07/03 03:40 恩寵のひと



 轟々と燃ゆる焔、屋敷に聞こえる阿鼻叫喚の如き侍女たちの声。
其の中で部屋の中に何時もと同じ様に座り、主の教えが書かれた本を膝の上に乗せて文字の波の上を人差し指がなぞる。

「早う、早う、玉様お逃げ下さい」

 焦った様に侍女のあをねが嘆願の眸をわたくしに向けた。
千代も「御義母上っ」と逃げ道に背を向けた儘部屋に座るわたくしに声をかける。けれどもわたくしは二人に背を向け主の御言葉を指でなぞっていた。もう火が中へと進行し始めている、早く逃げねば焼死の道が待っているであろう。
わたくしはなぞる指をぴたりと止めて千代を見ぬ儘で「千代も、あをねも早くお逃げ」と発する。
もう限界近くまで火が押し迫っている。
あをねは千代に「千代さまはお先に、玉様にはこのあをねが付きまする」と千代をあをねが逃がした。
 轟々と聴こえるこの焔が燃ゆる音は不思議とわたくしに恐怖を与えはせず、まるで教会で謳うという聖歌の様にも聞こえた。

「玉様、忠興様との約束の為で御座いますか」

 あをねが悲しそうな音階であのお方の、忠興様の名前を出す。
これはあのお方が私に言った事で駄々を捏ねる子供の様に居続けようとしているのだろうか。

「玉よ、お前を他の誰の手にも触らせはせぬ。若しもその時が来たら」

 嗚呼、あの時忠興様は其の先を何とおっしゃったのか…焔の音が五月蝿くて思い出せない。
あのお方の事だから「死ね」と仰せになられたのかも知れぬ。わたくしが他の誰か、男の目に映る事も、触れられる事も極端に嫌がっていたのだから。若しも、その時が来たなら触れられる前に、捕らえられる前に死ねとおっしゃったとしても可笑しくなど無い。
 逆に其方の方が忠興様らしい気さえするのだ。

「玉様っ…」

 あをねが懇願するような声をわたくしの背に投げかける。

「あをね、一体何を…玉様!何をしていらっしゃるのです!早う、お逃げ下され、時期に石田の放った兵が此方に着きまする」

 驚愕の声を上げたのは家老である小笠原秀清だった。
玉の居る奥殿までは少しの時間がある為まだ逃げられるが時を誤れば捕まって仕舞う。其の為小笠原は二人を急かした。
 少し枯れた様な声で逃げろと聞き飽きたかのような言葉をわたくしの背に投げた。小笠原はあをねに「玉様はこの私が引き受ける」とあをねに言い聞かせ、あをねを屋敷の外へと先に逃がす。

「忠興様は、」
「…」
「忠興様は玉をよく愛してくださいました。其れはもう痛いと悲鳴を上げそうに成る程、深く地獄の底よりも深く愛してくださいました」
「は、」

 小笠原は訳が分からない、という声で玉の呟きに短く返した。わたくしの声は昔を懐かしむ様にするすると唇から零れ、其れはまるで蜘蛛の糸のように軽やかにこの部屋に未来永劫解けぬ蜘蛛の糸を張り巡らせていく。

「父が上総之介様に謀反を行った時も離縁もせずに玉を取り戻して下さいました、…私は何一つ忠興様に返す事が出来なかったというのに」

 わたくしの声が見えぬ蜘蛛の糸を伝って遠くにいる忠興様に届けば良いのに、とさえ思う。
以前、母上が言っていた「愛するという事は全てを許す事」だと、それは主の教えにもあり、其の一文を見つけた時は驚愕してしまったのを覚えている。
 愛する、とは許す事。
わたくしは忠興様の常人とはかけ離れたる程の深い想いを息苦しいと感じる事も御座いましたけれど、それも全て許す事により主の御言葉に実践する事が叶うのです。
 神の国に行き着くまでは程遠い距離かも知れませぬが、忠興様を、この世の全ての事象を許す事。さすればおのずと主の御意志に添える様な気がするのです。



***


 小笠原は玉の命に応じて明智玉の胸を突いた。
実に不思議な事ではあるが玉の体を貫いた感触は人間の其れとは随分違って酷くさらさらとしていた。まるで水を貫いたかの様に刃はするりと玉の体を抜けていった。
 ずぶりと抜いた刃という支えが無くなり事切れた玉の体はふうわり、命を失った蝶の様に畳の上へと落ちた。
 左手に持たれた主の教えを書いた文が畳を滑り小笠原の足元へ辿り着く。じいっと見据えた小笠原は玉の遺体が屋敷に残らぬ様、塵にしてしまう為に屋敷に仕掛けた爆薬に火をつけ自らも黄泉路へと急いだ。

 暫くして細川屋敷爆破の際、細川忠興妻・明智玉、家老・小笠原秀清が屋敷にて自刃したという報せが忠興の下に届けられる。

「生きよ、と言うたつもりであったが」

 悲しみに暮れる忠興の眸がゆっくりと閉じられる。
愛し慈しんだ妻の亡骸を抱き締める事も叶わない男に文を届けたのは一羽の鳩であったという。小笠原が爆破し影も形も無くなった細川屋敷から真っ白な鳩が一羽飛んで行くのを隣の宇喜多屋敷に逃げ込んだ千代が見ていた。
 その真っ白い鳩ははたはたと忠興のいる場所まで来ると文を落とした。 今、唇をかみ締める様に悲しさを其の身に浸透させている忠興の手には悲報の報せと共に鳩が落とした一枚の文が握られている。


「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」


 玉の句を見詰める忠興が玉の魂を欲し求めていた。それは後に千代と忠隆を離縁させ、廃嫡するという行為に結びついた。
 二人を、千代と嫡男、忠隆を離縁させても何もならぬ事等忠興自身よく分かっていたが、玉の面影を求むれば求むるだけ許せなかったのである。
 忠興の傍には其れから鳩が居続けた。
その真っ白な体はまるで、玉の清廉な心の色を具現化した様であった。
鳩は何時でも忠興の傍に控えていた。

(忠興様、 愛とは許す事。試練とは乗り越えるべきもの)

 まるで玉がずうっと忠興に語りかけているかの様な鳩の姿に名前を「玉」と付けられた。

「ほうら、玉。お前の好きな花が咲いたぞ」

 鳩の姿は既に見えて居なかったが其処には玉が優しく微笑んでいるのが見えた。
鳩に呟く忠興の姿は既に全てを赦したかの様でもあった。





(了)





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