07/03 03:54 春の夜の夢



 桜睡蓮がぽんと軽やかな音を立てて花を開いた日の夜の事である。
夜の闇に浮かぶ燐光のような桜の色が月の光を受けて青白く光っている、そんな夜の事である。
 ここに一年中薄い桃色で包まれた里がある。
四方を山で囲まれ都からは離れている為にどの時代のどの殿様、政府からも統率を免れ、ここで独特の発展を遂げてきた。
 里中甘く懐かしい桜の香りで包まれ、一年中代わる代わる咲く桜の木々から舞い落ちる花弁を攫う風で桃色の桜吹雪が吹き続ける。
 そういう里である。
 今の季節は丁度冬桜が全て舞い落ち、春桜の早咲きの群れが咲き始めた頃である。
 八重は未だに自分の桜を咲かせられず蕾の儘沈黙し続ける桜の苗木を見詰めていた。八重が通う里に一つしかない学校の第八目学級の学級(クラス)では八重のみが未だ蕾を開花させられずにいた。
 ふう、と八重は肺の中に溜まった夜空の様な溜息を吐いて蕾の苗木を見詰めた。足元には「八重」という自分の名前が白い看板に書かれ土に刺さって立っている。
「如何して」と八重は何度目になるか分からない溜息を漏らした。

「なんだい、御前の桜は蕾の儘じゃあないか」
「誰、」

苗木の元に座りこんで溜息を漏らす八重に声をかける者がいた。八重は振り返って相手を見るが見たこともない少年であった。

「御前、桜人なのに桜一つ咲かせられないのかい」
「どんな事をしてもこの子咲いてくれないんだ、きっとあたしの事が嫌いなんだよ」
「へえ。けど桜人が自分の桜に嫌われるなんて聞いたこと無いな。何かの間違いじゃないのかい」

 言って少年は八重に近寄り蕾の儘の苗木を見詰める。少年の薄い桃色の、桜色とも言えるふわふわした癖ッ毛が風に揺れる。八重はそれを見ながら若しも桜が人の姿を模したらこの少年の様になるのではないかと思った。
 少年は儚い雰囲気を醸し出す白い肌に色素の薄い桜色の髪を持った男にしておくのは勿体無い程美しかったのだ。顔かたちはどちらかと言うと東洋人のそれであり、派手な顔立ちでは無かったのだが妖しげな美しさを持っていた。
 そして、同時に儚い、桜のような美しさを持っていた。

「じゃあ御前に良い事を教えようか」

 八重は少年の柔らかく笑った微笑に多少頬を染めながら復唱する様に「いい、こと?」と続けた。少年は「嗚呼」と一言答えて穿いている天鵝絨の膝までしかないパンツのポケットからごそごそと細くて白い手で探し出した。
 これだと八重の前に出した少年の手には象と蓮の模様が描かれた大陸の物と思われる火付棒の箱が乗っていた。八重はこれが如何だと言うのだと言いたげな微妙な顔をして少年をみた。八重がそう思ったのも無理は無い。この表紙の火付棒は何処の家庭にも一つは置いてあるほど普及された箱なのである。

「問題はこの中身さ、」

そういって少年はゆっくりと八重の目の前で火付棒の箱を移動させて箱に詰まった物を八重に見せた。
中身が見えると八重が感嘆の声を漏らして箱の中を見た。
 それは桜貝に良く似た小さな鉱石だった。箱の中で綺羅綺羅と煌めいて八重の黒曜に似た彩の眸を釘付けにした。

「どうだい、驚いたろう」
「ええ、ええ。これは何、」

 箱の中で綺羅綺羅光る鉱石は桜貝に似てもったりとした桜色の様な東雲色の様な色をしていたが、まるで桜が咲いたかの様に結晶していた。そして月光の光を受け反射し、綺羅綺羅と研磨された宝石の様な煌めきを携えていた。

「桜貝石さ」
「これを如何するの」

 少年はまた少し微笑んで桜貝石を八重の桜の苗に近づけた。そして石で木肌を撫でると小さな苗木でしかなかった八重の桜はぐんぐん伸びて八重や少年を桜が見下ろす程大きくなった。
 然し撫でる度に桜貝石は萎んでいく様に小さくなり、八重の桜が綺麗な桃色の花を枝につける頃には少年の掌にあった筈の桜貝石は咥内で溶けた飴玉の様に小さく溶けて消えてしまったのだ。

「石、なくなっちゃったね。いいの?」
「いいさ、御前に使ってもらえて満足してるだろうよ」

 呟く様に言う少年の微笑みもさっきとは違い、更に儚そうに霞んでいた。八重の眸にはさっきよりも少年の髪色も灰がかったような桜色に変化している気がした。

「如何したの、何だか変だよ、」
「御前、知ってるかい?校庭の隅に立っていた桜の古木。明日斬られてしまうんだ」

 急に何故少年が世間話を始めたのかは分からなかったが八重は昨日の夜に母親からその話を聞いた。八重の曾祖母が学校に通っていた頃よりも昔からそこに立っていたという桜の古木は遂に病気になってしまったのだという。里に住む木専門の医者でも治すことは難しい程に症状は進行していてもう斬るしかないのだと聞いた。

「この里の桜の木の中には神様が居て命の石を木の中に隠してるんだ」
「え、」
「なんてね、嘘に決まってるだろ。それは先生が御前に渡せって言ったんだ、栄養剤か何かじゃないのかい」
「そ、そうだよね。でもありがとう」

 八重はそういうと少年は「嗚呼」と答えた。八重は急いで先生に礼を言おうと職員室に走り出した。走りながらちらりと少年を見ると八重の桜の下であの儚い微笑をして立っていた。




    



 八重が職員室へ消えると同時に少年はごほごほと急に噎せた。血の気の失せた白い顔をして少年は「糞、この耄碌!」と小さく罵った。そして小さく「馬鹿だなあ」と言った。そして少年は苦しげに続ける。

「僕の命の石。最後に御前に使って欲しかったんだ」

 呟く様に言うと少年は遂に地に倒れ荒い息を繰り返した。少年はもう姿の見えない八重の背中を追いかける様に視線を職員室の方向へ向けた。

「御前を気に入っていたんだ。桜の上から御前を見ていた。何度か声を掛けたが御前はしらないだろうな」

 さっきよりもずうっと小さな掠れた声は八重に届くことは無かった。そして風が起こす桜吹雪の中に少年はさらさら消えた。
 ただ其処には急に大きく育った八重の桜の木が聳えてるだけであった。


 少年の姿は桜の花弁が舞う中であの石の様に消えた。まるでそれは春の夜の夢の様であった。









(了)





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