は、がっくりとベンチに腰を下ろし、やれやれとうなだれた。
隊服のポケットから白いハンカチを出して、神楽に渡した。それをいやいやと拒むので、土方はとまどったあと、少ししてから少女の涙をそれで優しく抑えた。
神楽のただならぬ哀しみを見て、土方ははじめから原因が沖田や同年代の友達のことではないと思っていた。神楽の唇から、「銀ちゃんが」という言葉が洩れるのを聞いて、銀時が何か神楽を怒らせたのか、逆に銀時が神楽を怒ったり、神楽のしたことについて窘めたのだろう。それが神楽の大きな愕きだったのだろう。そう見当をつけた土方は、神楽の背を、大切なもののようにポンと抑えて、ベンチに腰をかけるよう促すと、自分はそこにしゃがんで、しばらくの間泣き止むのを待った。
神楽は耐えられぬ哀しみがこみ上げるらしく、小さな子供がするように啜り上げ、泣きじゃくりながら、労わるように看ている土方の目を、何ごとかを訴えるように見入るのだ。紅くなった顔が涙に濡れ、ぷっくりとした赤い唇が、睫毛に光る真珠の涙が、なんとも言えぬほど可哀らしい。少女に出逢って、神楽を見守る関係が度々あるようになってから、数年の中ではじめて、自分の目の中に見入って泣く神楽を見た土方は、熱いもので胸がいっぱいになり、たちまち全身が赤くなるのを覚えた。全身に滾るようなものを懸命に抑え、土方は神楽の落ちつくのを待った。
泣きじゃくりが幾らかおさまった神楽は、熱い、大きく開けた眸を訴えるように土方に向けると、きれぎれに話し始めた。
神楽の長い睫毛の、涙に濡れた大きな目が、この世に土方より他に縋るものがない、というように自分の目を覗きこんでくる。土方は自分にはどんなことにでも哀れみの聖杯を与えてくれるものと神楽は確信しているらしく、その欲しい慰めの甘い蜜を探すようにするのを、昂奮の中に見た土方は、広い、肉の厚い胸の中に、渾身の愛情が集まるのを覚え、その煮えるような塊を懸命に抑えて神楽を見た。
土方は神楽の肩を抑え、熱い、濡れた哀れみを、自分の目から神楽の目へ伝えようとするようにして言った。勿論、言葉は選びに選んでだ。


「アイツが、お前をどんなにか大事にしてるか、知ってるだろう?
……それでも、お前に悪いところがあれば、それを直して、ちゃんとしようとするのも、アイツの務めだ。」


ただ、ちょっとイジメたくなっただけかもしれないが、銀時は基本的に神楽を野放しにはしていない。
蜜のようにドロドロに甘やかしてはいるが、駄目はものは駄目だと言い聞かすぐらいはする。…今回のそれが本当に駄目なラインだったかは定かではないが。神楽の幼い甘え(嫉妬)に嗜虐的な精根が刺激されたのかもしれない。
神楽は、銀時が厳しくしたので少し昂奮してしまったのだ。いつもは銀時のほうがあやめに対する態度が酷いのに、神楽が少し専横な態度をとると、「お客さんだから」と窘めた。銀時が神楽を可愛く思わなくなったなどありえない。銀時はいつでも、神楽が可愛くてならないのだから……。


「……アイツはいつでも、お前が可愛くてならないんだ」


土方はこの言葉の終わりの、可愛くてならない、という箇所を、我にもなく声が震えるのを覚えて、言葉を切った。胸の中に熱い息を吐き、土方は肩の手を放し、艶やかな神楽の髪を苦しげに、そっと撫でた。
土方の熱い言葉は、神楽の胸に充分に伝わったようだ。
神楽は土方の目を凝視し、しばらく黙っていた。そうして、思い出したようにしゃくりあげた。
土方はそんな神楽に、再び熱くなった胸の動悸を抑えた。
神楽は土方を見ていたが、不意に立ち上がり、銀時のもとへ帰ろうとして、二、三歩歩くと、後戻りをした。


「トシ。トシはいい奴ね」


神楽は、いつの頃からか感じとっていた、土方の中にある熱い心に、掌で触ったような、満ち足りた心の中で、安心な、熱い雰囲気のなかで、そんな中に包まれていながら、ふと不安を感じたのだ。だが神楽はその不安と一緒に、今までの土方に感じていたものよりも熱い、濃い蜜のような愛情を受けとった。それは重い、心の中に重く落ちた、愛情である。土方の愛情は重くて、そうして熱かった。銀時と変わらぬ重さであるように思えた。この土方との場面も、長い間神楽の記憶に残っていく。神楽は後になって、


(あの時、トシは私にキスしたかったんだ)


と、想った。






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07/16 18:54
[銀魂]




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