日記をここでつけはじめて、なんと五年目に入ってしまった。

私は働きはじめてから本を読まなくなった。学生のころのように一冊を「じっくり」「ひたりながら」「読む」ことができなくなった。本に向き合うことが嫌になった。本のなかには魅力的で理想的に切なくて淋しくていとおしい世界がある。働きはじめて余裕をなくした自分はそのことを許せなくなった。若者と呼ばれなくなっていく。本のなかで主人公たちが出会うなにもかもを自分は手に入れていない。私は本どころではなかったし、本に向き合うガッツがなかった。
それどころか文章も書かなくなった。
Twitterはしていたが、思考を短絡的にツイートとして流すのは、日記のように消したり直したりして書きためていくこととはまた別物だと思っていた。
要は長い文面で自分の気持ちを書きたかった。
そしてここで日記をつけはじめてTwitterをやめたのが二〇十五年。時おり途絶えながらも書いてきて、四年の月日がたってしまった。こんなに続いてしまうとはー。
大きな声では言えないが、このブログサービスが終了すればここのデータはすべて消えてしまうと思う。(調べてみたけどたぶん私の力ではバックアップがとれない)そうすると五年分の私のつれづれは消滅……本当にそれでいいの!?
私は学生時代、とくに思うことがあるときは紙に日記をつけていた。高校生の頃は毎日つけていた。今でもときどき読み返すと……まあまったく忘れていることばかり。でも紙媒体なので形としてはしっかり残っている。
他人にとっては私が日記を残そうが残さまいがどうでもいいと思いますが。でも自分としては残らないのは残らないのでなんだかもったいない。
どうなる私の日記!

さてここからは本の感想です。ただし私のこともまざります。

藤崎彩織『読書間奏文』


小説の『ふたご』が好きだったので読みたくなって買いました。今年はじめての本です。
さおりさんが読んだ本のことを書いているエッセイなのですが、感想メインというよりは、さおりさんの日常や気持ちをまず書いて、それに即した本をそっと置いてくるようなかんじの本の〈間奏〉文です。
エッセイとレビュー、どちらに属するのか難しいですがその日常と本の紹介はんぶんこ、という書きかたがいいなと思います。
あと、さおりさんのバックグラウンドに「音楽」があることが文章を綴る上でも大きな魅力になっていると思います。
私は本を見るときにその本を手に取る人間のほうにも興味を持ちます。
本は本でも、美容師さんが読む本、科学者が読む本、本を読まないひとが読む本、先生が読む本、映画好きなひとが読む本、と、そこにいる人間を見ることで見えてくる本の側面がある。
肩書きを外してもさおりさんの文体は読みやすいのだけど、音楽家という視点で付加される魅力もあるように思いました。ピアノの鍵のエピソードが好きです。
各章の扉が五線譜なのも可愛いね!
セカオワのメンバーも出てくるけどだいたいラブの割合が低いです。(ふたごのときもそう思った)
妊娠のところは読みながら、さおりさんにさくらももこさんの『そういうふうにできている』を読んでほしいなあと思ったり。
さくらももこ
『そういうふうにできている』

子どもが胎内にいると、感情とか環境とかはさておいて、とにかく「そういうふうにできている」ものなんだーって、書かれているのを思い出したんだけど、さおりさんの記述にも似たような文言があったので。

そしてこの本を読んで思い出した本が。
『詩羽のいる街』とかどちゃどちゃ懐かしいね!? 忘れてたよ。
山本弘『詩羽のいる街』

こんなに書いておいてあれなのですが私は詩羽が苦手なんです。
でもいまこの本を読んで自分がどう思うのか知りたいなというのはある。

読んだ本のことを忘れたくない
今日あったことを忘れたくない
思ったことを書きとめていたい

そういうものを私は、やがて消えてしまう時限制の日記帳にぶつけている。忘れたくない気持ちと矛盾していると知っているけど消えてしまうまでが私のつづる日記なのかも。

DAOKO『私的旅行』

今は「ぼくらのネットワーク」を聴いています。

最近読んだ本