縄底靴をはいた死







沖田は、今の生活の気楽ですっきりしたところが気に入っていた。
長い孤独な時間の静けさを破るのは、ときたま家の裏手の坂道をうねうねと下ってくる伐採搬出トラックのゴトン,ゴトンというこだま、岩の多い細流を走る水が絶え間なく風をそよぐような音、それに鳥や秋の羽虫、小動物くらいなものだった。
二匹の小さなシマリスは、落ち着いたすばやい動作で裏手にある木の洞穴に巣をつくる。ツグミやシジュウカラは彼が縁側に座るたびフルートのような声をたてて飛び去り、まだらに陽の差す木蔭に消えていく。野ウサギが一匹、さっき彼が台所で湯を沸かしているあいだに、道路の向こうのそのまた向こう、裏山へと続くあぜ道に出てきて、川上のほうへ移動する。
沖田は六年間、仲間達とともに江戸で一緒に暮らしていたが、今はひとりだった。
毎朝、家の東に見える山間を越して太陽が昇ってくると、彼は静寂の中を起きだして、ゆるい坂道を途中まで登り、下りはゆっくりと歩いて戻ってくる。茜色の山の太陽が胸をじりじりと焦がす。涼しく暗い木陰にさしかかれば、過去の冬、これからやってくる冬を思い出させる冷たさが、待ち構えていて彼の顔に触れる。
生まれてこのかた、家事や料理とはほとんど無縁だった男が、この短い休暇のあいだは出来る限りのことは自分でした。そして、そんな折は、姉のこと、師匠のこと、幼い頃に稽古に勤しんだ道場のこと、そして近藤と土方、姉とともに皆で連れ立って歩いた夕方のあぜ道を、旧式の料理用コンロの中で灯る炎とともに思い出した。
だが、斜めに差し込む陽を浴びて、ぼんやり縁側に腰をおろし、甘ったるいコーヒーで体を休めるとき、考えるのはきまってある娘のことだった。
確かに…、砂糖を入れたコーヒーを飲むのは一年半ぶりだ。一緒に暮らしている銀髪の男同様、苦いものを舌に浸すとピリピリしていやになるという娘の言い分を、「まだまだガキだねェ」などと笑い続けた日々。どうしてあんなふうになったのだろうと、今になって沖田は思う。
──一年。
志とともに仲間たちとここを去ってから六年、娘と出会ってから約一年だ。沖田はひとりで江戸を離れ、今またひとりで戻っている。


ここに帰ってきたのは、江戸でつつがなく終えたお葬式の後、姉の遺骸を持って故郷に帰り、父母の墓の下に埋葬してやるためだった。そしてそれは昨日、ここで姉が御世話になっていた人や、近所の人たち、それから近藤の家族と一緒に、最後の別れを終えて厳かに完遂した。後は、この家の今後にかかわる遠い親戚との詳細な打ち合わせと、こまごまとした片付けだけで、数日したら江戸に戻ることになっている。
片づけはそつなくこなしていった。
そして、たいてい日が沈めば、川を渡り、盆地を抜け、レンターした車で数キロ先にある酒場まで、曲がりくねった道を下った。すぐ近くの飲み屋で過ごす気にはなれなかったからだ。知り合いに出くわして、最後になるだろうここでの時間を、邪魔されるのは遠慮したかった。
長い距離をゆっくり進んでいくと、通り道に現れる野ウサギの目がヘッドライトの中で赤く光る。それからほどよく灯がともり、煙の立ちこめる店にたどり着く。同年代の若者達で込み合うテーブル席を抜け、黄色の輪の中に黒い文字の『生ビール』のネオンサインも通り越してカウンターの奥へ…。二日酔いを警戒してゆっくり飲んだ。
自分らしくない。かつて十六歳の頃、近藤たちに付き従い夜の歓楽街を渡り歩き、日本酒を升に十杯も二十杯も流し込んでは、「何かどれも、ただの甘い水って感じですねィ」と酒も女の味もわからず強がっていた、あの頃の沖田とは変わってしまった。昨日など焼酎だけを一杯ちびちびやって、近くに座っていた水商売の女から輪切りのレモンをひとつ失敬したり、ビールを最後に一本おごってもらったりもした。
暗い家への長い帰り道、沖田はその一本を大事に抱えていった。
手の中で温まっていくビールを飲むためというより話し相手で、すでに一つの軌道に乗り、降りることのない自分の人生は最終的にどこへ行き着くのか、たかだか十九歳でどうしてこうも老け込んだ気がするのか、なんでウサギの目は赤く光るのか、などと訊いたり、昔を思い出したり、あれこれ考えたりしているうちに眠りが訪れ、夢と現実との隔たりを狭めてくれた。そして床に就くとぐっすり眠った。川の流れの一定した音、冷たい夜の空気、月にかかっては離れていく流れ雲が眠りを保証してくれた。ただ初めの夜だけは静寂の中でいつまでも眠りにつけず、そのまま朝を迎えてしまったが。


というわけで、今、沖田の久しぶりの帰郷はあと数十時間を残し、まったく変化なく、柵の支柱なみに規則正しく過ぎていった。明日の夕方になったらここを出発し、そしてたぶん、生きてるうちは二度と戻ってくることもないだろう。自分はもうここを捨てた人間だ。うずめるべき人生は、あの騒々しくも退屈する暇のない、混沌とした世界の中にある。

今日はもう朝のうちに、近藤の祖父、沖田にとっては剣の師匠である彼にも挨拶を済ませておいた。高齢な彼だが、今も道場経営を続けているらしい。ほとんど道楽だが、それでも近所の寺子屋の子供たちが何人かは通っているそうだ。
ここを発つ数日前、彼から言われた言葉を今でも思い出す時がある。あの頃、十五歳になったばかりの沖田は、はじめて自らが下した一つの決断に、その責任を見据えることの重さを知ったばかりだった。姉を残し、仲間達とともに行くことを決めたのだ。彼女が惚れていた男がそうであったように。沖田もまたたったひとりの姉を一緒に連れて行くことを拒んだ。拒んだというより、言い訳がましいことは何ひとつ言わず最後まで笑顔で送り出そうとしてくれようとする姉に、けじめとして伝えるべき別れの申告だった。けれどそれを伝える前に一度だけ、あの楽しくも明るい師匠から気遣われた、老獪な言葉があった。


「若いうちはひとりぼっちでいるのもかまわないが、だんだん年を取るとそいつにはハラワタを抉られることがある。小熊を取り戻そうとする雌熊の爪にかかるより、もっと辛いもんだ」


その辛さを知っている人間がいるとすれば、それは師匠に他ならないだろうと沖田は思った。そして姉に伝えるべき言葉に迷いはなかった。姉はまだ若かった。自分で決めた自分の人生を踏み出すことにも、迷いはなかった。それがたとえ、姉との距離をさらに開く、修羅の道だとしても。


そんなことも含めて色々思い出しながら、いま一度、家の中を最後とばかりに歩き回りながら、あらゆるものにひとつひとつ丁寧に触れ、部屋から部屋へと目と指で記憶の探検をした。姉と過ごした十五年の歳月が静かに心を打った。
台所に戻り、コーヒーの湯を沸かしながらぼんやり窓の外を見ていると、また遠くに草を食むウサギを見つけた。狙うように指をピンと伸ばすと、あいつを捕らえるのを最後まで我慢していられるだろうか、と考えた。
この前……兎肉を味わったのは何年前だろう。幼い頃は、近くのスーパーでも飼育用の兎の肉が売られていて、姉がよく調理してくれた。柔らかい肉を一晩牛乳に漬け、衣をつけて揚げたり、パテをつくったり(兎のパテは最高だ)。江戸にきては一度も食べた記憶はないけれど。
そういえば一度、その兎を食べていたという話を、少女にしてやったことがある。ちょうど少女の暮らす男の家に、くそデカい犬がもらわれてきた頃のことだ。少女は白いデカ犬に夢中で、ほとんど毎日、ずうずうしくも朝から夕方まで公園に入りびたりだったので、一般人が怖がるだろと注意すると屯所にやってきた。
縁側で出前に取ったカツ丼を食べながら、同じく縁側で犬と戯れる少女を見つめつつ沖田が、子供のころこうやって揚げた兎肉を食べたものだと思い出話を聞かせると、彼女はデカ犬の尻尾にくるくると指先を絡ませる動作を一瞬とめ、相手の胸をかきむしるような声で尋ねた。


「嘘いうなヨ。あんな可愛い生きもの食べるなんて、出来ないアル」


いや、「しないアル」と言ったっけか…。
まぁどちらにせよ、少女が否定を求めたのは沖田にではなく、彼と同じく出前をとったカツ丼を──しかしながら【土方スペシャル】と称する犬のクソ以下に変化させてズルズルかきこんでいた男にだった。


「おいマヨ、サド野郎がまた気分悪いこと言うネ!」


兎とは似ても似つかないデカ犬をきゅっと胸に抱きしめて、沖田からさらに距離を取った少女が、それこそ兎のようにピョンと男へ詰め寄る。


「私、昔飼ってたウサギ死なせちゃったことあるけど、食べるなんてそんなの絶っ対ムリだったヨ」


兎に食用のものがあるとは知らないのか、そんな少女の言い分に、男は困ったように箸を置いた。それ以前に可愛がってたペットなんだから食べるなんて論外、外道、無理にきまってんだろという沖田の指摘は、彼女にはきれいに無視されたけれど…。


「世の中には、俺たちみたいなまっずい人間を食うエイリアンもいるくらいだしな」
「エイリアンに可愛い人間と可愛くない人間の区別はつかないアル」
「……。まぁ…そうだな」


納得するべきところには納得して苦笑う男に、少女は「それに、知ってるアルカ?」とデカ犬を撫でながら続けた。


「白い動物は神聖だから、食べたら絶対、祟られるのヨ?」
「世の中のウサギが全部まっ白なわけじゃねーだろぃ」


ここで沖田が割り込むと、夜兎にとってはウサギはぜんぶ神聖アル、などと甘えたことをぬかす。
だが、土方の次の問いの少女の答えに、この話の幕は下りた。


「誰から聞いたんだ?」
「パピー ヨ。共食いはいけないって」
「………。」
「………。」


あまり深く意味は考えないようにした。







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01/21 18:39
[銀魂]




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