愛の癇癪、おやゆび姫







神楽は自分のぶんの半熟卵を、スプーンの先でコツコツと叩いて上手に蓋を開けてくれている銀時を、向かい側からじっと見ている。
ぼんやりとした光のくぐもった眼である。それなのにどこか貪婪なものが、潜んでいる。幼さのまだ少し残る、やや円く可愛らしい頬や、整った…いや整いすぎてやや冷たい印象すら与える鼻梁、薄紅色の髪が眉の上まで額を蔽っている…長めの天鵞絨に囲まれた稚い顔の中で、青い瞳を上瞼にひきつけた神楽の眼は、酷く可愛らしいが、底に肉食獣を想わせるものが隠れている。自分に注がれる愛情への貪婪である。愛情を喰いたがっている、肉食獣である。
神楽は自分に注がれている愛情の果実を、飽くまで貪り尽くそうとする。まして銀時の愛情は、黄金の果実の汁のように美味く、いい香りがするのだ。殆ど無意識の中で神楽は、母親の乳房に舌を巻きつけ、乳首をつよく吸い、噛み傷さえつけながら無限に出てくる温かな、甘いものを、吸い尽くそうとして小さな唇と咽喉とを鳴らしている。赤子のようにして、銀時の愛情を雫まで吸い尽くそうとしている。その強い威力は、神楽の不動の効果によって鈍まることで、より強力なものになり、それが銀時のすることを見ている可愛らしい眼の中にじっと潜んでいて、彼の心を限りなく惹くのである。





今日の神楽の態度はとくに憂鬱を纏っている。
その目は何も考えていない。
生とした、獣のような目だ。


銀時はその無感情な目の中に残酷以上の残酷を見た。
神楽の変化はあれ以来続いている。神楽が時にすべての人間に、あたりのもののすべてに、やや突き放すように、ドライ(無関心)なのは今に始まったことじゃない。
だがそれまではその無感情が、そのまま出ていたのに過ぎない。神楽の中にあるものが、ただ自然に流れ出ていた。
動物のようなものを持っているのも前からのことである。
だが神楽に他意がないので、それが神楽の可哀らしさに繋がっていた。


銀時にとって不幸にもその朝以来、神楽の無感情には悪意の裏打ちがなされている。
しかも、そのふてぶてしい、憎々しい様子は徐々に酷くなってきている。
憎たらしいものは、神楽の中から滲み出て、神楽全体を蔽っている。神楽の肉体の蜜の気配と同じ原理なのだ。
本来、あまり足音のしない神楽は、艶のある毛並みの獣のように、家の中を音を立てずに歩いている。
廊下などで出会う新八はそんな神楽を、息を詰めて見送ることがあり、その蜜の気配を濃くした神楽を腫れものでも触れるみたいに遠くから見守っているだけだった。



(あれが、神楽が手に負えなくなった、最初の兆候かもな……)


そりゃまぁ、自分も悪いけど。


と、銀時はひそかに思って溜息をついた。
突然にひどい不機嫌(メランコリー)に陥ったあの朝、銀時が始終、神楽の機嫌を取ってやり、その上に、神楽の望むとおりにスイカを買いに走り、せっかく入った仕事もキャンセルして、機嫌が直るまで傍についていた。
神楽はその時の満足感に味をしめていて、それから後は銀時が暑苦しすぎたり、しつこすぎたり、うざすぎたり、外に出さなくなると、たちまち憂愁な気分の中に堕ちこむようになった傾向がある。だがそれは神楽が、銀時に甘えようとして故意にやるばかりでもないのを、彼は視ていた。
神楽は出逢った頃から(たぶん幼い時分からだ)、何かをじっと視ているような時、不機嫌だというのではないが、何処かわけのわからない、むっとしたようなものが感じられる仔供だったと思う。それが十五歳と数ヵ月のある朝、不機嫌に陥ってからというもの、神楽の不機嫌の中に堕ちこむ、気分の傾斜面が滑りやすくなった、というようなそんな感じがある。
神楽の不機嫌は全く奇妙なものだった。
神楽の不機嫌は、たとえば風の凪いだ蒸し暑い夏の日、空気が少しも動かなくなって、重く、湿ったようになる、そんな天気に似ている。
樹々の梢が微かに動いているのが、かえってむっとする暑熱を煽っている、そんな蒸し暑い日に感じる、重い、空気の堆積のようなものが、ふと神楽の中に出てきて、それが辺りに広がっている。その気分は、神楽の気孔のないような、緻密な、蜜を塗りつけられたような皮膚の感じに似ているようでもある。六月に咲く、紅い百合の、茎を折る時に発するような、重い、抵抗できない、神楽の皮膚の香りにも似ているようだった。
そういう皮膚や、百合の香りそのものが、不機嫌な気分を発するのではないかと思われるほどである。
神楽自身、自分の気分をもて扱って、いよいよ不機嫌になるのだが、その拗ねる様子は今、いよいよ籠もった湿り気のあるものになって、それは重い、量のある、エロティシズムに通じている。そうして、その蒸しだされるものは銀時をとことん魅惑するのだった。


足蹴に扱われても、冷たくされても、嘘をつかれても、無視されても、素直に自分の言うことを聞かなくても、全く可愛げがなくとも、銀時は一向に構わなかった。
新八なぞはそんな銀時を奇異に打たれたように見るが、銀時は神楽の不機嫌さえもともと可哀いと思っている男である。
神楽が不機嫌だとめいっぱい甘やかしたくなるのだが、この不機嫌の原因は銀時の暑苦しさによる事が多いので、そういう時の神楽は、ふてぶてしいを通り越して憎々しい毒舌まで平気で飛ばしてくる。だから銀時もそっとしている。
何より今日の原因は、神楽を外に出すのを嫌がって、二日間軟禁状態にしてしまったのが事の発端だった。
今朝は、ちょうど三日目で、定春の散歩にも行けず鬱々していた神楽が切れぎみに不機嫌を募らせ、それが銀時への散々な我儘として現れたのだが、それさえも可愛がる銀時がいけなかった。


しかし、我儘いっぱいに不機嫌を撒きちらす神楽が、その我儘を知っていてやっているのは分明だが、どうもそこにはもう一つはっきりしないものがあると、銀時は思うのだ。まるで我を忘れているようなところがある。ヒステリーのようなものではないだろうかとも、思ったりする。だが神楽は基本ドライでオフビートで、怒りは持続しない。だからこれも、もしかしたら神楽の熱狂癖と、ある種同じようなものかもしれないとも思った。
最初の時には、その熱狂癖も、子供から大人になる時期の変調だろうと思っていた銀時は、この頃になって、この神楽の、時おり陥る一種の気分のようなものが、神楽の生来のもので、それが蕾のように結ばれていたのが六月の月曜日の朝、突然に花開いたのではないかと思うようになっている。
一時期のものなどではなくて、神楽の性格の中にあるものが、はっきりした形をとって来たのかもしれない、と銀時は思うことにした。
一生、この神楽の気紛れな、小悪魔っぷりに、付き合っていく覚悟が銀時にはある故に、鷹揚に結論づけることにした。
何よりも、銀時自身、神楽がそうなっている時の可哀らしさに魅せられて、そこに溺れ込んでいるので、銀時は神楽を、そういう神楽のままで眺め、愛情を傾けている状態になっている。
銀時にとって、神楽のそんな様子を眺めていることは、甘美な蜜の歓びだった。


神楽というものが、もう一歩で成熟するというところに来たこの頃の銀時は、神楽という百合の中心にひそむ花の蜜が、どんなにきれいで、豊饒であるかをすでにずぶずぶに堪能していた。
銀時は言いようのない嗤いの中で、神楽という綺麗な花の存在を感じとっており、現在の神楽に傾ける彼の愛情の微笑いは、いっそうあまやかに、いい知れぬ複雑さを見せてきている。
銀時は、三十路に近い年齢の現在になって、花をつけた樹々の中の、あたりの空気も薫香を含んでいる楽園への小径に、足を踏み入れ、永遠にそこと楽園を行ったり来たりする、そういう自分の人生を恍惚に感じている。
夢の楽園の花のようでいて、神楽は現実なのだ。
銀時にとって神楽は現実の花。
ときに不機嫌の花にもなる。
銀時の花の人生、花の生涯、花の現実そのものだ───。


冠を正す必要はない桃李など、幻にあらず。


銀時は心に呟く。
黙っていればそれなりに端整な、目を閉じた銀時の顔の上に、仄かな微笑いが花の香りのように漂った。











(桃李は、幻の桃李。冠を正す必要はない……)





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03/10 13:52
[銀魂]




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