祠の少し手前には障害がある。ゲームだと一本の細い木で塞がれていたが、現実では普通の木の間を細い木が埋め尽くしていた。その細い木は非常に硬く、再生力が異常らしい。根元から切られても30分もすれば1mは伸びてしまうとの事だ。とんでもない再生スピードである。ポケモンかってんだ。
 鋭い断面を見せながらもひざ下まで伸びたそれの前で、ヒビキがマダツボミを出した。

「頼むね、居合切り!」

 マダツボミの、植物の根っこのような細い手が腰に据えられた。その手を、すうっと透明な刃が覆うのを待って、マダツボミは居合抜きのように腕を振り抜く。スパン、と細い木が切り落とされて、人一人が十分通れる間が出来た。ヒビキはお礼を言ってマダツボミをボールに戻す。

「さ、行こ。コトネー」

 ヒビキ、ヒノアラシに続いて細い木の上を跨ぐ。

「目えあけたまんま寝てんの?」

 チコリータ、イーブイ、ピチューが越えるのを見守っていると、ヒビキが呆れたように言った。振り返ってすぐそこにある祠を見やると、祠の前でコトネとマリルが微動だにせずつっ立っていた。彫像かってくらい動かない。だるまさんが転んだだったら、一部の隙もない完璧っぷりだった。ふむ、これは何が何でもあそこから動かしてやらねばなるまい。

「コトネちゃーん、こまねちー!!」
「ぶふっ、りょ、リョウくん」
「笑わねえな。くっそ、負けるか」

 ヒビキは一発で吹き出したと言うのに、今日のコトネは強敵だ。しかし一度のチャレンジで挫けるような俺ではない。目を寄せて歌舞伎役者のように厳しい表情を作りつつ、ガニ股で足を進める。ヒビキがコトネの表情の変わらなさにすっげー、と感想を漏らしながら自分はげらげら笑っていた。ううーん、ヒビキとどっこいどっこいの素直さはどこにうっちゃってきたと言うんだ?
 疑問を抱きながらも白目を向いて舌をレロレロと動かしながらひよこ走りを披露した。ヒビキは爆笑しているというのに、コトネとマリルの表情筋はピクリとも動かなかった。んー? なんでだろ、目を開けたまま気絶でもしてんのか?

「コトネちゃん?」
「……コトネ?」

 流石に可笑しい。悪ふざけを引っ込めて近付く。ざ、と、風で揺れるのとは違う葉が擦れ合う微かな音が背後でした。

「ぎゃっ」
「がっ」
「あ!?」

 どん、どん、と何かを叩きつける鈍い音が二発。振り向いた俺の目には倒れ伏したヒノアラシと、吹っ飛ばされていくチコリータが見えた。草むらに突っ込んだチコリータを追って、いつの間にか現れたエルレイドが跳躍する。突然過ぎるこの状況にヒビキは硬直していた。
 イーブイがその場を飛び退こうとする。イーブイに向かって、歪んだ空間が迫る。そうとしか言いようのない、蜃気楼のように景色を歪ませるなにかが宙を真っ直ぐに進む。それがイーブイに到達した。瞬間、その歪みはイーブイを捕らえるような動きを見せて、イーブイは空中で見えない力に叩き落とされたようだった。悲鳴一つ上げず地面を転がる。
 その四肢は完全に力を失っていた。側にいたピチューが頬から放電している。けれどそれは戦う意思の表れでなく、怯えからくる感情の高ぶり。震えて動けないピチューを助けなくては。
 俺が動こうとする前に、ピチューの横合いにテレポートしてきたサーナイトが濃い黄色の小さな体を掴み上げた。

「なっ、離せ!」
「が……ぁ」

 漸く反応が追いつき始めた俺が遅ればせながら叫ぶと、サーナイトは俺を睨み付け、掴まれたピチューが苦しそうに呻いた。小さな体は片手で強く握られている。やめさせなければ。
 飛びかかろうと走り出した俺を冷たく睨みつけて、サーナイトはテレポートで逃げてしまった。

「ピチュー! サーナイト!!」
「びぃぃぃいいい」

 2匹の姿を求めて視線を巡らせる。ポケモンらしき鳴き声がして、びゅううと風が悲鳴を上げた。音の方向へ振り向く。サーナイトとピチュー、それから緑色の小さな体に青い眼と半透明な青い翅を持つポケモン、セレビィが居た。
 セレビィはサーナイトの正面で小規模な竜巻を作り、その中に無数の葉を高速回転させていた。それを躊躇なくサーナイトへと繰り出す。サーナイトは間一髪、テレポートで姿を消した。葉を内包した竜巻、たぶんリーフストームだろうか? とにかくセレビィの出した技が無人のそこを通り過ぎて、やがて消滅する。

「逃げてリョウ!!」
「ぴ、ちゅうう!!」

 コトネの声。この勇ましい声は本当にピチューか? そう思った瞬間、俺は体当たりされて吹き飛んでいた。着地しようとした足がぐにゃりと曲がって痛みが走り、そのまま無様に地面を転がる。転がった衝撃、次いで強かにぶつけた肩に痛み。ばちばち、と電撃が弾ける音を聞いた。ピチューが攻撃したのか? 疑問の答えを得る前に、どさ、と後ろで誰かが倒れた音がした。
 あちこちからずきずきと伝わる転んだ痛みを無視して顔を上げると、そこはにらみ合いの膠着状態になっていた。コウキの色違いピチューを抱えたサーナイトに向かって、片耳の先にぎざぎざのおしゃれ毛があるピチューが歯を剥き出しに、頬から放電しながら威嚇している。さっきの勇ましいピチューの声はどうやらギザ耳ピチューだったらしい。
 セレビィはコトネの前に浮かんで瞑想するように目を閉じていた。サーナイトの腕の中で色違いピチューが声もなく震えている。取り敢えず酷く痛めつけられてはいないようだ。

 立ち上がろうとして、足に走った鋭い痛みに息を詰めた。さっき転がされた時、思ったよりひどく足首を痛めたようだ。左足に体重をかけないように立ち上がって辺りに視線を走らせる。
 イーブイがゆっくりと立ち上がるところだった。多分、瀕死か、それに近い状態なのだろう。足の痛みを無理やりこらえてイーブイの隣へ立ち、モンスターボールを確認する。HPは1。とっさに堪えるを使ったのだろう。
 ヒビキの前にはいつの間にかココドラが現れていたが、エルレイドが跳躍してその体に素早く蹴りを入れると、抵抗する暇もなく転がって気絶したようだった。ヒビキがマダツボミを出す。ココドラを戻す間にマダツボミは吹き飛ばされた。今まで対戦した誰よりも素早い決着だった。レベルが違うのだとわかる。

「みんな……くそっ」

 ヒビキは次のポケモンを出さなかった。いや、出せないの間違いだろう。きっとさっきの誰かが倒れる音はポッポだったのだろう。

「モチヅキ、ヒビキを」
「ぶぅぅぅいっ!!」

 助けるんだ、と言う前にイーブイが飛び出していく。敵わないだろうけど、時間稼ぎにもならないだろうけど。何もしないでいる事は出来ない。

「走れヒビキ!!」

 はっとしたヒビキが走り出す。こちらに向かって。

「ちが、助け呼んできて!」
「あ」

 食ってかかったモチヅキがじたばたを繰り出して、けれどエルレイドはそれを防ぐ事なく、煩わしそうに振り払う。イーブイはその手に噛み付いて攻撃を続けて、頑張って時間を稼いでくれた。その隙にヒビキが反転して全速力で駆けていく。イーブイが地面に叩きつけられて呻いた。
 エルレイドが跳躍した隙に俺はイーブイをボールに戻して、鞄を探る。ハヤトが弁償してくれた元気の欠片が3つあるのだ。回復して、イーブイには悪いけどもう一度時間稼ぎをしてもらう。ヒビキだけでも逃がさなくては。
 ボール越しに元気の欠片を使う。みるみるうちに回復していくが、エルレイドの手はもうヒビキを捕まえようとしていた。

「逃げろ!! 頼むモチヅキ!!!」

 回復仕切るのを待たずにボールを投げた。エルレイドはヒビキにタックルを仕掛けて押し倒してしまう。イーブイはボールから出るなりエルレイドの背中に飛びついて手足をむちゃくちゃに振り回した。けれど威力の落ちたじたばたは、レベル差も体格差もあるエルレイドにとっては対したダメージにならなかったらしく、イーブイは振り払われた。そしてエルレイドの追撃。

「ぐがっ」
「モチヅキ!!」

 また地面に力いっぱい叩きつけられて、イーブイは気絶した。こうなるのはわかりきっていた。だからさっさとボールに戻そうと構えていたのだが、エルレイドが無造作にヒビキを掴み上げた事で俺は頭が真っ白になった。そんな、どうする気だ。
 間に合わないだろう。それでも見捨てるわけにはいかない。一拍怯んでから痛みを覚悟して走り出した俺に向かって、エルレイドはヒビキを投げて寄越した。なすすべもなく俺たちは衝突してもつれ合うように倒れる。足だけでなく全身に痛みが走って、もうどこが痛いのかわからなかった。

「ったぁ、リョウくん平気!?」
「っ、ああ、いや、足が」

 会話はそこで途切れた。突然、2匹のポケモンが現れたからだ。反応する間もなく、ヒビキはエルレイドに、俺はサーナイトにつまみ上げられた。

「ヒビキ、リョウっ」
「みみろっ」

 コトネとミミロルが心配そうに叫んだ。ああ、マリルはやられてしまったのだろうか。
 セレビィは静かな瞳で俺を、いや、サーナイトを見据えているようだった。ギザ耳ピチューは目尻をきりきりと釣り上げて愛らしいはずの顔を威嚇の形に歪めて、親の敵のように何故か俺を睨みつけていた。なんだってんだいったい。つか、何が起こってるんだ?

「びぃ、れびい」
「サーナ、サーナィ」
「びぃぃぃぃ……」
「ナィ」

 サーナイトの声は鈴を転がすような、澄んだ声だった。唾棄しそうなほど荒々しいギザ耳ピチューにもつんと澄したような印象の声で返答をする。ミミロルはコトネを背中に、そのやり取りを緊張の面持ちで見守っているようだった。
 人間おいてけぼりで暫く言葉を交わした3匹だったが、サーナイトがミミロルに何事かを告げて、それをミミロルが了承して話し合いは終わったようだった。ただ、ギザ耳の眼力が半端ない事になっていて、何故か俺が睨まれた。あんなちっこいのに、凄みがあって怖い。
 俺とヒビキが解放される。近づこうとしたコトネをミミロルが止めた。きっとサーナイトが要求したのは、コトネを止める事だったのだろう。サーナイトはそのまま、片手に色違いピチューを抱えたまま進み始めた。

「返せ、その子は」
「リョウ、くん? ああっ、もしかして金縛り!?」

 サーナイトに手を伸ばした所で金縛りにあった。コンクリートで固められたらこんなだろうか、と思うほど動けない。呼吸と瞬き以外はままならない。自分がこの状態になって気付いた。再会したコトネもこの状態になっていたのだろうと、漸くわかった。
 動きかけたヒビキの顎をエルレイドの拳が捉えた。視界の端でヒビキは仰向けに倒れていく。

「きゃあああっ! ヒビキー!!」
「サーナイ、サナサーナィ」
「みみっ、みみろぉっ」
「れびぃ、びいれぇび」

 駆け寄ろうとしたコトネにサーナイトが冷たい声を浴びせ、ミミロルが必死にコトネを引き止める。セレビィも止めるような素振りでコトネに話しかけた瞬間、エルレイドが跳躍した。それに気付いたセレビィがコトネを背中に庇うと、サーナイトが空の手を突き出して握るような仕草をした。それに合わせて俺の首が締まる。ああ、このサーナイトは俺が苦しむのを見せて、セレビィにエルレイドの邪魔をさせないつもりなんだ。

「ビイィ! レビイ!」
「え、なに? え? あ? リョウ、くん?」

 首を締められるのはこれで三回目になる。こんな事に慣れるなんて嫌な事だが、少しだけ冷静さを保てていた。苦しくはあるのだが、気を失う寸前は頭が真っ白になって何も考えられなくなるんだ。ドラマで見る窒息死は怖いものにしか思えなかったが、実際に自分がやられるとなると、なかなか悪くない死に方だと思える。少なくとも痛みはあまりないのだから。

「いや、いやああ!! や、めて、リョウ、リョウ、リョ、う、りょ……」

 手足が痺れて感覚が消失する。白いノイズに覆われ始めた視界の中で、エルレイドがコトネを押さえ付けて顔を覗き込んだ。コトネの声が途切れ途切れになっていくのは、コトネが何かされていて声が小さくなっているのか、俺の意識が遠のいているのか……。

「ヒュッ、はぁ、がっ、えほっ、げほ、げほっ、え、うっ」

 急に新鮮な空気が入ってきてむせ返った。ついでとばかりにえづいてしまい、ちょっと吐きそうにもなる。そして続いて体が自由になった。けれど俺は動けない。直前まで意識を失いかけていたせいか、感覚の殆ど無い手足だけでなく体に自体に力が入らなかった。立ち上がろうとして前のめりに転んでしまう。

「ま、て。ぴひゅう、げほっ、ぴちゅーを、げほっごほっ」

 口がうまく回らない俺を、サーナイトが凍りつくような、憎み蔑むような冷たい瞳で一別した。

「サーナイ」
「びぃ」
「待て、待てってば」

 力を込めて身を起こす。体が震えているのは、ダメージか、恐怖か、異常な事態に見舞われたための高揚か。
 ピチューはコウキから預かった大切な子だ。それを連れて行かせるかよ! ピチューが攫われたら、俺は、コウキは、ピチューは。

 エルレイドが動いた。攻撃されると分かったのに、俺はよけられず強かに鳩尾を殴られた。衝撃、激痛。開けているはずの目の前が真っ暗で、その中を光が弾けて、星が爆発したみたいな光。痛くて、苦しい。我慢しようのない吐き気がこみ上げた。逆流した胃酸が胸を焼く。堪える間もなく、胃の中のものが吐き出されていく。食道が胃酸に焼かれて沁みた。口の中が苦くて酸っぱい。
 気付いたら俺は倒れ伏していた。痛みに思考が奪われている間に倒れたらしい、と、遅れて理解する。腹が痛くて気持ち悪い。いつの間にか嫌な汗が吹き出ている。足首、折れたんじゃないかってくらい痛い。ああ、そんなことより、サーナイトとエルレイドが、セレビィとギザ耳ピチューを従えて、コウキから預かった大事な、臆病になってしまったピチューを連れて行ってしまう。

 助けなくちゃ。痛い。助けなくちゃ、痛い助けいた――

 思考が渾然となって行き、そのまま俺は意識を失った。