ワニノコが攫われてから研究所は慌ただしく、常に誰かがいた。それでも夜が近づけば人が減るのが当たり前で、ヒビキが去ってついに博士と2人っきりになった時、チコリータは心細く思っていた。無人の研究所は寂しいのだ。
 今までは、ボール越しとは言え友達2匹が一緒だったのに、ヒノアラシが居なくなって、ワニノコがあんな風に攫われて、その晩に1匹にされるのは嫌だった。ネガティブな気持ちは底なし沼で、浚われたワニノコはもちろん引っ込み思案なヒノアラシも心配になってしまう。
 博士に連れて行ってと頼みたかった。けれど切り出すタイミングが掴めず、もう自力でボールから出られると言うのにチコリータはボールの中で丸まっていた。
 チコリータが意地を張ってしまう時は、いつも2匹が手を引いてくれた。マイペースなところがあるワニノコは焦ることなんてなくて、居るだけで落ち着かせてくれた。気遣い屋なところのあるヒノアラシはチコリータの意地っ張りを察するのが上手だった。2匹ともチコリータの意地っ張りを許してくれる、優しい友達だ。
 どうしてるだろうと思うとたまらなかった。助けられなかった事を憤っているだろうか、それとも悲しんでいるだろうか? いや、きっと心配してる。ワニノコも、ヒノアラシも。

 チコリータは更にぎゅうう、と小さく丸まった。楽しかった今朝までを思い出せば出す程、悲しくてやりきれない。トレーナーに負けないくらい、皆旅立ちの日楽しみにしていたのに。
 がちゃりと扉が開いた時、いよいよ1匹になるんだと思った。けれど部屋に誰かが……聞き覚えのある声に顔を上げると、コトネを送りに出た少年が戻って来て居た。博士がボールを放って、その少年が自分のトレーナーなのだと理解した。
 緊張を強気で覆って見上げたチコリータに、人当たりの良い笑顔を見せて、嬉しそうに手を伸ばしてきた。その手は、今まで会った誰よりもぎこちなくて、全然心地良くなかった。

 少年はなんともおかしな人間だった。穏やかそうな笑顔を向けて来たかと思えば、変な名前を付けようとして、挙げ句博士の長話を肌寒い外などで聞き入るのだから。
 ずれた少年――リョウは、どうにもポケモンに慣れていないらしかった。ウツギ夫人に言われるままワカナの好物である野菜と乾燥フードを用意して、少々危なっかしい手つきでワカナの前に差し出すからハラハラしてしまう。

「はい、どうぞ」
「ちー」

 腹が減っていたので大人しく近寄ると、リョウはしゃがんだまま笑顔を向けてきた。細められた目は、笑みを押さえられないと言った風情だ。なんだか食べづらくて固まっていると、顔を覗き込むように少し首を傾げて「食べてみて、きっと美味しいよ」と笑顔で進めてくる。
 そうは言われても、一度気になった視線を無視するのは難しい。夕飯の準備を手伝っていた博士が笑った。

「そんなに見つめられたら食べづらいよ」
「ああ、そっか、そうですね。仕方ない、こっそり覗きます」

 リョウは立ち上がると夕飯の準備を手伝いに行った。なんとなくそれを視線で追って、ウツギ夫人が作った夕飯をテーブルに並べるのを眺める。笑顔を絶やさず、博士の息子とも楽しげに話している。
 ポケモンからすると人間の年齢は分かりづらいけれど、体の大きさはコトネより少し大きいくらいで、博士より小さく細い。きっとまだ子供と言っていい年齢なのに、息子に接する態度はまるで大人だった。
 ちくはぐだとワカナは首を傾げたが、良く知る人間の子供などコトネと息子くらいしか居ない。普通のことなのかもと結論付けた。

 ふと、リョウが腰のモンスターボールに手をかけた。出てきたのはシックな茶色と白の、飛行タイプのポケモン。苦手タイプである、しかも体が大きく目つきの鋭いピジョンの出現にワカナは固まってしまった。それに気付かず、リョウは鞄を漁って食器とフードを取り出し、さっさと準備をしてしまう。
 ワカナが固まっていると気付いた時はすでにピジョンが食事を始めており、困ってしまったリョウに博士が苦笑を浮かべた。

「ワカナ、大丈夫だよ、このピジョンはすごく温和しいから。君に危害を加えたりしないよ」
「こんな大きな飛行タイプは初めてだもんね。――おいで、チコリータ……っと、ワカナだったね。ワカナ、リョウくんの足元においで」

 リョウが立ち上がり、手付かずの食器を片手に取る。「大丈夫だから、おいで」と笑うリョウに大人しく着いて行くと、ぱっと本当に嬉しそうな笑顔を見せた。それで笑顔は愛想笑いの時もあるらしいと気付いたが、別段それを不快とは思わなかった。昼間の険しい顔をした少年を思えば、無愛想より笑顔のが良い。
 ふと、リョウが泥棒と同じく赤い髪で、つり目だと気付いた。けれど全然似ても似つかない。それは笑顔のせいなのか、自分を、ポケモンを見る目が笑み崩れるようなものだからか。分からなかった。

 食事の後もリョウは事ある毎にワカナを構った。それは構うと言うよりも、もうちょっかいを出すレベルで、博士が苦笑しているのを見た。叩いても懲りないし、ワカナが何もしてなくても嬉しそうに見つめてくるのだから鬱陶しいの一言に尽きる。
 変な少年だった。けれど少し感謝もしていた。リョウはワニノコを取り戻すと言ってくれた。それに心細い夜を過ごさなくて良いのだから、取りあえずはまあ、仲良くできそうだ。ただし、

「ワカナ、一緒に寝ない?」
「………………」
「そんな冷たい目しなくても……」

 ちょっかいをかけなくなってからだ、とワカナは鼻を鳴らした。