06/21 01:05 犬神



 悠久の昔、京は貴船の奥深く呪詛の儀があちらこちらで行われていた。
人の妬みや嫉みに使われた犬たちは或る者は蠱道という結末を歩み、或る者はそれでも生に固執して、犬神へと身を窶していった。
 日ノ本、列島の西方にその犬神が多く生息する里があるという。闇がネオンの光にその生息地を奥へ変えた平成の今でも犬神の里は存在する。
 幕末から明治へ流れて百四十年余り。
 我関せずと言った顔で里を人の理から二歩ほどずれた場所に置いている犬神筋の家の者も、憑いている犬神たちもころころ増えては減り、家の者に言伝られた使いをしては暮らしている。
 ころころころ。
 毛玉が転がる。
あちらでころころ。こちらでころころ。
真ん丸い毛玉が里の至る所に転がっている。

「出雲、貴船に出かけるよ」

 出雲、と呼ばれた白い毛玉は丸く転がっていた体を一度伸ばして、また白い体を丸めて、名を呼んだ主人の下に文字通り転がっていく。
 出雲もまた貴船で犬神に変わり、山の中で徘徊していた所を、主人である菖蒲という犬神筋の女に拾われた。それは何時頃の出来事であったか出雲の小さな脳味噌で思い出すのは少し難しい。
 ただ出雲も、主の菖蒲も恐ろしく年を取っている事だけは分かっていた。
 朝霧の濃霧の中で染めた出雲とそっくりな銀の絹糸に似た菖蒲の髪はさらさら揺れる。その絹髪の中で白い肌に浮かぶ眸は薄い色を燈していた。
 一見老婆の様な風貌ではあったが、するする滑る肌は生娘の様に柔らかだった。
 京は貴船と言えば納涼床などが有名ではあるが、それは表向きの貴船の話。裏では未だに呪詛の成就を、と訪れる者は後を絶たない。
犬神筋の里は人世の理からずれた場所にあるので、列島の西方に位置していても京の社へはものの半刻ほど歩けば着いてしまう。森を抜け、川を下り菖蒲の髪に似た濃霧が辺りを染め始めれば、既にそこは神域に入っている。
 貴船へ向かう菖蒲の横を歩きながら上にある菖蒲の顔を見上げても菖蒲が幾つなのかなど出雲に推し量る事は叶わなかった。
 菖蒲は犬神筋の一族の中でも直系の家の娘で、その力は一族の中でも一、二を争う。
 力の強い人間はそれを盾に威張り散らす者と、力に全く興味の無い人間とがいる。菖蒲は後者である。  
一族の中でも強い力を持っていてもそれを振りかざさない。犬神から見ればそれは善い主だった。
 然し、菖蒲は付き合う者の趣味が悪い。
例えば古いあやかしの森の向こうにある狐の里に住む牡狐。これは性悪である。それから一つ目の里の貿易商など。性格は牡狐よりか幾らかましだが、こちらは変人である。先日も京は安部の屋敷で術師の男にからかわれた事も出雲の記憶に新しい。
数えだせばきりが無いが、兎に角まともな人材と菖蒲は縁がない。
菖蒲は暇を見付けると出雲を伴い、貴船に出掛ける。納涼ではない。貴船では今でも犬神に身を窶した元犬たちが後を絶たない。菖蒲はそれらを拾ってきては里で使役する犬神にするのだ。
 その所為で、今では里中が毛玉だらけである。
 あっちでころころ。こっちでころころ。
 犬神の一番好きな遊びが毛玉遊びであるから、これは致し方ない。勿論出雲も毛玉遊びは大好きだ。ころころ転がると何だか自分が犬だったとは思えない。尻尾を追い掛け回していた日々が夢の様に遠く思えるものである。

 貴船の社の奥の森は既に神域で、濃霧が立ち込める場所である。その中を白髪の女と白髪の犬神が歩いていく。
 遠くで哀しく切ない声が聞こえた。
 あれは犬の呪詛を行っているのだ。一種の蠱道である。犬を繋いで飲まさず食わさず、餓死する寸前で首を切り落とす。すると犬の首は飛んで食べ物に喰らいつく。それを焼き、骨に変えて器に入れ祀る。すると犬は人間に取り憑き大願を成就する。帝が京でご存命であった頃、禁止された民間呪法である。 まずはその犬を決める為に二匹の犬を繋ぎ食べ物はやらずに置いておく。やがて食べたい、飲みたい、その欲求を満たそうとする。この呪詛で大事なのは飼い主を欲する事だった。ただの犬では駄目だ、飼い主を好きな犬で無いと勤まらない。愛されていた犬と飼い主の関係が呪いの欲求を満たすのだ。
 一匹はそうやって呪詛の為に使われる。
 もう一匹は飼い主よりも、生へ執着する。これはこの呪法には向かない。生きる事に精一杯になり、飼い主の事も隣で繋がれている犬の事も忘れる。そうしていると、やがて犬の周りに鬼火が出現し始める。人が生成に変わる時と同じで、こうして生きる事に執着した犬は鬼になるのだった。
 遠かった切ない犬の声が近づいてきた。この近くに繋がれているのだ。
 出雲もまたそういう犬の成れの果てに犬神になった者だった。出雲の小さな脳味噌ではどういう飼い主だったかなど忘れてしまって、如何頭を捻ってみても思い出せないけれど、結局捨てられたのと同義だと出雲は解釈している。そして野良犬になった所を貴船に着ていた菖蒲に拾われた。里にいる毛玉の多くはそういう経緯の毛玉ばかりである。
 犬の声を辿って歩いていた菖蒲が「あそこだね」と呟いた。言われて出雲も菖蒲の見ている方向へ双眸を向けた。そこは貴船の中に存在する石造りの無人の社が建っている。本殿とは違う、この山で呪詛に使われた犬たちを奉っている社だった。
塚の様な簡素な作りの社に括り付けられた犬が一匹、既に空腹の蟲は底を付いて、ただ繋いでいる縄を解きたくて鳴いているだけだった。一匹しかいないという事はもう一匹は蠱道に使われる為に首を切り落とし、焼かれた後なのだろう。繋がれた犬の近く、地面が焦げた場所があった。
 菖蒲は事切れる寸前の犬に近づく。
 ゆらり、鬼火が揺れる。嗚呼、既に犬神に成っているのか、と出雲は思いながら見守る。

「お前、何時からそこにいる?」

 唸っている犬が爛々とした眸を菖蒲に向けた。
はて、犬神に成る途中の犬に通じるのかしらん、出雲は小さな脳味噌で考える。小さな脳味噌なので既に自分も昔、目の前の犬の様に呪詛と犬神に変わる苦しさで菖蒲に牙を剥いたなどという事は記憶の彼方、脳味噌の端の端に追い遣ってしまっていた。

「主人の顔が思い出せるか?」

 菖蒲の言葉に唸っていた声が少し弱まった。
 追い討ちをかける様に菖蒲が主人はどんな人間だったか、女だったか、男だったかなど聞いていく。
 出雲の見つめる犬の眸は戸惑い揺れていた。思い出せないのだろうな、と出雲は思った。もう忘れてしまっているのだ。飼い主と暮らした過去など、全て忘れてしまうほど生きたかったのだ。
 犬神筋の里ではこの民間呪法は忌み嫌われている。今日では菖蒲の様に野生の犬神を拾ってきて使役するのが普通となっていた。
 但し、只拾ってきただけでは犬神として使役する事は不可能だった。そこで薬を使う。
 日食の日に落ちてきた流星、隕石を七日間里の湧き水につける。すると流星から浮遊する力が抜けて水に溶け出す。そこに色々な薬草を煎じた汁を混ぜ込み、望月の光を当てる。こうして作られた薬が犬神と犬神筋の者を繋ぐ契約の水となるのだった。
 日食の日に落ちてきた流星を「ぎやまん」と呼んだ。それは本物のぎやまんの様に綺羅綺羅していたからである。綺羅綺羅光ながらぎやまん流星は里に落ちる。それを使い作られる薬は「ぷらしいぼ」と呼ばれた。嘘の薬、偽者のぎやまんから出来る薬であるのでそう呼ばれた。
 懐から菖蒲がぷらしいぼを出す。小さな硝子瓶に入った綺羅綺羅のぷらしいぼを見つめて出雲は思い出す。
 あれは甘かったなあ、この世のどんな食べ物よりも甘くて美味しかった。あれほど馨しい香りの甘露だってないだろう、と思うと自然に二股の尻尾が揺れた。

「ほら、水を飲みな」

出雲に言った時と同じ科白で持ってきていた器に水を入れ、持って来た干し肉を目の前の犬神の前に置いた。菖蒲は繋がれていた縄を小刀で切ると、犬神は何の疑いを抱く暇も無い、とでも言う様に水を飲み始め、干し肉を噛み始めた。
 犬神筋の家の者は水甕にこの薬を溶け込ませ、その中で犬神を飼う。溶けた薬が犬神の体に浸透する事により使役しやすいあやかしへと変えるのだった。
 しかし菖蒲は水甕で飼う事を厭う。
水甕に漬けると犬神が濡れて雨の日の犬の様になってしまう。濡れるとふわふわ風に靡いていた毛玉がべったりと肌に張り付いて、それは中々情けない。「だって濡れ鼠みたいじゃないか」と言って里の老人たちが大きな溜息を吐いた事もあった。
 菖蒲は里内をころころ転がる毛玉が好きだった。
 生前あんな風に飼い主の妬みなどに使われて、苦しい思いをしたのに、犬神になってまで縛られなくてもいい。里の中では好きな毛玉遊びをして、ころころころころ転がっていればいい。
 里の中が毛玉で覆われたって構わない、それは開放された平和だと菖蒲は昔出雲に話して聞かせていた。小さな脳味噌の出雲には菖蒲の心など推し量れなかったのだけれど「お前も愉しく過ごしな」と言って撫でてくれる菖蒲の手のひらが好きだった。
 きっとこの目の前の犬神も菖蒲に言われる様に毛玉遊びをして里内をころころ転がるようになるのだ。出雲は犬神の墨みたいな眸を見つめた。
 薬は即効性であったので、すぐに犬の姿が変わり始めた。黒い柴犬の形であったのだが、ぐぐぐ、と体躯が伸び始める。そうして今度は一本だった尻尾が二股に変わる。すると犬神は徐に毛玉になりはじめた。真っ黒い毛玉がころころ転がる。
 それに続く様にして出雲もまた毛玉になって菖蒲の周りで転がり始めた。
 菖蒲が転がる出雲に聞く。

「愉しいか、出雲」
「うおん!」

 出雲が一つ鳴くと菖蒲が美しい縁取りの眸を緩めて「そうか」とだけ返した。
 神域に漂う濃霧に日差しが差し込んできた。新しく犬神になった黒い毛玉には「壱岐」という名を菖蒲は与えた。






(了)




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