「・・・なんなんすか、あの人」

今夜幾度めかの質問を、佐久は囁くように繰り返した。
わずかに赤らんだ顔の彦根が、苦笑いしながら呟く。
「漣(さざなみ)少佐、昔から女の子大好きだったからなあ〜」
向かいからの上機嫌そうな笑い声に、佐久は知らず知らずに眉根を寄せる。
あやめと誓を両脇に従える中年男の図は、時代劇の悪役とそう違いはなかった。
彦根が瓶のギネスに唇をつける。彼の昔の上司とやらは、随分好色な人間に違いなかった。
額は後退して、顎の肉はやや余るが、筋肉質な体躯はとても義手義足をつけているとは思えない。
極めて健康的な肉体と、盛んに分泌されている男性ホルモンとが、ギラギラした印象を強める。
いかつい四角い顔は、両手の花に絶えず緩みっぱなしだった。
いつになく人の多い和光基地の酒場には、男臭い汗と揚げ物と煙草の臭いが入り混じって、佐久は気分が悪くなる。
「うちに嫁に来いよ、バツはふたつだけど貧乏はさせないからさあ」
そんな台詞を、太い眉を八の字にしてあやめに言い放つ。
鬼のように厳しい機長だった漣少佐だったとは彦根の談だが、佐久にはスケベオヤジにしか見えなかった。
「ダメですよぉ、彼氏に怒られちゃうし」
戦闘機のパイロットと付き合っているあやめが、ケラケラと笑った。
笑いながらマネキンのように白い義手で、漣はビールのジョッキを持ち上げる。
「なに、いまの彼氏と結婚すんの?ふたりとも」
「私はそうでぇす」
「あやめの彼氏、かっこいいし海軍のパイロットだもんねぇ」
勢いのよいあやめに、誓が笑う。
「なに、ヘリパイ?戦闘機?」
「F16ですぅ」
漣が、おどけて唇を尖らせる。
「俺だってパイロットなんだけどなぁ」
俺だってパイロットなんだけど、と佐久は心の中で繰り返した。
すっかり取り残された佐久は、ビールばかりがやたらと進む。
以前模擬戦闘で相対したことのある漣少佐が和光に来ていると言われて、予定を変えてきたのにこの様子だ。
「お前、オートバックス間に合ったの?」
「間に合いましたよ。今日はもうアペックスシール取り替えるの間に合わないんで、明日取りにいきますけど」
エンジンの部品交換に出してから、タクシーでわざわざ基地に戻ってきたのだった。着いたときには、もう漣は出来上がっていたのだけれども。
「誓ちゃん、俺じゃなくても俺の息子の嫁に来ない?シャイなヤツでさあ」
「わたし、だいぶ薹が立ってますよ」
僅かに微笑んで返す誓の目は、澄んでいた。またその面差しに、守谷の面影が差す。
厚い氷を隔てているような錯覚を視た。守谷と誓の血肉は今や分かつことは出来ず、世界のどこでも、あらゆる時間に現れる。
「双子の弟も潜水艦勤務なので、上の姉と妹には姉弟揃って婚期を逃すって言われてますけど」
明るい誓の口振りに、陰りはなかった。そして初めて、彼女に姉弟がいることを知った。
姉は空軍の憲兵で士官、妹だけが唯一アパレルの店員をしているらしい。
既婚の姉は随分と双子の姉弟の行く末を案じているのだが、どうも安心させられそうにない、と誓は笑った。
「もったいない!」
大げさな身振りで、漣は額に手をやる。
彦根が耳元で、「漣少佐、アメリカで操縦だけじゃなくて口説き方まで習ってきたか」と囁く。
「あいつ、やっぱり年上には愛想いいんですね」と僻み混じりに呟いた佐久を、彦根が叩いた。
「お前さ、自分がツンケンしといてそりゃないだろ」
あぁそうか、と佐久は内心呟く。何もかもが変わった。そして変わる前を忘れてしまっていた。
誓の家族も生い立ちも知らずとも、その核心は知っている。
互い以外に誰もいない、言葉も温度もない世界にいるということ。
ただその一点において、佐久と誓とは逃れられないつながりにいた。
どんな言葉でも、どんな距離でも断ち切ることはきっとできない。
「今時ツンデレなんか流行らんぞ」
彦根の声が、喧騒の中に掻き消えた。
「少尉、席代わりましょうよ。せっかく漣少佐がいらっしゃるんですし」
誓がようやく声を掛けてくる。
顔はやや赤らみ、目の縁が血色に染まっている。
「“姫さま”のヘルプか」
佐久は脱いでいた上着に袖を通し、一番上までジッパーを上げた。
そして、襟元を正す。彦根が取り次いだ。
「漣少佐、こいつがこの間の」
「ああ、佐久くんか、改めてよろしく。漣だ」
「佐久です」
躊躇いなく差し出された義手を、佐久は握った。
予想に反して義手は暖かく、人の手のように佐久の手を握り返す。
「トルクは細くてデリケート。しかし加速と機動の性能は抜群。きみの印象そのものだ」
唐突に、漣は言った。1秒して、佐久はそれが自分の車の特性だと気付く。
「・・・聞いておられたのですか」
「アペックスシールなんて、マツダの車にしか無いだろう。君といい彦根といい、癖のある車に乗るもんだ」
原付通勤の彦根の私有車が、実は改造されつくした、目の覚めるように青いスポーツカーであることを知るものは少ない。
佐久の車とは対照的に、力強くオフロードでの走りに特化した車だった。
「彦根中尉は、昔からそうだったんですか」
「最初の車からずっとスバルだ」
彦根が何故か満足げに答えた。
六連星の黄色いロゴを車体に貼り付けた彦根の車は、なるほど根っからの信者だと思わせる。
「俺はもうミニバンか女の子以外に乗る気がせんよ。君たちは若いな」
ガハハ、と漣が豪快に笑った。
「やだースケベー!」
あやめが黄色い声を挙げる。
セクハラで訴えられても仕方がないレベルの発言に、佐久は苦笑いするしかなかった。
「で、佐久くんって戦闘機出身なんだっけ」
今度は漣が、懐に切り込んできた。


「・・・さすがに疲れたか」
佐久が声を掛けると、誓はちらりとこちらを見て微笑した。
自販機の明るい光が、闇の中に誓の姿を洗い出す。
閉店時間と共にようやく解放され、炭酸を買って帰るところだった。さすがにこの時間には人影も少ない。
「少尉が、普通に事故の話をしていて驚きました」
「おれは、別に隠しているわけじゃない」
汗をかいたスプライトの栓を開ける。
缶に口を付けると、無数の冷たい泡が舌の上で弾けた。
「私は、言えませんでした」
開けた缶に口を付けないまま、誓がぽつりと呟く。
黙ったまま佐久は、その瞳を見た。
「映画のキスシーンを見る度に、少佐の冷たい唇を思い出すんです。いくら息を吹き込んでも、硬くなっていくつめたい唇と、血の臭い」
だから、きっと一生、恋愛なんか出来ません。そう誓は続けた。
「・・・そうか」
仰ぐように、誓は目を細め、夏の星空を見上げた。
その瞳は、夜空にラプターの幻影を追っていた。
守谷。そして漣。
ふたりの少佐が、佐久を乱す。
いつからかはっきりと自覚していた。誓は自らの手の内にある。
醜い感情だった。しかし、どうしても捨てきれない想いだった。
手を伸ばす。誓の襟首を掴んで、佐久は力任せに引き寄せた。
誓の踵が浮いて、前のめりになる。
驚き、目を見開いた誓は、それでも抵抗をしなかった。
中身の残った缶が、芝生に落ちる。
ただじっと佐久を見返す瞳に、自販機の明るすぎる光が散らばる。
佐久は、その唇に、唇を寄せた。
赤い唇の温度と、柔らかい感触がする。
止まった誓の息。瞬く睫毛の気配。
数秒触れただけなのに、随分と時間が長く感じた。
ゆっくりと唇を剥がすと、ぺろりと残った熱を舐めとる。
「キスなんてこんなもんだよ。情なんてなくても出来るし、お前が言うほど大したもんじゃない」
吐く息まじりに、佐久は言った。
襟首を離すと同時に、誓の手のひらが飛んでくる。それを片手で払うと、佐久はフッと嘲笑した。些細な呪縛に未だ捕らわれている誓は、哀れでさえあった。
自動販売機に照らされた青白い顔は、能面のようだ。睫毛は震え、瞳孔は開いている。
「血の味はしたか?冷たかったか?」
佐久は問い掛けた。誓は、俯いて沈黙する。そして、答えることなく背を向けた。
去る背を目で追いながら、佐久は、ふ、と自嘲を漏らした。


朝の光が眩しい。
佐久は、アパッチのコックピットの中でヘルメットを被った。ヘルメットに取り付けたスコープの調整をし、唇にマイクを当てる。
そして手順通りのエンジン始動を、いつも通りに始めた。
急遽決まった漣との模擬戦闘のため、佐久は離陸への準備を始める。
エンジンが吸気を始める音が、感覚を研ぎ澄ましていく。
いつも通りの点検が終わり、佐久は管制塔に離陸の要求をした。
敵を倒す。
佐久の瞳に、赤い炎が灯った。

《完》