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AVIONICS -VERTIGO/TRANSMISSION


谷川軍曹が急性薬物中毒で入院したと聞かされたのは、8月のある火曜日のことだった。

入間基地の滑走路から輸送機が離陸するたびに、窓ガラスがビリビリと震えた。
整然と並ぶ格納庫や、建物の上から、上昇する輸送機の姿が現れる。いつもの入間の光景が、今日も違わず再生される。
吸入した空気が、タービンの羽根に悲鳴を上げながら引き裂かれる。その音が、数分おきに入間基地の一帯に響き渡っていた。
窓枠いっぱいに広がった空の青色のキャンバスの鮮やかさが、やけに目にしみた。
清潔すぎる白い部屋と、篭る消毒薬の臭いの中では、窓だけが季節や生命を感じさせる。
ベッドの上に座る患者の気配さえも、病室の空気にかき消されているような気がした。
入間基地内の病院は、轟音と静寂が入り混じった奇妙な空間だった。
訪れた病室の、窓際のパイプベッドで、誓(せい)――谷川軍曹は、ぼんやりと座っていた。

ベッドには、名前と、認識番号の下に、「S―E3P」と書かれた札が挿されている。
軍人というよりは少女のような誓の面差しだが、血の気は失せて白い。
身体を包む青いガウンと、肘の内側に残るいくつかの注射痕が、脆さを孕んだ印象を強くさせる。
「わざわざ見舞いに来てくださって、ありがとうございます。でも、大したことはありませんから」
誓は、彦根に向かって僅かに唇を上げて微笑んだ。困ったような曖昧な笑顔が引っかかる。
それでも、彦根はいつものように微笑を返した。
「いいよ、大変だったね。佐久も相模もみんな仕事で来られないけど、これ、渡してくれって」
洋菓子屋の白い紙箱を、サイドテーブルに置く。人数が少ない部隊で、代休が取れたのは彦根だけだった。
開発実験部隊に出向していた誓が、突然入間に呼び戻されたのは10日ほど前のことだ。
本来、航空機に乗り組む機上レーダー・オペレーターである誓を、どうしても必要とする任務。
優秀なクルーであり、同時に特殊な手術を受けたサイボーグである誓は、常人を遥かに超える情報処理能力を持つ。
その誓を開発実験部隊から緊急に呼び戻す必要があり、その内容が一切公開されない任務。
入間から洋上へと飛び立った警戒管制機、E―787、コールサイン「タキオン61」が帰ってきても、誓が戻るはずだった日を過ぎても、彼女は帰ってこなかった。
しばらくして隊長の前森中佐から聞かされたのは、彼女が任務後、急性薬物中毒で入間に緊急入院したということだった。
表向き、部隊では疲労による貧血で入院したということになっている。本当のことを知っているのは、前森中佐と彦根だけだ。
「お見舞いばかり頂いて、これじゃあ太っちゃいます」
紙箱を覗き、好物のナッツタルトを捕捉した誓が、今度は困ったふりで笑った。
「もう退院してもいいくらいなんですけどね。中東に派兵されてた時のほうが慢性的に薬漬けだったくらいですし」
その語尾を、また輸送機の離陸の音がかき消した。空を上昇していく、巨鯨のようなシルエットが空に泳ぐ。
修学旅行の思い出でも語るような口調で呟いた誓が、窓際に頬杖をつく。
高度な開発と「改修」を施された脳を持つ、軍用サイボーグにかかる身体的負担は大きい。
長時間、脳の酷使が続く誓のようなフリオペ――機上レーダー・オペレーター型サイボーグには、苦痛と疲労、それによる深刻な能力の低下は死活問題だった。
その問題を解決するための手段として、何が使われたか。
無意識に握り締めた手を、彦根はさりげなく隠した。僅かに、しかし確実に、それは誓の命を削っていくだろう。
盛夏の色の空と、雲の白さを映した大きな瞳が、どこか遠い場所を見つめていた。
言葉に詰まる彦根に、誓が予防線を張る。
「・・・正直、嫌悪感を持たれても仕方ありませんよね」
軍用に調整された覚醒剤とブドウ糖の混合液。それが、フリオペに投与される「RB剤」の正体だと知ったのは、最近のことだ。
その作用は強力ではあるが、限界を超えて連続投与しなければ、薬物中毒を起こすほどではないはずだった。
誓の腕、脈の上に数箇所残った、1ミリにも満たない注射痕が、彦根に痛みと胸の苦しさを与える。
20代そこそこの娘に課せられた任務の重さに、思わず強く目を閉じた。
「誓ちゃん、あんたを責められる人なんてこの国にいない。責めるヤツがいたら俺が殴り倒す。だから安心しな」
息と共に吐いた言葉に偽りはなかった。筋肉を硬直させ、目を見開き、呼吸を荒くさせながら、薄暗い航空機の中でひたすらに任務に耐えているその姿を思った。
彦根自身が、サイボーグ手術を受けていた。その過程で、痛みの緩和に麻薬の投与を受けたこともあった。
「でも、私は認められなくても、拒否されても、それでもいいと思っています」
ふわりと青空を舞う鳥を視線で追いながら、ぽつりと誓が答える。肌理の奥まで洗い出す日差しが、少し肉の落ちた輪郭を縁取った。
潮が引いた後のように、心の動きの僅かな痕跡だけが残る表情を、彦根は見つめた。
切りそろえた前髪の下の瞳は、泉の水底のように澄んでいた。
「何を言われても、私は人間としてより、優秀なアビオニクスとして生きたい」
航空電子機器(アビオニクス)。航空機に搭載される電子器材の総称。人ではなく、モノとして生きるという言葉に、彦根は思わず眉根を寄せた。
「どうして?」
「ベッドのところの札、S―E3Pって書いてあるでしょう。器材番号なんです、私の」
「誓ちゃん」
彦根は思わずベッドに腰かけて、誓の目を見た。顔の表面が強張り、眼差しが険を帯びるのを自覚する。
肩を掴み、揺さぶりたい衝動を、息を飲み込んで抑えた。胸の音が、骨や血管を伝って鼓膜を震わせる。
「俺はそうは思わないよ。誓ちゃん、どうした?」
その問いに、誓は答えなかった。
「――搬送されている途中、夢を見ていました」
突然、誓が呟く。唐突な言葉に、相槌を打つこともできない。
何か暗い違和感を、彦根はその無表情に抱く。
「電車に乗って、どこかへ行く夢。町も家もない真っ暗な山の中を、1両編成の電車が走っている」
言葉は抑揚がなく、途切れることもなく続いた。
「電車の中は暗くて、私は照明にランプを持っている。乗客は誰もいなくて、座っているのは隣の守谷少佐だけ」
最も敬愛し、心の支えにしながらも喪ったパイロットの名前を、誓は口に出した。
その死を忘れることは出来ず、俤(おもかげ)に執着し続けた、あるラプターパイロットの名前。
「少佐も、私も、一言も喋らないまま、俯いて電車に乗っている。やがて電車は減速し、無人駅に入った」
彦根は沈黙で、先を促す。支離滅裂な独白にも関わらず、誓の眼差しには明確な理性があった。
「誰もいないホームに、灯りだけが点いている、人のいない世界でした。気がつくと少佐は隣にいなくて、ふと外を見るとホームに立っていた。私はそれを黙って見つめていました」
電車に乗ったまま、守谷を見つめていた。やがて電車は動き出し、誓は去っていく守谷を見送った。
「・・・その瞬間、突然全てが終わってしまった」
そこまで喋って、誓は一息挟む。
「子供の頃、人はいつか死ぬって分かった瞬間みたいに。神様がいないって理解した瞬間みたいに。幕は下りてしまった。それを境に、少佐は、思い出の中の人に変わってしまった」
「思い出?」
「そうです。私は今まで少佐が遺した全てを拾い集めて、その中に生きることを考え続けてきた。血肉でした。それなのに、突然少佐の存在は思い出になって、過ぎた時間の記憶になった」
ゆっくりと閉じられた誓の瞳が、数度痙攣する。
「後に残ったのは、割れた卵の殻みたいに、何も残っていない私。縋る姿を失くして、何をするべきなのか、自分が誰なのかも思い出せなくなってしまった」
睫毛が震えた。血管の浮いた薄い瞼を、誓はゆっくりと押し上げた。首をかしげ、彦根を見据える。
「でも、S―E3Pという存在だということは思い出せるんです。だから私は、アビオニクスとして誰かの記憶に残りたい」
強すぎる冷房が神経に触れ、Tシャツを着た彦根の肌をぞくぞくと粟立てた。
誓の言葉は独りよがりで、間違っている。恐らくは強いコンバット・ストレスに苛まれている。
全てを自分だけで解決しようとする姿に、うんざりとした感情さえ覚えた。
「いいよ、そんなことしなくていい」
重ねた詭弁、糊塗。他人だけでなく、誓は自分さえ誤魔化そうとしている。
「あんた、本当はアビオニクスになりたいなんて思っちゃいない。認めて欲しいだけだ」
今度こそ、白い顔からさっと感情が消えた。能面のような顔は、美しいほど冴え渡っている。
本当にアビオニクスになることを望むような人間は、軍人になるべきではなかった。
変わる上司に阿る程度に変節して、都合の悪いことを忘れ堕落する、「人間」でなければならなかった。
「――誰かの記憶に、か。誰かって誰だ。俺でもなく、空軍の奴らでもなく、佐久なんだろう?」
誓は「不変のもの」になろうとしていた。そうすることで、苦痛と迷走から救われると信じているのだろう。しかし、それは、死を意味していた。人間は、永遠に変わらない何かとしては生きられない。
どこまでも堕落を拒んできた誓。獣性を抑圧してきた佐久。その危うい天秤は、きっと簡単な力の変化で均衡を崩す。だから、少しだけ、力の方向を変えてやればいい。
瞬きもせず、数秒、彦根は誓と見つめあった。
誓の黒い瞳孔が、開いている。冷たそうな青い指が、ベッドの上で死んだように置かれている。
「みんな、あんたを心配してる。あんたは、人間じゃなきゃいけないんだよ、誓ちゃん」
彦根は断じた。
詰めていた息を、誓が吐き出す。僅かに俯いたその表情に、不安の陰が差した。
その目は彦根を通して佐久を見ていた。暗闇の中の灯火のように、瞳に浮かぶ真情が揺らぐ。
小柄な身体に備わった、重みのある胸と柔らかな曲線を、隠すように誓は腕を抱く。
二十歳そこそこの娘が、国に殉じるために生きる理由などどこにもなかった。あっていいはずがなかった。
窓の向こう、遠くに、白く湧き上がった積乱雲が見える。
彦根はふと、大学時代に読んだ「堕落論」の一説を諳んじた。
『人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない』
じきに冷たい風が吹き出し、強い雨が降り始めるだろう。
 

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原稿あがりました

多少手を加えて入稿終わりました。入金もしたし、何だか気が抜けちゃいました。
レス拍手ありがとうございました。後程お返しいたします。
今回はPR用にフルカラーハガキを無料配布するのですよ〜。
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