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【鶴舞公園の花菖蒲と紫陽花】

【鶴舞公園の花菖蒲と紫陽花】6月2日

 近くの喫茶店でのモーニングブログタイムを終え、哲学をするために歩きに出掛けた。
 地下鉄の伏見駅で乗り換えて庄内緑地公園へ。
 園内には沢山の遊歩道があり、オイラは一番外廻りの道を歩いた。
 沢山の老若男女が歩いたり走ったり、自転車に乗っていたりと、みんな体を動かすことを楽しんでいた。
 バラ園にもまだまだ花は咲いていて、中国の人たちが沢山集っていた。
 オイラの頭の中では「後継者」、「弟子」たちに伝えるべき内容などが次々と浮かんでいた。
 園内の歩きを終え、地下鉄に乗った時に、
「これは鶴舞線じゃないか。
 そのまま鶴舞公園にも行ける!」
と解ったのだ。
 で、鶴舞公園の花菖蒲池に足を向けた。
 岡崎東公園の五分の一ほどの大きさしかないが、花の半分くらいは咲いていて、沢山の人たちが花を愛でに来ていた。
 池の畔では茶会が開かれていた。
 オイラも一服戴いた。

 なかなか楽しい歩きと哲学タイムを持てて良い日になった。

禅的に伝える?

【禅的に伝える?】

 「気功は禅の一種です」
とオイラは考えている。
 というより、気功だけでなく、ヨガも太極拳もあらゆる芸能、芸術も、全ては禅の一種なのだ。
 禅とは何か。
 心を今していることのみに向け、心と体を統一させ、静かで穏やかな心と体を獲得していくことだとオイラは理解している。
 只管打坐と言って、禅の修行をする僧たちは、只ひたすらに坐ることに打ち込み、禅としての目的を達成させようとする。
 それはオイラたちも同じことで、只ひたすらに、今していることのみに打ち込んでいくのである。

 さて、この禅としての気功を伝える場合、二つの伝え方があるように思っている。
 一つは、禅がそうであったと言われているように、お碗になみなみ入った水を一滴もこぼすことなく、即ち、何も加えず、何も引くことなく、丸ごとそのまま伝えていくという方法だ。
 もう一つは、その本質的なものだけを伝え、そこに様々な工夫を凝らして付け加えていくのは、伝えられたその人の自由に任せるという伝え方だ。

 オイラ自身、気功の本質についても、ふぁんそんや体の使い方についても誰かに教えられた訳ではない。
 だから、オイラは気功の丸ごとが何であるかを知らないし、従って、気功の丸ごとを伝えることは出来ない。
 オイラが学び、身につけてきた理論や技を伝えることしか出来ないのだ。
 あとは、そこに何を付け加えていくのか、いけば良いのか、それはオイラが口出しすることではない。
 オイラが伝えられるのは、オイラが探究し積み上げてきた気功の理論と技だけなのだ。
 しかし、これさえ伝えられていない。
 さて、どうしたものか。

 最後に、般若心経の最後のマントラ(真言)を記して、オイラと未だ見ぬオイラの後継者たちへの応援メッセージとしておこう。

 ガティー、ガティー(達成した達成した)
 パーラガティー(最高のレベルまで達成した)
 パーラサンガティー(落ちることのない最高のレベルまで到達した)
 ボディ、スヴァーハー(その実践的な到達や直観的な気づきが成就されんことを!)

何を如何に伝えるべきか?

【何を如何に伝えるべきなのか?】

 何人もの人から聴いた話だが、オイラが伝えている気功は、かなり異質のようなのだ。

 独自性があるというか、本質的であるというか、オイラにも上手くは言えないが、本当に気功というものを理解し、気功そのものを伝えているようだと言われるのである。

 これはオイラが「気功とは何か、何をすることなのか」について論理的に、哲学的に探究し、他の全国的に名を上げている先生方の伝え方などを批判的に吸収してきたからかも知れない。

 気功は形ではない。
 呼吸や体感への没頭を基本に据えた内気の訓練である。
 しかし、その成果は形でしか表せない。
 オイラの尊敬する湯偉忠(タン・イチュウ=タン・ウェイツォン)師がオイラに伝えてくれた言葉のように、「気功はチレイ(綺麗)じゃないとダメ!」
ということなのだ。

 言っちゃー悪いが、大抵の先生は、気功の本質である「呼吸と体感への没頭」についての具体的で実践的な指導については、出来ないのかしないのかは判らないが、していない。
 気功の本質への理解が無いか、伝えるべき理論と技を持ち合わせていないかのいずれかである。

 だとするならば、オイラが伝えなければならない課題は、気功の本質的な課題である「呼吸と体感への没頭」を土台に据えた上での「緩感貫採練・かんかんかんさいれん」の理論と技、そしてそれを体現化(具現化)した気の舞的な作品(功法)と自由舞である。

 オイラが気功を習い始めて一年後に教室に入ってきた夫婦が、後からオイラに話してくれた言葉を思い出す。
 「私たちね、みなさんが大雁功を舞っている時の和気さんを観てね、あんな風に舞えるようになりたいわねって二人で話していたのよ。」

 実は、オイラも湯さんの舞を観て、彼のように舞いたいと感じ、そこをベースに気功を探究してきたのかも知れない。

 だからこそ、放鬆を大事にして、ゆるみの技である「ふぁんそんテクニック」を理論化することが出来るようになったのだ。

 このオイラが探究してきたものの総てを伝えていく必要があることは解っているのだが…、さて……??
"(-""-;)"

6月2日(日)

【気功を伝える?】6月2日(日)

 みなさん、おはようございます!

 今日の名古屋は曇り空。
 最高気温も25℃で、これは夏日だけれど、ラクに過ごせそうです。

 オイラ、月に一度の仕事のない日曜日です。

 のんびりとモーニングに行って、人が余りこないところに行こうかな?

 今日は、気功を伝えるということについて考えようと思っています。
 何故?
 突然?
 多分、年齢的に真面目に考えないといけない時期に来ているんでしょうね。

 ということで、みなさん、今日の一日、哲学しながらお過ごし下さいませ。
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