トレーナーが来るのだと聞いて、チコリータ・ヒノアラシ・ワニノコの3匹はわくわくしていた。ポケモン協会のブリーダーの元で生まれ育ちウツギ研究所へ来た3匹は、外の世界など散歩の分しか知らない。けれどそれだって楽しいのだから、きっとトレーナーとの旅はもっと楽しいに違いない、と話し合っていた。
 ヒノアラシの旅立ちはあっけなかった。どきどきと緊張する3匹の前へ、たまに研究所で見かけていた少年がやって来て、博士の説明を聞き終わるとヒノアラシを連れて行った。
 あまり会った事はなかったが、優しい上にしっかりした男の子だと知っていたので、チコリータとワニノコは安心した。照れ屋が過ぎて引っ込み思案ぎみのヒノアラシを心配していたのだ。
 後は翌日、ワニノコかチコリータのどちらかが見知らぬ少年と旅立ち、残った1匹は研究所を手伝っているコトネと研究所の間を行ったり来たりする予定だった。





 ヒノアラシが旅だった日の午後。無人になった研究所の奥で、チコリータとワニノコはボールの中で微睡みに浸っていた。
 心地よい午睡を、がしゃん、と籠もった騒音に妨げられる。目覚めた2匹は、(研究以外には雑なところのあるウツギ博士が物を適当に積み上げて、それが今になって倒れたのだ)と思った。
 荷崩れは良くある事だった。だから2階に居る博士も音で察したのだろう。ポケモンの耳にははっきりと、動き出した博士の足音が聞こえた。きっと片付けるために降りてくる。

 からからからと窓が開く音がして、とん、と軽やかな足音が続いた時、2匹は違和感を覚えた。
 近付いてくる足音は博士のものではない。助手のものでも、いつもマリルと一緒のコトネのものでもなく、そもそも聞き覚えがない。なにより、耳を澄ませば博士の現在地はまだ2階だと知れた。

 おかしい、誰だ、と混乱する2匹を、目つきの悪い少年が見下ろした。2匹は咄嗟に「見知らぬ少年と会うのは明日じゃなかったか」と考えた。驚いて思考力が落ちていたのもあるが、善意の人間の元で育ってきた2匹には、そもそも泥棒と言う発想がなかった。そういう悪い人間が居ると知ってはいても、テレビの向こうの遠い世界の話だったのだ。
 険しい顔付きの少年はワニノコのボールを掴んだ。驚いたワニノコはボールの中で「あれ〜?」と不思議そうに首を傾げる。それは見る人が居たら「攫われかけてるのになんと暢気な」と呆れるであろう、焦りが欠片も見えない仕草だった。
 ワニノコも攫われそうになっていると認識している。が、良い対策が浮かばず、今のところ生命の危機も感じていなかったので、結果のほほんとしたまま攫われていた。

 一方チコリータは、遠ざかるボールに「ワニノコ!」と焦った叫びを上げていた。が、ボールの中でいくら呼ぼうとも声が漏れることなどない。助けるために外へ出ようとボールに体当たりしても、揺れる事もなければ開く事もない。
 カン、カン、と博士が降りてくる音がする。もどかしい程に遅い、間に合わない。ワニノコを攫った少年は素早く側の窓を開け……られていなかった。
 元々、研究所の窓は防犯のために鍵が2つあって、一つは内側に鍵穴があるシリンダー錠である。開けるためには鍵を差し込む必要があるのだ。
 先に少年が割った玄関に近い窓は、昼間はクレセント鍵しかかけていないから簡単に開いた。けれどチコリータたちの居る奥側は、パソコンやデリケートな電子機器があるため滅多に窓を開けない。だから昼間でも2つの鍵でしっかり施錠されていたのだった。

 予想外の事態だったのだろう。少年は素早く辺りを物色し鍵が見当たらないと解るなり、椅子を手にし、それを窓に向かって躊躇なく叩き付けた。派手な音を立てて窓が割れ、研究所の外にある階段がかんかんかんとけたたましい音を立てた。異変を感じ取った博士の足音は、すぐにじゃりじゃりと地面を踏みしめるものへ変わる。機材の雪崩などではなく何か異変があると気付いたのだろう。
 けれどもう遅い。少年は椅子を窓の下において踏み台にし、割れた硝子を物ともせず外へ飛び出してしまった。出入り口の鍵を開けてようやく研究所へ入った博士は、最初に割られた出入り口に近い方の窓に気を取られ、ワニノコが攫われた事も大きな音の原因が奥側の窓だとも気付いていない。それを知らせようとするチコリータの声も、ボールに阻まれて届かない。

 ウツギ博士が奥の惨状に気付いたのは、少年が逃げおおせた後だった。慌てて外に出ても既に影も姿も見当たらない。平静を失ったままの博士がチコリータの安否を確認し、ワニノコ以外に盗まれた物がないか確認し、コトネとヒビキと警察に連絡を入れる。コトネは留守電になってしまったようだが、ヒビキと警察は急いで来るようだ。

 チコリータのボールを機械に乗せたまま、博士がなにやら操作する。「体当たりしてごらん」と言わるままに体当たりすると、チコリータは外に出ていた。居ても立ってもいられず外に向かおうとしたが、チコリータには扉を開けられなかった。チコリータのボールを持った博士が追い付いて来て開けてくれる。
 ようやく出られた外には、もちろんワニノコの姿はない。もう逃げてる事は分かっていた。自分1匹じゃ追い付けないであろうことも。それでも、友達を攫われては、居ても立ってもいられなかったのだ。
 しょんぼりと頭の葉がうなだれているチコリータを、同じくしょんぼりした博士が抱き上げた。

「ごめんね。君たちが自力で出られるように設定しておけば、ワニノコも助かっただろうに」
「……ちこちぃっ」

 チコリータは力なく頭の葉で博士を叩いた。勝手に遊びに出て何か間違いがあってはいけないと、研究所の3匹のボールは自力で出られないようロックされていた。うっかり自分たちが怪我をしないようにと言う心遣いだったのを知っていたから、強く責める事は出来なかった。
 目の前で友人が攫われてしまったのに、なんの助けにもなれなかった。何も出来なかった自分が悔しくて、少しだけ博士に八つ当たりしてしまったけれど、そこには行き場のない気持ちが籠もっているのは博士も良くわかっていた。
 丸まってしまったチコリータを抱いたまま、博士は難しい顔で、綺麗に晴れている空を見上げた。