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《Vertigo》episode-0:arrow-1

頭皮を流れる汗が、額に垂れて落ちる。
眉を濡らしたそれを、佐久少尉は手袋の甲で拭った。合皮の手袋の中で、掌は蒸れて湿っている。
戦闘服の堅い布地は水気を帯び、肌にごわつく。
鋭敏になった鼻腔に、霧と汗と灯油のような燃料の臭いの入り混じった臭いが満ちる。
月のない夜。
機体から突き出た細長いコックピットは、日の入りと共に視界のない黒に満たされた。
純度の高い闇。絞った液晶ディスプレイの輝きは心許なく、それらは自身の指や腕さえ照らし出さない。
夜を破る光はここにはない。
目を開いて見る闇と、目を閉じた闇が限りなく等しい。
その視覚のない世界に、夏草から立ち上る生気が香る。
山の夜はじっとりと汗ばみ、灯火を消した後の静寂が五感を冒す。
シートに身体を固定するハーネスが無ければ、夜の闇に浮上してしまうだろう。
佐久を包むヘリコプターという殻は、夜の水底で沈黙し続けている。
全長が18メートルに届こうかという巨体の殻でさえ、山々の合間では小さな小石だった。
長野と群馬の県境に連なるのは、神々の鑿で荒々しく削られた山だった。
威圧的なその壁が、星の光さえ遮る。四方に立ち塞ぐ壁の影は、怪物めいてさえいた。
長野県の山奥、人が踏み入ることさえ少ないこの場所で、何をしているんだろう。
無意識の底から、ふと蘇る疑問。

――夢を見ているようだ。

沈黙したままの無線機が、眠気と浮遊感を誘う。
闇の中に身体が喪失したような気さえする。ゆっくりと瞬き、佐久はあたりを見渡した。
機体の周囲を右往左往する整備員のシルエットは、幻影のように遠い。
闇の中でも彼らの目は赤外線で補われ、僅かな星明かりの中での視界を確保している。
ヘルメットの庇にクリップされた暗視眼鏡は、夜間の作業に欠かせなかった。
佐久と彼ら切り離すのは、厚い装甲。
佐久を守る盾であり、佐久の使う長弓であり、そして佐久の棺桶でさえある。

AH−64D、ロングボウ・アパッチ。

原型が登場した20世紀末から、21世紀も20年以上過ぎた現在まで使われている傑作攻撃ヘリコプター。
その機体は幾たびの戦を通して進化し続けた。
そして佐久が乗るのは、その変異種−−実験開発機、“X”型だった。
海兵隊が主体となり、軍事企業、陸軍と協力の下開発された機。
外見は通常のものと変わらない。
川魚のような本体に、特徴的な左右の出っ張り。
それは、コックピットの下に据えられ、高度に精密な電子部品を収納する棚になっている。
更に長方形の翼が左右に備わり、ミサイルやロケットを吊る。
武装はそれだけではなく、戦車さえ屠る機関銃が胴体下に提げられていた。
そして、尖った鼻先にはドームのような突起物。収納されたカメラやセンサーが、パイロットに電子の視界を与える。
それから、すらりと引き締まった尾部とX字状のテール・ローター。
そして、ヘリコプターをヘリコプターたらしめる、ブレードを咬んだシャフトが胴体からは生えている。
空を飛ぶため、背中に2発の強力なエンジンが与えられ、それは空飛ぶ要塞の心臓部と言えた。
知性と力を兼ね備えたアパッチ・ロングボウは、攻撃ヘリコプターの完成型とも言える。
佐久の機体は、そこからさらに異様な進化を遂げた機だった。

夜を昼にし、夜陰を隠れ蓑に変える。
闇を拓く−−それは活路を拓くことと同意義であり、それはアパッチのテクノロジーの骨子だった。

「マイナス・サーティ」

発進予定時刻30分前を告ぐインターホンに、佐久は「コピー」(了解)を返す。
アパッチは機体外部から有線接続されていた。

夜間モードに視界を切り替えれば、青みを帯びた世界が広がる。
闇に沈んでいたコックピットの計器類が、細密に姿を現す。
アナログの計器を駆逐した、液晶が並ぶコックピット。細かなボタンが、その隙間を埋める。
コンバット・ブーツの爪先が載ったフットペダルまで、はっきりと視認できた。
視界に刺さるのは、身体の左右と、足の間に割り込んで生えるレバー。
正面を向けば、コックピットガラス越しに整備員の顔や迷彩服の柄が青白く浮かび上がった。
−−機体には千里眼と、四方を見通す神通力が元々人の手で与えられている。
鼻先のセンサー類は、暗視や赤外線でパイロットに昼の視界を与え、回転部の軸に設置された鏡餅様のレーダーは敵を見つけ、彼我を見分ける力を持つ。
それらの情報は、本来スコープを通してしか、生身の人間に与えられない。ヘルメットの顎に固定されたスコープは機体に接続され、目許のレンズに情報が投影される。
しかし佐久のヘルメットには、スコープはない。
その必要性が無いからだ。
スコープの変わりにあるのは、首筋に刺されたケーブルだった。
眼球自体も高性能の暗視性能を有し、アパッチからの情報は脳神経に直接伝達される。
本来2名の搭乗員を必要とするアパッチの操縦を独りでまかない、同時に卓越した攻撃性能を引き出した“X型”。
それは、パイロットをもそのアビオニクス(航空電子機器)にした特別な機体だった。
赤く輝く佐久の双眸が闇に瞬く。
バッテリーを積んだ補助電源のトラックが横付けされ、アパッチに電力供給を開始する。
刈り払われた夏草が、機体の放つ高音に震える。
佐久の操作で、エンジンが駆動を始める。
他者の介在しない、機体(マシーン)と佐久だけの世界。
甲高い、エンジンが空気を吸い込む響きが、アパッチの目覚めを告げた。
上がる回転率が、液晶ディスプレイのグラフの棒を伸ばす。
機体内部では自己診断プログラムが作動し、外部では取り付く整備員らが正常な動作を確認する。
それら動作はは機械のように精密で、機械のように迅速な一つの楽章だった。
心拍数がわずかに上がる。
ミサイルの安全ピンが抜かれ、武装が有効にされる間、佐久は両手をコックピット上部の取っ手に掛ける。
誤ってミサイルを作動させないためだ。
その間にも変化する状況を告げるデータが、次々と角膜に投影される。
ただ満ちていくアドレナリンが、湿った呼吸を熱くする。
回転を始めたブレードが、風を切る。
その音は、あたかも鏑矢であった。
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