目覚めは最悪だった。鳩尾を殴られると内蔵にダメージが通るのか、吐き気がして気分は最悪。そしてとどめをさすように、やはりピチューは連れ去られていた。ヒビキとコトネを起こして追おうとしたけれど、手がかりはなく、俺とヒビキは体調不良で自力で歩くのも辛い状態、コトネは初めて味わった一方的な暴力に衝撃を受けて真っ青になって精神的にダウンと、森を抜けるのさえ難しいような状態だった。
 仕方なく穴抜けの紐でヒワダタウン側のゲートに戻ると、そこの警備員は俺たちの満身創痍っぷりに事件の匂いを感じたらしく、速攻で病院と警察に連絡を入れてくれた。病院で治療を受けて、夕方頃になって警察が事情聴取にやってきた。俺たちが落ち着くのを待った、わけではなく、他の事件で忙しかったらしい。俺にとって三回目の事情聴取だ。
 前回までの刑事さんじゃなくて少しほっとしたところへ、こちらはもうお馴染みのレンジャーのお姉さんがやって来た。

 彼女は一つのキャリーケースと、治療に出されていた俺たちの手持ち、それからヒビキのポッポを伴って来てくれた。
 ポッポはヒビキのピンチを感じ取って、空から助けを求めに行ってくれたのだ。で、森の別所でレンジャーの活動していたお姉さんたちを俺たちの倒れていた場所に誘導してくれた。でもそこは既に俺たちが去った後で、サーナイトたちに連れ去られたと思ったのかポッポはお姉さんに着いて行って、ピチュー奪取の手伝いをしたらしい。なんと賢い子か。
 キャリーケースの中には色違いピチューが入っていた。けれどピチューは身を縮込めて、可哀想な程にぶるぶると震えていた。一体なにをされたのかと思ったけど、よく考えたら既に傷ついているところへ暴力的な事件が起こったのだ。人間はおろか、ポケモンまで怖くなってしまったのかもしれない。

 一晩入院するように言われた俺たちだったが、コウキに会うため、ピチューをボールに戻して夜遅くにポケモンセンターへ向かった。事件の守秘義務があって詳しくは話せなかったが、とにかく俺は謝った。人の微妙な表情さえも再現する良く出来たホログラムは複雑な顔をして、少しの無言の後、事件に巻き込まれたなら仕方ないと苦笑いをした。それに任せると決めたのは自分だから、リョウさんの責任でなく、自分の責任だ、とも言っていた。その声音は納得しているものではなくて、俺は面目ないと土下座して詫びたい気分だった。そんな事を公衆の面前でしたら相手にも迷惑をかけるからやらなかったけど、本当にどう詫びたらいいのか、いや、どうしたら責任を取れるのかわからなくて、それが申し訳なくて、情けなくて。
 ピチューはコウキが声をかけてもボールから出てこなかった。その事実にコウキはピチューを連れて実家に戻ると、俺たちに告げた。田舎でのんびりピチューの心を癒すんだと。旅を中断するんだと。

「リョウさんたちも巻き込まれただけなんですから、気にしないで」

 そうやって気遣ってくれるのが余計に申し訳なかった。俺がした事といえば、結局、関わった人全員に迷惑をかけただけなのに。





 事件の翌日、俺たちは迎えに来たコトネの母親に連れられてコガネシティへ向かった。コトネとヒビキは親が居るから、事件直後にそこへ連絡が行って、一番近くに住むコトネの母親が迎えに来たのだ。
 コトネの母親は自分の親の家業を手伝うため、コガネに住んでいる。つまり、育て屋夫婦の手伝いをしている。
 コトネは実の娘だし、ヒビキは家族ぐるみの付き合いだと言うから身内同然だ、だから連れて行くのは分かる。でも俺は赤の他人であり、バイトとしても今は使い物にならない、と言ったのだが、コトネ母は人好きのする明るい笑顔でもって「子供が遠慮しないの」と俺まで引っ張っていったのだった。パワフルな女性だ、そして紛れもなくコトネと親子だと感じさせる人柄だった。

 酷く捻挫してテーピングぐるぐるの俺と後頭部強打で頭にサポーター着けっぱなしのヒビキは「今日一日は絶対に安静」と一切の仕事を免除されて、育て屋夫婦や従業員が住む母屋でぼーっと過ごしていた。ヒビキは動けない程じゃないみたいだが、念のためらしい。コトネはすでに手伝いに出ている。まだショックが抜けてないだろうからと「ゆっくりできないのか?」と聞いたら、「動いてた方が気が紛れるの」と苦笑された。ポケモンの世話をするのもセラピー効果があるんだろうか。

 俺は、暇なときにざーっと目を通しておいてと渡された育て屋従業員マニュアルに視線を落としていたが、殆ど頭に入ってなかった。ページも一向に進まない。
 ピチューの事、コウキの事、ヒビキとコトネを巻き込んだ事。後悔と自己嫌悪が渦巻いて、先の事が考えられずにいた。どうしたら償えるだろうか。俺がここに居ることでまたシナリオから外れた出来事が起こるんじゃないか。危険に巻き込むんじゃないか。次に遭遇した時のために準備しておこうと思ったのに、それは全然叶ってなかったじゃないか。それどころか……。

 思考がループする。気分は一度沈みだすと際限なく沈んでいく。ましてや今回は取り返しのつかない事をしでかして、挽回方法が全然わからない。
 溜め息が出そうになるのをすんでの所で堪えて、隣のヒビキに気づかれないようゆっくり息を逃がす。ヒビキに溜め息なんか聞かせたくない。悩むのも沈むのも俺の自由だが、それでヒビキに気を遣わせるのは本意じゃない。
 俺が警察沙汰の危ない目に会うのは三度目だ。一度目は偶然、二度目は運が悪かったですむだろうけど、三度目となると必然的なものを感じてしまう。
 そう思ってしまうのは、ヒビキの歩む道がシナリオに沿っているって事もある。ヒビキと同じように俺の歩む道も既にシナリオが用意されているんじゃないか? それはこれまでのように危険が付き纏うものなのでは?
 この世界ではそんな事が起こるんじゃないかと不安になる。バカバカしいと笑い飛ばすには、不安を膨らませる要素の方が多い。いや、俺がネガティブになってるからそう考えてしまうだけだろうか。

 しかし不安に拍車をかけるものがある。自分の性格だ。根性無しの中途半端な人間なのは自分が一番知っている。これは自分を卑下しているわけでなく、25年生きてきて実際にそうだと実感した、現実だ。
 俺は誰を蹴落としても一番になりたいと言う情熱や、何かを犠牲にしてまでやりたい事を最後までやり遂げるような覚悟とは無縁だ。こんな中途半端者が勝負の世界で生き抜けるわけがない。そんな気概のない人間が、今回の事についてきちんと責任を取れるだろうか?

 ごちゃごちゃ考えてはいるが、とどのつまり、俺はへこんで、自分がこの先トレーナーで有り続ける事に疑問を抱いていた。

「ぶぅい」
「……くすぐったい、モチヅキ」

 膝で丸まっていたイーブイが後ろ足で立ち上がって顔に顔をこすりつけてきた。その背中を撫でてやると気持ちよさそうに喉を鳴らして、嬉しそうにゆらゆらと尻尾を振る。少し離れた所で日向ぼっこをしていたメリープが眠そうな顔のまま参加してきて、頬の辺りへぐいぐいと頭を押し付けられる。チコリータはこういう愛情表現はしない質なので、相変わらず俺の背中にちょっとだけ体重を預けて大人しくしている。
 3匹は俺の内心など知ったことではないようで、また、こないだ瀕死になった事さえも忘れているかのような暢気さがある。変わらない日常の光景に安堵を覚える一方で、ピチューがここに居ない事実が胸に刺さる。

「う、分かった、分かったって。落ち着けって」

 自分で言いながら何がわかったのかさっぱりだったが、なんとなく言ってしまった。宥めるつもりでメリープの背中も撫でると、メリープは小さくんーんーと漏らしてますますぐいぐい迫ってきた。口元を顔に押し付けられると、主食が草なのでなんとも青臭い。
 なんか機嫌良さそうだ。つか、この2匹はほんっと暢気と言うか、マイペースと言うか。

「リョウくんとこって、ホント仲良しだよね」
「こいつら人懐こいからなあ。つか、ヒビキくんとこも仲良しじゃん」

 ヒノアラシを膝に乗せてのんびりとマニュアルを読んでいたヒビキが面白そうな顔で言った。仲良しっちゃ仲良しなのかもしんないけど、イーブイとメリープが犬気質なだけだと思う。あ、となるとチコリータは猫だな。ちょっと気位高い系の。気軽に私に触れないで頂戴、みたいな。
 会話してる間もぐりんぐりんと頬擦り(激)をしてくるのが地味に邪魔だ。可愛いけど。なのでメリープの顎の下をかいて注意をそらす。すると今度は手に顎をこすりつけ始めた。うーん、ジョーイやコトネがこうすると大人しくなってたんだけど、俺だと上手く行かないなあ。

「ああでも、クルルとココはこういうことしないよなあ」
「うん、ヒノノだけだね。でもココは懐こいよ、膝に乗らないけど、気付くと足にぴったりくっついてるの」
「ヒビキくんが立ち止まるとすすすーって寄ってきて、控えめな感じが可愛いよな」
「でしょ」

 自慢げなヒビキに少しだけ笑いが浮かんだ。やっぱどこもうちの子が一番可愛いんだよな。
 ……そう、可愛いんだ。

 旅立つ前は、俺はただ帰りたくて、なぜ俺がこの世界に子供の姿でいなくちゃいけないのか知りたくて、帰れる可能性のある地方――空間と時間を司る伝説のポケモンたちが居るシンオウへ行くため、この地方から出るのにチャンピオンの地位を求めた。そのために、共に旅をするであろう手持ポケモンを、最後には捨て置いていくと決めていた。
 でも、イーブイやチコリータを何度も何度も瀕死にさせて、それなのに何度も助けて貰って。メリープにはトラウマを作って、トラウマ持ちのピチューを更に追い詰めて、ヒビキとコトネを危険に巻き込んで。関わった人を不幸にしてまで、元の世界に帰るべきなんだろうか?

 いや、べき、と言うのは可笑しいか。元の世界から俺が居なくなったって、きっとそんなに変わらない。俺を大事に思ってくれた人の心は穏やかではないだろうけど、そんなの、例えば俺が事故で死んだとしても同じだ。誰にでも永遠の別れは唐突に来るものだ。そして人間は忘れる生き物だ。時が経てば、俺の事も過去になる。
 でも、この世界には俺の生きた25年は欠片も存在していない。今の俺を形作ってくれた、全てが存在しない。親も、兄弟も、友達も、好きで好きで就職した仕事も、とても大事に恋した人も、全てが遠い。でも、この世界に情が湧き始めているのも事実だ。みんな良くしてくれる。良くしてくれるんだ、そんな人たちに、恩を徒で返すのか?

 俺が元の世界に帰りたいと願ったのは、あちらに大事なものの全てがあったからだ。旅立つ前はそうだった。けれど、今はもうこちらにも情が沸いてる。絆されかけてる。
 旅立つ前と同じ考え方では居られない。俺は、目的のために誰かを犠牲にして、それでのうのうと生きては行けない。誰かを犠牲にしてまで自分のしたいようにしたとして、きっと後悔する。一生、後悔する。

 旅立つ前は、心がまだこの世界を血が通ったものと認識できてなかった。主治医が俺を頭の可笑しいやつだと判断したのを知っていたから、この世界にとって俺は異物なんだと思ってた。頑なに帰りたいと願ったのは、主治医をはじめとした、俺を精神病患者扱いする周囲の反応も理由だった。
 25年分の記憶……自分の人生が幻だったなんて、認めたくなかった。自分が正常だと、信じたかった。俺の今までが幻だったと言うなら、その証拠を、間違いなく認めざるを得ない確固たる証拠が欲しかった。
 でも、結局病院では自分の今までを諦められるだけの材料がなかった。だから俺は、子供の身体になっていても、この世界が俺の知る世界でなくても、自分の人生を否定出来ない。郷愁も募る一方だった。
 けれど、旅にでて、否応無しに実感してしまった。この世界でポケモンは心を持って生きているらしいことや、病院以外では案外すんなりと俺を受け入れてくれる人が居ること。病院に居た時は針の筵に座っているようだったが、今ではそれも随分緩和されてる。前ほど居心地の悪さは感じない。

「リョウくん」
「んー?」
「僕、力になれないかな」
「え?」
「何か悩んでるでしょ」
「あー、悩んでるっていうか、反省」
「リョウくんのせいじゃないよ」
「うーん」

 励ましてくれてるのに曖昧に笑うしかない。隠してる事がありすぎて、それが俺に有利に働いてるから余計に申し訳ない。
 コウキの色違いピチュー、俺が居なければヒビキに預けられたと思う。本来の流れはそういうものだった筈だ。そうなってたらこんな事にならなかっただろう。ヒビキとコトネも、俺の元に留まらなければ危険な目に遭うことは無かっただろう。きっと俺のせいで、イレギュラーな俺と関わったせいで、皆が事件に巻き込まれた。
 そう言った所で誰も信じないだろうな。なんの確信もなければ、証明もできないから。ただ、俺だけが知ってることが幾つもある。……ああ、こういうのって精神病にありがちな症状なんだっけ? 俺だけが知ってる、俺は未来が見える、って。

「気にしすぎなんだって。リョウくんは助けようとした。僕らはそれを知ってるし、コウキもわかってると思う」

 違う、ピチューのことだけじゃないんだ。そう白状してしまいたいけど、それは出来ない。だってどう説明するんだ? 俺がヒビキの未来を知ってること。俺は本来ならこの世界の住人じゃないって事。荒唐無稽な話、誰が信じるんだ? 精神病棟に入院させられた、それが答えだろう?
 励まされれば励まされるだけ罪悪感が噴出する。俺、なにやってるんだろ。

 俺はただ元の世界に帰りたいだけだった。シンオウへ行って時間と空間と言う、人知を越えたポケモンに会って。望んだのはそれだけだったはずだ。その結果、元の世界に帰れないとわかったら、それを受け入れるつもりだった。ただ、宙ぶらりんな現状が嫌だったんだ。
 そして、それまでの旅を楽しく過ごそう、そのために多少の寄り道はしよう、未来を知ってるからきっと上手くやれるって思っていた。それが裏目に出たって事なんだ。いや、違うか。馬鹿だったんだ。なんて甘いこと考えてたんだろう。

 ……ヒビキたちは、俺の失態を許してくれた。話してない事が多すぎるし、償いきれたとは思ってないけど、良好な関係は維持しようと努力すればほぼ確実にそうなっていくだろう。けれど、ピチューのことは、もう取り返しが着かない。コウキももう俺に任せようとは思わないはずだ。償いは、どうしたらいいだろう? ああ、メリープだってそうだ。洞窟にトラウマ持ってちゃ、冒険してるトレーナーの手持ちなんて務まらないだろう。あんなに人懐こくて、人と居るのを楽しんでいる子なのに。ああ、これから先もどうしたらいいんだろう。俺の選ぶ道によって、もしまた他人に取り返しの着かない事が起こってしまったら?
 恐い。嫌だ。俺はただ、のんびり好きな事して生きて行きたいのに、なんでこんな事になっているんだ。

 この世界が現実だって、ようやく理解した気がする。この世界がゲームと似通ってるからって、俺はゲームをプレイしている気分が抜け切らなかったのだろう。怖いことが起こったとしても、取り返しがつくような気がしていた。イベントのフラグとか、布石とか、そういう甘い認識がどこかにあった。そう、今更ながら思い知った。
 ここは子供の頃に憧れた、楽しい冒険とハッピーエンドの希望溢れる世界じゃない。物語りの中の綺麗な世界じゃない。俺はヒビキの未来を知ってるとしても、俺は俺の未来を知らず、現状どうしてか危険を引き寄せている気がする。
 それに、ポケモンが代理を担っているとはいえ、暴力がとても近くにある世界だ。元の世界でやっていた、服の販売と服作りをしているだけでは決して踏み込むことのない、直接的な暴力に寄る勝負の世界。本気の殴り合いなんてした事のない俺は、これに耐えられるんだろうか?

 また自分の思考に沈んでいた事に気づいて、いつの間にか俯いていた視線を上げる。ヒビキはただ静かに俺の言葉を待っていてくれたようだ。受け止めようとしてくれるその心の広さと穏やかさが、今は辛かった。
 俺を許さないで欲しい。責めて、断罪して欲しい。それで、もう二度と俺を見ないで欲しい。見捨てられたら、俺は自分を責めることをやめて、楽になれるのに。大事なものをリセットしてしまえるのに。
 辛いことなんか大嫌いだ。報われない苦労も、取り返しのつかない怪我も嫌だ。嫌だ、嫌だ、これが現実じゃなければいいのに。

 現実逃避を続ける思考を無理やり押しやる。感情的になるあまり、情けない事に喉が引きつった。こんな感情的で女々しいところ、他人に知られたくない。声が掠れないよう、ゆっくり呼吸を繰り返して感情を落ち着かせる。

「……ありがとう」
「……ううん」
「でも、ごめん。ちょっと、まだ立ちなれない。ごめん」
「うん」

 ヒビキはそれ以上何も言わなかった。ヒノアラシとココドラが心配そうに覗き込んでいる。背中に掛かる暖かな重みが増して、俺は泣きたいのを堪えるので精一杯になった。
 病院でなんども思った事が、久しぶりに心に浮かんだ。
 なんで、俺はここに居るんだ?