12/07 18:57 泡沫のまほろば(成政)



 何処までも白い。
天も地も空間も、己が吐く息ですら白く白く、故に酷く恐ろしい。
 ざく、ざくと雪の積もった地を歩く。雪を圧して歩く音がずうっと続いている。もう何時から歩いているのか知れない。最初でこそ覚えていたのだけれど今となってはそれが何日何刻経ったのかわからないのだ。
 何処までも白い。
その所為で意識が曖昧になっているのだろう。そのうち吐く息ですら惜しくなって口をぎう、と閉じた。鼻から出す息までもが惜しい。それほどまでに体が衰弱している何よりの証拠だと成政は思った。
誰もが口を噤み、ただ無心に山の地を踏み歩んでいく。ざくざく、と雪を踏む音が成政の後ろまで続く。前からもざくざくと響く音に何故だか唐土の法師の旅を思わせた。


―――嫋、嫋嫋、嫋。


 鳥だろうか、いやこんな厳冬の山に鳥が飛び交っているなど考えられない。人ですらこんなにも体力を削り取られているのに。小さな動物が雪の積もる中を飛び交うなど。
では何だ。先ほどから聞こえる声は動物でないとしたら風が木々を揺らしているのか。


―――嫋嫋、嫋。―――嫋嫋、嫋。
「おい、何時こんな行列になった?」


 見れば前にも後ろにも行列がぞろぞろと続いていた。出発した時、確かに先導に中語、その後ろを成政、家臣十八人が続いて居た。その筈である。可笑しな声がし出してから急に行列が増えた気がする。これも幻覚か、幻影の類だろうか。視線を泳がせると全員でも二十名の筈がその倍近くいる様に感じる。


―――嫋、嫋嫋、嫋。
「何の音だ」
「は、殿?」
「音がするだろう?嫋嫋と聞こえるだろう?」
―――嫋嫋、嫋。


 音が聞こえるのだ。先ほどから管弦の音が、耳につく。鳥や動物ではない。鳥が管弦の音を出せようか、これは、これは―――!
成政の足が止まる、家臣の足もそれに続いて止まった。「ここは何処だ」とうろたえる家臣の声が成政には遠く聞こえた。山脈を越えていたのだ、山である。なのに如何だろう、今成政らが居るのは大きな陣中の中の様に見える。
「仕舞った!罠か」「殿、退却を!」うろたえる声、声、声。そこは罠と言うよりは、そうだ、罠ではなく呼ばれたのだ、と成政には感じれた。家臣のどよめきに対し成政は酷く冷静な心持で居た。そこは陣幕が巡らされ、揚羽蝶の紋が浮かぶ。舞台が向こうに見える。その舞台の横に御簾が垂らされ誰かが居るのが見えた。


『佐々殿、今宵は吾等の宴によくぞ参られた』


 成政に声をかけたのは大鎧を着込んだ男であった。目をらんらんと光らせた人に見えるが妖かしがかった表情の男。


『姫が特別にご招待申し上げた。故に峠越えの最中である貴殿の道を少々変えさせて頂いたのだ。ご安心なされよ、宴が終われば自然と道は開けるであろう』
「ご招待かたじけなく思います、然し我らには一刻も早く山を越えなければならないのです」
『その疲労困憊した体でか?そのままでは何刻も持つまい』


 男の言う通りである。成政を含めて家臣も皆冬の雪山を越えているのだ。一刻も早く到着したい気持ちはあるが皆が倒れてしまっては元も子もない。押し黙る様に俯いた成政を見て納得したと思った男は『姫がお会いになる』と短く告げて御簾の近くにいる侍女に成政到着を告げた。


(まるでこれでは耳なし芳一ではないか)


 話とは幾つか異なるが目の前にいるのが平家残党の亡霊であるならば我らは更に体力を吸い取られてしまうのだろうか。「殿、」と家臣が呟く。言いたい事は分かっていた。けれど皆体力的にもこのまま越え続けるのはきつい。ならばこのままここで一夜を明かすのも悪くないのではないか。若しもここで命が尽きれば本能寺で先に逝かれた殿に良い土産話が出来るであろうし、一夜を明かすことで若し越える事に成功すれば三河殿への土産話になろう。
 此処で尽きるか如何かはもはや仏の思し召しであるかの様に思えた。
成政は家臣たちに向き直ると「案ずるな、このまま冬の夜山を強行しても皆の体力が尽きるだけだ。ならば、平家の姫君のご厚意を有難く受けようではないか」と言った。


「それにな、良い土産話になるではないか」


 余裕を持っているかの様な成政の言葉に家臣たちは「殿が決められたのであれば我らはもう何も言いますまい」と成政に従う意を示した。


―――嫋、嫋嫋、嫋。―――嫋、嫋嫋、嫋。嫋、嫋嫋、嫋。
―――嫋、嫋嫋、嫋。―――嫋、嫋嫋、嫋。


 琵琶の悲しげな音が響く。揺らめく篝火。はためく揚羽蝶紋の旗。陣幕。御簾の向こうで焚かれているのか馨しい伽羅香の香りに包まれる。その場全てがまるで夢幻の様であり、また現実である。平家の姫君から振舞われた酒は立ち込める伽羅香の香りの様に馨しく、また臓腑を暖めてくれたのだった。
 此処にある全ての物がぼんやりと朧気で美しい。ただ馨しく泡沫の夢の様だと亡霊の陣中で思ったのであった。


 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。


 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す。


 奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。




  琵琶の音とともに舞台の法師が謳う栄華と没落の物語もまた夢幻の様に心地よかった。

 

 

(了)

 

 





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