マーラーの美しいアダージェットの戦慄








昼も夜も、歓びにも悲しみにも
もはや自由をうしなっている心は
いいあらわしえぬ愛を抱きながら
君のために、黙しながら傷むほかはない

───バイロン
















風呂場から銀時に抱きかかえられるようにして、和室にもどってきた神楽は、まだ籠もるようなむっとした性臭の、淫らで卑猥な空気に顔をしかめた。


この中でまた寝るのかと思うと、なんだか疲れがとれる気がしなくて、押し入れに戻っていいかと無駄な抵抗で聞いた神楽に、銀時があてた目は、やはり有無をいわせぬほど静かで、昏かった。
死んだ魚の目のような奥がぬらりと光り、唇がふたたび嗜虐の色を纏って戦慄くのを見た神楽は、じっとりとあきらめた。


「も… しないでネ」
「──ああ」


銀時が約束してくれてほっとする。
精液やら愛液がこびりついたシーツは部屋の隅に追いやられ、新しいシーツに寝転ぶと、銀時がすかさず神楽を腕まくらして自分にべったりと引き寄せた。いっときも離してもらえない暑苦しさに、むうっと身を捩じる。


蔵された部屋の内側で、色濃く残る淫行のあとで、銀時はそんな神楽の花のような香りを感じとって目を閉じた。丁寧に洗ってやったいま現在の神楽もそうだが、霧のような汗をかいてうねり、皮膚の下から蒸しだされるものをふんだんに濃くした神楽の残滓を辿っていく。
濁った部屋にまんべんなく滴る神楽のアロマ。
銀時を挑発して止まない──神楽から蒸されるものの匂いは、白い花弁のような肌に、普段から燻る清らかな蜜のようなものに加え、果実のような酸味が加わっていて、それが今もしぶとく銀時を襲いつづけている。
すでに、それは香気といっていいほどだった。
香水などつけていない神楽に、どうしてこれほど重く、清新な、ひどくいい匂いがするのかわからない。
わからないが、人工的なものがいっさいない、天然の香気は、男の欲望を駆り立てる重苦しい気品さえあった。
普段のとんちんかんな神楽の気品に、所謂、猛烈に凄みを増す魔物めいたエッセンスが、まださらに育ってきている。
生来の魔、といった、神楽だからとしかいいようがないソレ。
風呂の中でも、嗜虐的といってもいい残虐に駆りたてられて神楽をひぃひぃ言わせた銀時だが、銀時の理性はどこかで酩酊状態になっていて、その残虐には危ういところで刃止めがなされていた。嗄れ嗄れの神楽の吐息にも手を弛めない、残虐な愛撫は、この重苦しい香気でいつも救われているような気がする。と、銀時は信じている。
もっと酷くしてやりたい、もっと手荒にしてやりたい。
滅茶苦茶にして可哀がって愛してると口走って好きだと言ってくれと乞う。
泣きながら好きだと言わされる神楽に満足して、また残虐を繰り返す。
あらがえない圧迫のようなものにあって以来、銀時は目が眩んだようになって、抑えようにも抑えられない疼きをもてあましてきた。




「神楽ちゃん」


腕枕のうえの湿った薄紅色の髪に鼻をおしつけ、銀時は苦しげにつぶやいた。


今日の狂気に限らない。


こんな香りを普段から振り撒くようになったらたまったもんじゃない。
銀時だけのものとして閉じ籠めておきたいのに、神楽の白い魔のような肌は、一年前とはまた違った、押し迫ってくるほどの艶と品格を濃くしている。
チャイナドレスからスラリと伸びた美しい四肢は、見惚れるというより、男の目には毒で、息苦しくなるほどだった。
暑苦しくて眠れないのか、神楽が不逞なものをこびりつかせて先ほどからむずむずしている。
この神楽の意識しているとも、無意識ともはっきりとしない媚びも、おおよそ銀時を白痴にさせた。
咽喉もとに突き上げてくる熱い塊のようなものを銀時は嚥み込んだ。


いつか、自分が何かしでかしそうで怖い。


取り返しのつかないことをしそうで……。




「──かぐら、眠れねーの?」


眠れないなら仕方ないと銀時が哂うと、神楽がきゅっとこわばる気配がした。
うつむいた繊い頤を大きな掌で掬いとって、神楽の咽喉に伸びた銀時の指が、根元を抑えつけようとするように見えたが、それはすぐに外され、あごと頬をゆったりと撫であげた。


「銀さんも、眠れないかも」


神楽の顔を自分の方にひき向ける。口は歪んで開いたまま、怯えた目をした神楽の顔は、唇が妙に膨らんでいる。異様に可哀いのだ。
オレンジ色の淡い豆電球のなか、花のようなかんばせを見つめて、銀時はうっとりした。
本当に綺麗だなあと酔ったように思う。
この世ならざる修羅の美貌。
天女のような女だと思う。


「もっかいしてい……?」
「……いやネ」
「疲れたら眠れるかもよ」
「もうくたくたネ」
「じゃあ、早く寝なさい」


俺がどうにかなってしまうまえに。


「だって、暑苦しいんだモン。銀ちゃんたまには離れてヨ」
「いやだ」
「うぅ…もう眠い」
「じゃあ、寝れるように一回イカしてあげるから」
「いやネ」


神楽のあごが銀時の掌の中で、むくむくと動いた。半身を起こしかけた銀時が言った。


「まだ起き上がれねえだろ?」


あごがまた動いた。目がいつもの神楽の目とは遠く、うっとりしたような曇りを出して銀時を見上げている。
惑溺か、愛憎か、自分でもわからないものが燃え上がる。


「俺はおまえが可愛くてしかたねーんだ」


真顔でささやいて、銀時は抑えきれないキスをした。
ゆっくりと唇を合わせただけだったが、神楽が本当に嫌そうに声を荒げた。


「やだっていってるデショ!」


懸命に身を起こし、膨らんだ白桃のような二つの乳房を美しく揺らして銀時を振り払おうとする。
魔のような甘えと癇癪が一体になっていて、いっそ残酷な言葉で、銀時を傷つけてしまいかねない神楽だったが、飛び立たせまいと起き上がりざま銀時が神楽の肩口を掴もうとして、小突いた。
中心を失った神楽の体がふらりと前へのめって、畳の上に頬を強く打ちつけ、あっけなくくず折れた。
ぎょっとして神楽を抱き上げ、布団に横たえると銀時は、両手に神楽の小さな頭を挟み顔を覗きこんだ。銀時の掌の中でがくりと、美しい顔が俯向いた。神楽は呆然と、唇は弛んで、全く勢いを失くしている。両腕はぐったりと折って投げ出されている。傷は皮膚が擦れているが、わずかで大したことはない。よかった、と銀時はひとまずホッとした。だが、すぐにうなだれた。
セックスで屈服させ、嗜虐的な快楽で擒にするのとは訳がちがう。
身の底から震え上がるような失態に体がわななく。
神楽に嫌われたら生きていけない。


「ごめん、かぐら、」


あまりに素直に銀時があやまるから神楽が思わず目を見張る。
眉が顰まって、ぷっくりした唇は、細かな前歯をわずかに覗かせて開けている。


「銀さん、ちょっと頭冷やしてくるわ……」


本当に反省して意気消沈して小さくなる銀時に、神楽はなんだか──、もういいやと思った。
疲れきっていたけれど、くったりと銀時の首に両腕をまわしやさしく抱き寄せる。



「あいしてるヨ、銀ちゃん」



なんだろう、なんでこんな馬鹿なことに、毎日毎日平然と明け暮れてるんだろう。
コントかよ、と若干さめてる神楽は思う。
愛の言葉が自分で言ってしらじらしく思えてきた神楽だったが、銀時がほっと嬉しそうにしているので良しとする。
銀時を前にすると、神楽は自分が途方もなく強大な力をもった魔法使いかなにかになった気がしてくる。
どんな我がままでも許される絶対的な王君になったような気がしてくる。
神楽が幼い頃から持っている、肉食獣の一方的な、残忍な欲望が刺激される。もっと確かめたい。もっと困らせたい。銀時を、どうしようもなく、自分に溺れさせてやりたい。その自分の確かめた幸福を、手で捉まえて、貪り食いたい。神楽の欲望は無限に膨らんでいる…──。
周囲がいうには、銀時は神楽に骨抜き状態のようだ。
もともと年頃の少女を囲って青田買いしている札付き男、といった変な噂はあったが、やっぱりなと。
自分の何がそこまで男を惹きつけるのかわからないが、周囲の人間には銀時はどこか憐みの対象ですらあるようだった。
神楽に関しては、もっと色物じみた視線が目についた。
道化となった男にキチガイのように愛される娘。
一見無垢そのままの、半分、獣(魔)のような娘だったが、時に壊れそうな危なさがあり、真っ逆さまに地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあるのか、その一生を正視するに堪えないような気にさせられるのだ。
妙な事件を起こさなければいいが、と実際周囲もやきもきしているが、当人たちはいたっておおむね平穏でらぶらぶだと信じていたかった。


「銀ちゃん、ドメスティックバイオレンス」


ふくく、と笑った神楽に、銀時がなさけなく少女の頬を包みこむ。
少しだけ赤くなっていた擦り傷は、もうすっかり治っていた。


「こういうのは無しだ、俺がむり」
「…こういうのじゃなかったら有りアルか」
「つかワザとじゃねーし」
「うん」
「お前のこと愛してる」
「──うん」


銀時の様子にいくらか安心したのだろう、神楽の目は自らも心得のない、媚びの艶を出してじっと銀時にあてられている。
ふと香気が強く、薫った。
銀時の目がぬらりと光り、緩んでいた唇がふたたび嗜虐の色を纏って持ちあがる。
神楽は体を悶え、頬を捉まえている銀時の掌に、両手のひらをかけてもぎ離そうとしながら、むくむくとした不逞なものを味わった。
またうんと困らせる神楽に、銀時がうっそりと笑う。










fin

more
04/04 12:38
[銀魂]




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-エムブロ-