イーブイは最近、1人の男の子の元に居る。病院で多くの人と触れ合って来て、今までで一番気にかけていると言ってもいい。
 最初に会った時、彼は酷く憔悴して見えた。カーディガンの中で泳いでいる体は骨が浮き出て、顔には子供とは思えない疲れと暗さばかりが浮かんでいる。泣くことも喚くこともなく、とても静かで暗い口調。自分を抱く手は冷たく、力も感じられない。何かの拍子に傷付けてしまいそうで怖かった。いくら小柄とはいえ、イーブイはポケモンだ。やせ細った人間の子供よりずっと強い。
 隔離病棟から少しの間の散歩を許されたのだと教えて貰ったけれど、そういう患者にありがちな常軌を逸した雰囲気はなく、ただ痛ましく思ったのを良く覚えている。





 少年と2人きりになったイーブイは、屋外に連れ出すことにした。室内に籠もってばかりなんて良くない。庭は室内からでも見られるけれど、春の柔らかい風と暖かな日差しに包まれて眺める景色はとても素敵なのだと教えてあげたかった。
 庭に行く道のりを遠回りする。病棟からも素敵なものは見える。もしこの先屋外の散策を禁止されたとしても気分転換できるように教えてあげたのだ。
 森の中にある花畑を臨む窓、空が広く見える明るい通路、夏でも涼しい風が通って花壇も見える日陰。知る限りを案内したけれど、少年には伝わらなかった。ポケモンと意志疎通をする気がないのか、綺麗なものに感動する心を亡くしてしまったのか。ただセラピストに言われた「一緒に過ごしてみて」の言葉通り、自分を見失わないように見つめる暗い瞳が悲しかった。

 庭の木陰に着くと少年は座り込んでしまった。昼食の後の微睡むような心地よい時間なのに、うつむき気味でぼんやり自分を眺める少年は何も感じていないようだった。
 こう言ったなんの反応も返さない患者など今まで任されたことがないイーブイは困ってしまった。助けを求めて、実はこっそり見守っていたセラピストへ視線を送る。と、小さく手招きされた。1人で残していいのか迷って、さっさと戻れば良いと足早にその場を後にする。
 セラピストは「おいしい水」と書かれたペットボトルを差し出して来た。500mlのそれに穴を開けないようくわえるのは難しがったが「俺が渡したんじゃ、あの子警戒するから」と言われれば頑張るしかない。結局キャップの辺りを口に含み、引きずりながらバックで戻る事にした。
 イーブイが戻った事に気付いたのか、少年が立ち上がる気配がした。そのまま近付いて来たので立ち止まると、少年は少し離れた場所で立ち止まり訝しげな視線を寄越していた。その目がペットボトルを捕らえる。
 目をしばたかせ、少年が近付いてくる。その仕草が今までの疲れきったばかりのものではないと感じて、イーブイはその場にちょこんと座った。

「……。それ、水?」
「ぶい」

 しばしの逡巡の後、問う意味の無い質問をされたけれど、イーブイはこくんと頷いて答える。せっかく興味を持ってくれたのだから答えてあげたかったのだ。

「……あの……。もしかして、俺に、だろうか」
「ぶいっ」

 分かってくれたことが嬉しくてイーブイの尾が揺れた。立ち上がってもう一度キャップをくわえ、少年に手渡すべくまた引きずる。少年も自ら距離を縮めて、ペットボトルを拾い上げた。それに満足したイーブイの見ている前でぽろりと涙をこぼすものだから慌ててしまった。こんな風になったとき手助けしてくれるセラピストは、今日に限って見ているだけだ。気付いていないわけでもないだろうに。
 取りあえず落ち着ける場所へ、木陰に誘導しようと、後ろを窺いながら先導するべく歩き出す。少年はちゃんと着いて来た。ほっとしてお座りしたイーブイの隣、と言っても何故か少し離れたところに少年は腰を下ろす。自分で涙を拭う少年に何もしてあげられなくて、イーブイはただ膝に乗り上げた。何か辛い事や悲しい事があったとき、側に誰かが居てくれるだけで楽になる。セラピストの教えに従ったのだ。

 少年の涙はなかなか止まらない。カーディガンから取り出した緑のタオルハンカチで涙を拭いて、鼻水をすする。可哀想だと思う。が、昼食後に気持ちよい木陰で暖かい人の膝に座ってしまって、イーブイは次第に眠気に飲まれていった。





 目を覚ました時、イーブイは慌てて起き上がった。泣いてる子を放置してしまったと、起き抜けにも関わらず焦りから意識は完全に覚醒していた。少年を振り仰ぐ。自分が湯たんぽ替わりにしている少年は、木に凭れて眠っていた。
 イーブイは再びその場に落ち着いた。クマで真っ黒になっている目は、泣いたせいで痛々しく腫れていた。それは後で舐めてやろうと決める。久し振りに眠れた子を起こしてしまうのは忍びなかった。