とりあえず話題の説明文にイラッとしたことは追記で書くからおいといて
健常者と障害者について語ります


個人的に健常者という言葉は嫌いです
あと「ショウガイ」は「障がい」て書く派
うちの地元じゃ条例で決まって統一されてるので


因みになんでこの話題かっていうとね
もともと特支に興味があるからとか次のサークルの作品のテーマにしようか悩んでるからとかそういうのだけじゃなくてね
わたしの妹も日本の定義的には障がい者だからってのが理由
繰り返せば、日本の定義的には


先々週の講義で習って嬉しかったんだけど、スウェーデンは他の国々とは障がいの定義が違うらしい
脚の動かないという事実が障がいなのではなく、選挙に行こうとして移動が困難だった場合にはじめて、その困難が障がいになる
当選場所までスロープがついていて移動に問題がない場合、それは既に障がいとは言わないっていうような考え方
わたしの価値観にぴったりだった


だってさ。うちの妹、足に障がいのあることになってるんだけど、普通に立てるんだよね
歩けるし、走れるし、自転車にも乗れるし
日常生活になんの支障もないよ?
そりゃあ、ちょっとした義足を履いてるけど
誰だって目が悪けりゃ眼鏡をかけるでしょ?
それと一緒
プールや靴屋さんで人目を気にしないといけないこと以外で、特に不便を感じてない、ように見える
生まれたばかりの頃はともかく、症状が軽いからと言えることなのかもしれないけど
それでいいじゃない、と思うの


勿論、人により状態は様々だし、つきっきりで介護が必要な方だっているよ
でも「障がい者だから」って特別に考えたり感じたりする必要ってないと思うんだ
それは、間違ってると思うんだ


綺麗事だって思う人もいるかもしれないね
わたしの友達は、障がい者と会った時にその人を嫌悪しない絶対的な自信がないって言っていた
生理的に受けつけないと思ってしまいそうで怖い
だから、特支の授業は受けないって
正直、わたしだってそうだ


妹の右足の指は、丸くてコロッとしてて小さくて、どうして足にくっついていられるのかと思うほど、見ていてそれはそれは怖かった
だから父さんや母さんが妹に義足を履かせるのをみることはあれど、自分ではしなかった
できなかった
あるとき妹と二人きりで、幼稚園に自分達で行かなきゃだった時がある
くっく(義足)を履かせてあげてね、と頼まれてたわたしは、でもくっくを抱えたまま動けなかった
触れたら壊れてしまいそう
触れたら傷つけてしまいそう
躊躇してあたふたするわたしをどう思ったのか、妹は自分で履いていた
偉そうなことを言っても、その容姿や状態の「違う」部分が、怖いと思ってしまっていた


でも、ね。わたしは、我が儘で、自己中で、自分はできてなくても他人には強制する子どもだったんだ、昔から
砂場で妹がくっくをからかわれたときの悔しさを、絶対に忘れない
幼稚園の頃で、相手はクラスでも人気の男の子だったけど、それなりに好意をもっていた覚えもあるけど、それでも許せなかった
悔しかった
本当に怒ったときって言葉にならないんだなって、妹の手を引いて帰りながら思った覚えがある


不思議かもしれないし、怖いかもしれないし、嫌かもしれない
面倒かもしれないし、苦手かもしれないし、わけわかんないかもしれない
でも、それをグッと受けとめて、一緒に過ごして欲しいんだ
多分わかるから
その事実が障がいなんじゃなく、社会に沿うか沿わないか、支障をきたすかしたさないか、そのときはじめて障がいになるって